第2話:メイジー・ブランシェット

 目が覚めると、そこは見知らぬ森だった。何があったのかを思い出そうとしたが、記憶にモヤがかかっているのか、よく思い出せない。ただ覚えているのは、自分がルイスという名前であることと既に死んでいるということだけ。

 知識はある程度あるようだったが、これは別の世界での知識なのだろうという謎めいた確信があった。

 ふらふらと立ち上がり、周囲を見渡す。無数の木々に囲まれた森の中の、広場のようだ。広場には椅子や机がそこかしこに置かれてあり、地下への階段があり、焚き火台がある。焚き火台のすぐそばには街灯があり、その周囲を光の粒が飛んでいた。


「どこなんだ、ここは……」


 ふと、地面に文字が書かれていることに気がついた。文字は誰が書いたのかわからないが、とにかく赤くぬめっている。血文字のようだった。ルイスは顔を引き攣らせながら、その血文字を読んでみた。自身が生前使っていた言語とは違うようだが、不思議と意味がわかる。


『ここは無所属の森、どの物語にも属さない聖域……いやクソッタレの場所だ』


 この場所の名前はわかったが、それ以外の部分に関してはルイスにはよくわからなかった。

 再び周囲を注意深く見渡すと、東西南北に道が伸びているようだった。同時に、北側にも血文字が書かれていることに気づき、近づいて読む。


『信じるがまま進め。だが、容易く信じるな』


 書かれていることの意味はよくわからないが、とりあえずルイスは北側の道に進むことにした。


 北側に進むと、景色がガラリと変わった。無所属の森にいたときは無数の木々が続いているように見えたのに、今目の前に広がっているのは草原だ。木々もあるにはあるが、無所属の森から見えたほどではなく、広く開けている。

 そして、草原の中に赤いフードを被った少女がいた。彼女はほんの少し泣きそうな顔をしているように見える。目があうと、彼女はルイスに近寄ってきた。


「まさか最初にここに来るなんて――いやなんでもないわ、あなたも迷ったの?」

「そうかもしれない」

「私はメイジー・ブランシェット、赤ずきんと呼ばれることもあるわ」


 ふと、メイジーの手に錆びついた鉈が握られていることに気づき、ルイスは思わず後ずさった。


「ごめんなさい、怖がらせるつもりはなかったの」

「いやすまない、少し驚いてしまって」

「あなた、名前は?」

「ルイスというらしい」


 メイジーはこくりと頷き、「なるほどね」と呟き、鉈を背中に背負う。それから背を向け、歩き始めた。何がなんだかわからず立ち尽くすルイスに振り向き、メイジーはちょこんと首を傾げた。


「ほら、行くよ。この世界のことわからないんでしょ? 一緒に行きましょう」

「あ、ああ……」


 立ち止まって待つメイジーの隣に駆けて行く。

 しかし、行くと言ってもルイスはこれからどこに行くべきか、何をするべきかがわからなかった。曖昧な返事をしながらも横に並ぶルイスを見てか、メイジーはくすりと笑う。表情はほとんど動いていないが、わずかに口元だけが緩んでいた。


「ひとまず、あなたはチャールズ街に行くべきよ」

「そうなのか?」

「うん、そうなの。安心して、私はずっとあなたと一緒に歩んでいくから」


 そう言うメイジーの声は、不思議と、安らぐ声だった。少女の声にしてはほんの少しだけ低く、落ち着きのある声。ふと、先程の血文字が脳裏をよぎったが、彼女は信用してもいいような気がした。少なくとも、誰が書いたかわからない血文字よりは信用できるだろう、と。



 ◇◇◇◇◇◇



 ひたすら草原のなかを進んでいくと、鉄格子で囲まれた街があった。鉄格子に挟まれるように佇む重厚な鉄の扉を開けると、そこには活気があるとはお世辞にも言えない街の風景が広がっている。空気がひどく淀んでいて、ルイスは目眩がしそうだった。


「こっちよ」

「どこに向かうんだ?」

「私の家、とりあえずはね」


 一瞬、ルイスの足が止まる。名前しか知らない少女の家に行くというのは、気が引けたのだ。とはいえ、行くところもなく、この街の風景があまり好きになれそうにないからと、メイジーについていく。

 メイジーの家は、草原からの街の入口からほど近くにあった。多くの民家が立ち並ぶ地区の一角にある、赤煉瓦造りの家。そこがメイジーの家だった。


 家の中は、絵本の中から飛び出してきたような温かみのある雰囲気だ。この街には似つかわしくないと思うほどに。メイジーは暖炉に火をつけ、近くの椅子に座った。

 ルイスはメイジーに手招きされ、その隣の椅子に座る。暖炉の火が温かい。


「いきなりだけど、ルイス、あなたはアリスを探さないといけない」

「アリス……」


 その名前に、聞き覚えがあるような気がした。記憶がぼんやりとしているが、大事な人だったような気がして、胸がざわつく。メイジーは、そんなルイスの動揺を察してか知らずか、ほうとため息をつく。


