第3話:河畔のエルザ

 メイジーに脅された割に、魔物に遭遇することもなく、ルイスたちは無事にハンス河に辿り着いた。

 緩やかな流れの大きな河が、大地に横たわるようにして流れている。河岸を歩くと、水の流れる音がしてなんとも心地がいい。アリスの痕跡はないかとあちらこちらを見渡しながら歩くルイスに、メイジーは「もうちょっと落ち着いたらどう?」と苦笑した。


「すまない」

「まあ見慣れない景色でしょうけど」


 たしかに、とルイスは頷いた。河岸には緑豊かな木々が生えていたり、遊歩道があったり花が咲いていたりするものだとルイスは思っていた。

 しかし、今歩いている河岸はそういったものとは全く異なる。ビビッドカラーの色とりどりなブニョブニョとしたキノコのようなものが生えていたり、発光するアヤメが生えていたり、裸の男女の像があったり混沌としていた。

 一体ここはなんなのか、何のためにああいったものが生えているのか、考えようとしたがすぐにやめた。


 ふと、目の前に純白のドレスに身を包んだ女性が蹲っているのが見えた。


「大丈夫だろうか」

「どう見ても大丈夫ではないでしょうね」

「声をかけてみよう」

「あっ、ちょっと――」


 メイジーの言葉を聞き終える前に、ルイスは女性に歩み寄っていた。


「どうしたんだ?」


 声をかけると、女性は顔を上げた。恐ろしいほどに美しい顔と、純白のドレスがよくに合うブロンドの髪。ルイスは息を呑みながら、彼女の顔を見ていた。彼女は一瞬だけギョッとしたような顔をしたが、すぐに穏やかな顔に変わった。


「追われているんですわ……私(わたくし)の夫に」

「旦那さんに? またどうして」


 ルイスに追いついたらしいメイジーが、問いかける。純白のドレスの女性は立ち上がり、川をただじっと見つめ、ぽつりと雫が滴り落ちるように言葉を紡いだ。


「ある日、弟のゴットフリートを森の散策に誘いましたの」


 彼女の言葉は、まるで歌うかのように静かに、そして叙情的だった。

 彼女の名前は、エルザ。父親はこの地域の領主であり、二人は必然的に次期領主候補だった。弟を森の散策へと誘ったその日、領主が死に弟も目の前で何者かに殺されてしまったという。


「一人で帰ってきた私に、私達の後見人のテルラムント伯爵はこう言ったの」


 弟殺しの犯人はエルザである、と。続けて、次期領主には自分が相応しいのだと、たまたま訪れていた不思議の国のハート女王の従者の前で宣言したのだという。従者はハート女王の元へと戻り、判断を求めた。

 ハートの女王は、エルザと伯爵の一騎打ちにより生き残った方を領主とすれば良い、と言い放ったという。


「ですが私は戦う術を持ちません」

「じゃあどうしたの?」

「夢に出てきた白鳥の騎士を指名しましたわ。信じてませんでしたけれど、本当に白鳥に乗ってやってきましたの」


 そうして白鳥の騎士は、テルラムント伯爵を殺した。これでエルザの容疑はなかったこととなり、エルザが次期領主に決定したという。白鳥の騎士とエルザは愛し合い、互いに求め合い、結婚した。一月前のことだ。


「ですが、彼とは一つ約束をしておりましたの」

「約束とはなんだ?」

「自分の素性を聞かないことですわ」


 しかし、エルザは彼の素性を聞いてしまった。


「だって、愛する人の全てを知りたいじゃありませんか……」


 すると彼は激しく憤り、エルザを襲ったのだという。エルザは恐ろしくなり、ここまで逃げてきたと。


「襲ってきた瞬間、彼が魔物になったのを見ましたの」

「つまり正体は魔物だったと?」


 メイジーの問いに、エルザは頷きで返す。


「きっと今頃、この先の街で私を捜索するために軍隊を……」


 魔物というのは、人間として振る舞うこともできるのか、とルイスは一人で納得した。同時に、このまま放っておくわけにはいかないとも思った。

 声をかけてしまった以上は、他人事のような顔をしていられない。ルイスはエルザと同じように川を見つめながら、静かに頷く。


「俺がその街に行って様子を見てこよう」

「ちょっと、ルイス?」

「メイジーは彼女を守ってやってくれ」


 メイジーはため息をついて、ルイスの肩を叩く。


「おバカ、三人で行ったほうが話が早いわよ」

「だけど、いいのか? 折角逃げてきたんだろうに」


 ルイスが問うと、エルザは少し俯いてから、顔を上げ、拳を握りしめた。


「わかりましたわ……どのみち、いつまでも一人で逃げられはしませんもの」

「よく言ったわ」

「わかった、では行こう。案内を頼む」

「わかりましたわ」


 三人は、ハンス河を西へと歩き始めた。エルザが言うには、この西側に領土があるという。その街の名前は、ハインリヒ河畔街。豊かな河の流れに支えられた、水の都だとメイジーが付け加える。

