駄文『エッセイ・コラム』

熊埜御堂ディアブロ

面白いと読まなくなる

 本来、読者は動機を持って本を開く。

 動機がある読者なら話は終わりだ。


 まぁ、動機すらない読者が本を開いたとする。


 目次を飛ばして、書き出しをまずは見る。

 書き出しは、世界一大事だ。

 これが第一印象になる。


 技量が見られる。雰囲気が求められる。

 嫌われない約束事が求められる。


 読み手が消費者なら、引っ掛かる感触があるかを見る。

 読み手が書き手なら、自分の技量と比較する。


 これが違えば閉じられる。二度と開かれることはない。

 義務感のない読者は、そんなものだ。

 挨拶されず素通りした人と同じになる。


 そこを通過した作品があったとする。

 「これはいいぞ!」


 よい長編の場合。

 読み手にとってのタスクとなる。

 日々で付き合う顔なじみになる。

 デイリーで巡回するゲームになる。

 登録したチャンネルになる。

 毎週追うアニメや番組になる。

 週刊誌の一作品になる。


 タスクになると、きっと何話かは続けて読む。

 そこにある面白さを読み取ってくれる。


 それからは作者との面白さの「対話」が始まる。

 いや「対局」「対戦」と言ってもいい。

 読者の面倒臭さと、作者の面白さが、正面衝突する。


 ここを通過したら、もう友達だ。

 大抵の事をしても許される。


 よい短編の場合。

 すまん。短編はまた話が変わる。

 よい短編は、読み手の記憶に残るのだ。

 日常生活、非日常、悩みや夢や希望や苦しみ。

 そんな人生の機微に寄り添う記憶となる。

 わたしは短編が好きなので、こちらはまた別で話す。

 一生かけても忘れない短編こそが良い短編だ。


 よい長編に話を戻す。

 友達となった読者。

 では、作品をどう読んでいるのか。


 実は

 腰を据えて読みもしない。


 こだわりの一文字も、文脈も、順番も。

 読者はそんな読み方をしない。

 するならそれは、書き手だけだ。


 欲しいのは、邪魔しないこと。

 不要な単語は消せ。

 不要な行は消せ。

 不要な情報は消せ。

 不要な人物は消せ。

 不要な演出は消せ。

 そういう想像の邪魔が、読者は大嫌いだ。


 リズムのいい文章にしろ。

 一意な文章にしろ。

 読み飛ばしても補完しやすい文章にしろ。

 簡明な文章にしろ。

 空気感のある文章にしろ。

 意味のある文章にしろ。


 必要な情報をかけ。

 欲しい演出をよこせ。

 場面に意味をつくれ。

 メタのない場面はやめろ。


 読者は基本、面倒くさい。読むのを常にやめたがっている。


 そして「わがまま」のオンパレードの中で。

 我慢させられた作品がある。

 何が起こるか。


 文字を読まなくなる。

 行も読まなくなる。

 それは「面」として読み取られる。

 漫画を読むように、文字の全体の印象だけで。

 なんとなくで物語がなぞられる。


 なんで!

 こっちのこだわりも知らずに!

 100時間かけたものを1時間で吐き捨てるんだ!


 しかし、それでいい。

 それは、つまるところ、面白いのだ。

 面白いから、読まなくなるのだ。


 読まない時、読み手は作品と共鳴している。

 文字を文字と受け取らず、想像のための情報とする。

 その情報を頭の中で、面白さのために組み立てる。

 文字は物語の設計図だ。


 しかしどんなに面白い作品でも。

 設計図として優秀は小説であっても。

 それはやっぱり読まれない。

 読者はわがままだから。

 読者は、欲しい物語しか受け取らないのだ。

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駄文『エッセイ・コラム』 熊埜御堂ディアブロ @keigu_vi

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