「あなたの記憶を取り戻すためにも、それが必要なの」

「わかった」

「こんな説明でわかったの? 自分で言うのもなんだけど、私説明が下手で――」

「なんとなく、そうしなければならないような気がするんだ」


 言うと、メイジーは安心したかのように微笑んだ。ほんの少し冷たい印象があったが、実際はそうではないのだろうとルイスは思い直した。同時に、今すぐ出立しなければならないような使命感に急かされ、椅子から立ち上がる。


「もう行くの?」

「ああ」

「私もついていくわ。と言ってもアリスの心当たりはないから、まずは聞き込みだね」

「ありがとう」

「いいのよ、退屈だし――あ、ここは拠点として自由に使っていいからね」


 ルイスはまた礼を言って、メイジーと一緒に街に出た。居るだけで気が滅入りそうな街を少し歩くと、酒場があった。看板にビールが描かれており、一目で酒場だとわかるが、メイジーから「そこは酒場よ」と言われたので、すぐに理解できた。

 情報を得るなら人が集まる場所だろう、と酒場に入る。街を歩いても誰にも出会わなかったが、酒場には人がいた。カウンターに三人、給仕の女性が一人、マスターと思しき人がカウンター奥に一人。テーブル席は2階にあるようで、2階に集団客の姿が見える。


「あらメイジーちゃんいらっしゃい」

「アメリアさん、アリスがどこか知りませんか?」

「アリス? アリスってどこのアリス? 知らないかな」


 アメリアと呼ばれたバニーガールが、眉間を指先でトントンと叩きながら言った。


「そう、わかったわ。他の客にも聞いて回るけど、いい?」

「もちろんいいけど、何も頼まないの?」

「じゃあぶどう酒2つ」

「はーい」


 お酒なんて飲んでもいいのかと問うルイスに、メイジーは「いいのよ」とぶっきらぼうに返した。ぶどう酒を受け取りカウンターに座ると、これまで背を向けてばかりいた男が振り向く。男は、黒いウサギの顔をしていた。首から下は人間なのに、顔と耳だけがウサギだった。

 奇妙だと一瞬思ったが、この世界はそういうものなのだろうとすぐに納得した。そんな自分に驚きながら、ぶどう酒を煽る。


「マスター、アリスを知らないか?」


 ルイスが尋ねると、ウサギ男はふうと息を吐く。


「アリス? 白と青のロリータファッションのか?」


 言われてみれば、そんな服装だったかもしれない。そう思い、ルイスはこくりと頷く。


「あの子なら昨晩西のほうに向かうのを見たぞ」

「本当か?」

「ああ、家でもないのにエプロンを着てるだろ? 珍しいからな」


 早速手がかりを得て、ルイスはほっとしながら残りのぶどう酒を煽った。隣でメイジーが「西ね」と呟いてから、同じように酒を煽る。


「ありがとうクロさん」

「おう、今度は三人で飲みに来てくれ」

「ぜひそうさせてもらう」


 メイジーがなにか白い粉末をテーブルに置いて、席を立つ。訝しむルイスに、「ソルトよ」と短く答えた。なんでも、この国では塩が通貨の代わりらしい。もちろん、調味料としても使う。

 外にいる魔物を倒せば、魔物がソルトになるからメイジーはそれで稼いでいるのだと、メイジーの後を追って店を出ようとしたルイスに、クロが耳打ちで教えてくれた。

 ルイスはクロにお辞儀をし、白いバニースーツを着たアメリアに見送られながら酒場を後にした。店を出る瞬間、店の名前らしき文字が見えた。『しろいうさぎとくろいうさぎ』という店名が、ルイスには不思議と聞き馴染みがよかった。


「メイジーさん、西というと?」

「メイジーでいいよ、あとここから西と言えばハンス河があるわね」

「川か……」


 頷き、どんなところか想像しようと目を細めるルイスに、メイジーは人差し指を突き立てた。


「いい? ここからは魔物が出る可能性があるし、話してる人が唐突に本性を表して襲ってくることもある。くれぐれも命を落とさないように」

「ああ、わかった。どうやら危険な世界らしいな」

「そう、ここはワンダーランド、不思議の国。危険がいっぱいの恐ろしい世界なの」


 ワンダーランド、不思議の国。この世界に来てはじめて聞く名前だったが、やはりこれも耳馴染みがよかった。この世界のことが、生前いた世界でも何か伝えられているのだろうか、と考えてみたが記憶の扉は頑なに開こうとはしない。諦めて、前を行くメイジーを足早に追いかけた。

 見知らぬ、しかし大切な少女、アリスを探して。


 ふと、足元に血文字が見えた気がしたが、大して読むことなくメイジーの隣に並んで歩く。

 その血文字には、こう書かれていた。



『ウサギを信じるな』

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