遠回りして帰ろう

惟風

最低のチキンレース

 マティスは旅人だ。背中に元魔王の入った鞄を背負い、世界各国を旅している。

 旅の理由は様々だ。見識を広めるため、人助けのため——失恋のため。

『最後のはあんまり認めてないよね』

 元魔王は鞄の中からマティスに話しかける。頭蓋に直接響くような独特の声をしている。

「いえ、恋に破れたことは自覚しています。再チャレンジに燃えているだけで」

 答えるマティスはいちいち背中を振り返ったりしないので、側から見ると大きめの独り言を呟いているようにしか見えない。

『じゃあ帰ったらもう一度アタックするの? ストーカー扱いされない?』

「無策でぶつかって行っても相手にされないでしょうね。なので、少し別の角度から押していこうかと」

 額に滲む汗を押さえながらマティスは前方を見据えた。

『そっか まあ、頑張ってみたら良いんじゃないかな でもその前にここから出ようよ』

「そうですね。さっさと用を済ませて急ぎましょう」

 マティスはオールを握り直した。


 マティス達は小舟に乗って巨大なサメの腹の中を漂流していた。

 クソデカ・シャークだ。

 それは超巨大なただのサメだ。


『ここで何するつもりなの?』

 サメの広大な腹の中はじっとりと蒸し暑く、マティスの体力を着実に削っていく。比べて、鞄の中の元魔王の声は随分元気そうだ。砂漠地帯の出身ということで暑さには強いらしい。

「肝を手に入れたいんですよ」

 オールを漕ぎながらマティスは答える。胃壁の終わりにまで来ていた。

『また面倒そうなものを……』

「そこの斜め上辺りをお願いします」

 溜め息をつきながらも、元魔王は鞄から触手をはみ出させる。ここからは人間には難しい作業だ。マティスの身長の何倍もの長さに伸ばした触手でサメの胃壁を貫き、巨大なサメの巨大な肝臓を切除する。

 もちろん大・シャークは突然の激痛に身を捩らせ、小舟は嵐の中のように激しく揺さぶられる。あっけなく転覆し、脆弱な人間に過ぎないマティスは胃酸の海に放り出された——かに見えた。


 哀れな大・シャークの腹を触手が突き破る。断末魔をあげながら沈んでいく大・シャークに穿たれた穴から、薄桃色のゼリー状の球体が飛び出した。


「ありがとう、助かりました」


 薄桃色の球体の上部が割れ、中からマティスが顔を出した。

『泳ぐの苦手だから 揺れると思うけど我慢してよ』

 薄桃色の球体全体から元魔王の声は響いていた。目も鼻も口も、手足も胴体も無い元魔王は、そのまま陸地を目指して泳ぎ出す。

 どんな形にもなれ、どこにも死角は無い。どんな攻撃も通らない。

 無敵の元魔王は、しかしその力を世界に突き立てることなく一人の人間の友人として鞄の中に収まっている。


『ところで、サメの肝なんかどうするのさ』

「媚薬の材料として使います。残念ながらこっそり飲ませるのは今のところ違法なので、どうやって彼女に自分から飲んでもらうように仕向けるかが目下の課題なのですが」

『未来永劫違法だよ』


 元魔王は収穫したばかりのサメの肝を自分の体内に吸収した。マティスに散々文句を言われたが、『こんなものなくてもきっと彼女はマティスの魅力に気づくよ』の一点張りで押し通した。念の為、進行方向を件の彼女の住む国とは反対にして航海を進めた。できる限りの全力で遠回りして帰る。

 マティスは「確かに、前回は自己アピールが足りなかったかもしれません」とまんざらでもなさそうだった。(恋愛に関しては)馬鹿で良かった。(恋愛に関しては)馬鹿で怖かった。


 旅人マティス。彼が檻の中に入れられるのが先か、元魔王が討伐されるのが先か。元魔王の目下の心配事がそれである限り、世界は平和である。

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遠回りして帰ろう 惟風 @ifuw

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