 メイジーも何度か行ったことがあるらしいが、彼女はどうやらハインリヒ河畔街が苦手らしい。

 その言葉に、エルザは苦笑した。


 ハンス河をしばらく西に歩いていると、日が傾いてきた。まだ街は見えそうもない。発光するアヤメが、暗くなってきた川の水面を美しく照らしている。生ぬるい風が、ルイスの頬を優しく撫でた。


「ここいらで休憩にいたしましょう」


 エルザが立ち止まり、小さな声で言った。メイジーは「そうね」と頷き、道端にある焚き火台に目をやる。手から炎を出して、焚き火台に火をつけた。

 ルイスが驚いていると、彼女は「魔法よ」と短く説明する。ここではそういうこともあるのか、とルイスは自分を無理やり納得させ、焚き火のすぐそばに座った。


「夜は街に魔物が増えるから、こういう街道のほうがかえって安全なのよ」

「そうなのか? 街のほうが安全そうなものだが」

「違いますわ、魔物の多くはソルト不足で狂ってしまった人間なのですから」

「そうか、それで街に……」


 メイジーが続けて説明するには、魔物は昼間は人間として過ごしている者が多いが、夜は人から塩を奪うために本性を晒すことが多いのだという。夜の街を無警戒に歩く人間たちを餌とするのだ。


「私とあなただけなら問題はなく突っ切れるでしょうけど」

「足手まといで申し訳ないですわ」

「俺も足手まといのようなものだ」


 頭を垂れるルイスの背中を、隣に座ったメイジーがポンッと叩く。その顔は愉快そうに笑っていた。

 事実、ルイスは足手まといだった。剣を提げてはいるが、ルイス自身に剣を扱った記憶などない。生前はもっと穏やかで、平和な世界に生きていた気がする彼にとって、腰の剣は飾りだった。もっとも、使わなければならないときが来れば、そのような泣き言は言っていられないだろうことは察していたが。


 突然、周囲に霧が現れた。河畔に立ち込める霧のなか、発光アヤメの光がぽつぽつと見える幻想的な風景だったが、メイジーが鉈を手に立ち上がるのを見て、ルイスもまた剣の柄に手を当てて立ち上がる。


「戦う意志はないにゃ」


 高く力強い声が霧に響くと同時に、何者かが姿を現した。紫色の体毛に覆われた、猫のような女性。人間のような姿と猫の姿が混ざりあったような、不思議な存在だった。


「アタシはチェシャ猫という者にゃ」


 チェシャ猫は、何が面白いのか、ニヤニヤと歯茎を出して笑っている。


「ルイス、全ての冒険は、最初の一歩が必要にゃ。だけど、本当にこの一歩で良かったのかにゃ?」

「なぜ名前を知っている」

「そんな疑問に何の意味があるにゃ? アタシがどう答えるか? それが問題じゃないんだにゃ、君がどう感じるか君がどう歩むか、全てはそこに集約されるのにゃ」


 ルイスは剣の柄から手を離し、頭を抱えた。彼女の言葉は、何を言っているのか理解できるようでまるで理解できない。意味のないことを言っているようにも、意味深なことを言っているようにも感じ、頭がどうにかなりそうだった。メイジーは鉈を持ったまま、彼女を睨みながら、「深く考えないほうがいい」と零した。

 チェシャ猫は大笑いをし、焚き火の近くに腰を落として猫のように丸くなる。


「この辺りの人はみんな狂っているにゃ、あいつもソイツもこいつもドイツも頭がおかしくなっちまって、お察しの通りアタシも狂っているにゃ」

「そうね」

「キッシッシ、君はまだ正気だにゃ赤ずきん、それにルイスも」

「今あんたのせいで気が狂いそうになっているが」


 チェシャ猫の言葉は脳が理解を拒んでいるように、内容があまり頭に入ってこない。しかしながら、チェシャ猫の声は恐ろしいほどに耳に心地よく、脳に浸透するかのように広がっていく。ルイスはその感覚に脳を揺り乱されながら、ただ焚き火を見つめた。


「おっと、繝ィ繧ー=繧ス繝医?繧ケが怒り狂ってるにゃ……そろそろお暇するにゃ」


 彼女の言葉に、一瞬ノイズが走った。何かの名前を呼んだようだったが、それが何かを聞き取ることができない。


 しかし、背に夥しい数の毛虫が這い回っているような感覚を覚え、ルイスは自身の身体を抱きかかえた。

 チェシャ猫は霧と共に消え、あたりは静けさを取り戻す。


 背筋の悍ましい感覚も薄れてきた頃、ルイスは唐突な眠気に襲われ、そのまま寝入ってしまった。



 ◇◇◇◇◇◇



 ここは、夢の中だろうか。ルイスの目の前に、書庫が広がっているのが見えた。書庫の中心にあるテーブルの席に座っており、目の前には青と白のロリータ服に身を包んだ少女がいる。家の中でもないのにエプロンをつけ、冷ややかな視線をルイスに送っていた。


「アリス」


 無意識に口をついて出ていたのは、ルイスが探すことになった少女の名前。記憶にはないものの、なぜだか愛おしく感じるその名前を口にした瞬間、目の前の少女の顔が突然真っ黒に塗りつぶされ、見えなくなった。


「だ、誰だ?」


 目の前の少女のような何者かはアリスではない。ルイスはそう直感し、問いただそうとするも、言葉は返ってこない。


「鮟堤セ翫�迚ゥ隱槭′邨ゅo繧顔ゥコ陌壹�迚ゥ隱槭′蟋九∪繧�」


 目の前の何者かが、金切り声を発した。それは声というにはあまりにも不可解で、あまりにも不可思議で、ルイスは咄嗟に耳を覆いたくなったが、なぜだか腕が動かない。抗えぬ嫌悪感と不快感に身を焼かれながら、ルイスは目の前の何者かの顔の漆黒が徐々に広がっていくのを見た。


「迢よー励?逅?ァ」」

「豁」豌励?荳榊庄隗」」

「繧「繝ェ繧ケ縺ッ縺?↑縺?」


 立て続けに発せられる金切り声。それが突然、不気味な笑い声に変わった。まるで抗えぬ恐怖に抗おうとするルイスを嘲笑うかのように、児戯を笑う親のように、笑い声が木霊する。

 笑い声が落ち着くと共に、世界は暗転した。



 ◇◇◇◇◇◇



 世界が明転すると、目の前にはメイジーの顔があった。無表情に近いが、微かに微笑んでいるのが見える。

 ルイスが目を覚ますと、メイジーはゆっくりと顔を遠ざけていった。ルイスはのっそりと起き上がり、伸びをする。よく眠れたような気がしなくもないが、何かよくわからない悪夢を見たような気もして、不思議な感覚だった。


 メイジーが用意したという簡単な食事をとってから、焚き火をそのままにしてまた西方へと歩き出す。消さなくてもよいのかというルイスの歩きながらの問いに、メイジーは「また後で説明するわ」とぶっきらぼうに返した。


 結局、魔物と一度も遭遇しないままルイス達はハンス河西側にあるハンス河畔街に到着した。

 ハンス河が街に流れており、そのまま水路となっているようだった。人々が生活をしている様子が見えることから、チャールズ街と比べると活気があるように思える。

 水路を中心として家々が並んでいるのを見るに、この河の恩恵を受けて豊かに暮らしているのがわかる。どうやらここが、エルザの父親がおさめていた街らしい。

 街の入口に、河岸では見なかった血文字があった。


『殺せ、後悔するぞ』

『殺すな』

『この先、殺害が有効だ』


 まるでこの後に何が待っているか知っているような血文字に、ルイスは身の毛がよだつ。殺せと書かれてあるが、誰をなぜ殺さなければならないのかは書かれていない。奇妙なのは、それぞれ筆跡が同じように見えることだった。これまで見てきたほかの血文字もそうだが、筆跡が似ている。

 しかし、相反する言葉が並んでいる。同一人物にしてはおかしなことだ。


「どうしたんですの?」

「いや、なんでもない」


 振り向き疑問を投げかけるエルザに、頭を振って答えた。ルイスはどこか後ろ髪を引かれる想いを抱えながら、先を行くエルザについていく。その隣を、メイジーが歩調を同じくして歩きだした。まるで、ルイスの不安に寄り添うように。

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