第3話
「ただいま、少し遅くなりました」
住宅街にある家に着いた巳咲は自転車を停めて玄関を開け、中にいる専業主婦を務める母親に声を掛ける。
「お帰りなさい、新しい学校はどうだったかしら?」
「まだ探り探りって感じです。でも皆さん良い人達ばかりで、クラスの雰囲気も良くて、あれなら直ぐに馴染めそうな印象を受けました」
「そう、良かったわね。でもあまり無理しないでね」
「はい、ありがとうございます」
敬語混じりの辿々しい言葉遣いで巳咲は母である
「取り敢えず、手洗いうがいしてきなさいね。風邪も流行ってる事だし、詳しい話を聞くのはその後ね」
「はぁい」
優しい雰囲気をした母親はいつもニコニコと笑顔を絶やさない人で、産まれてからこれまで怒った姿を見たことがない。
もしかしたら喜怒哀楽の感情が無いんじゃないか等と思っていた巳咲だったが…去年の秋、病院のベッドで目を覚ました時に、自分の身体に覆い被さりながらしゃくり上げるように泣く母親を見て、その認識は間違いだったということに気付いた。
「空気の良い場所に引っ越してきたから、あの娘も落ち着いてくれるといいけど…」
今も心配そうに頬に手を当てて、洗面所へ向かう自分の姿を見送っている。
(心配ばかりかけてごめんなさい…)
チラリと後ろを振り返った巳咲はその事に気付き、左手首に付けられた黒いリストバンドを押さえ静かに心の中で謝罪をしたのだった。
▼
「少し、変わった男の子がいました」
「…お、おとこのこ?」
…カランカラン、カランカラン
月曜日の今日、巳咲よりも少し早めに新生活をスタートさせていた父である幸助は、未だ慣れぬ職場での疲れを癒す筈の一家団欒の夕食の場で、愛娘からまさかの一言を貰い持っていた箸を床に滑らせた。
「もう、幸助さんたら何やってるの」
「え?あ、いや、ごめん…」
事前に巳咲から情報を貰っていた妻『葉子』にやんわりと注意を受けた幸助は、上の空で謝罪をする。それでも何も言わず床に落ちた箸を拾ってくれる彼女は自分にとって出来すぎた妻であるが、今はそれよりも大事なことに気を取られ、謝礼を述べるどころではなかった。
「ど、どんな男の子だい…?」
ずり落ちた眼鏡を震える手で必死に上げて、ようやく絞り出したか細い声で質問を投げ掛ける。
「良く言えばクールというか、悪く言えば無愛想というか…とにかく私が今まで出会った男の子の中で一番大人っぽい人でした」
「へ、へ、へ~…か、格好良かったりもするのかい?もしかして…」
「世間一般的な目線で見ればそうだと思います」
ガシャン!
「幸助さん!!」
今度は気分を落ち着かせる為に一口飲もうとしていたビールが入ったグラスを手から滑り落とす。幸いにも床に落とすまでには至らなかったが、妻が丹精込めて用意した巳咲の初登校を祝う料理が並ぶ食卓を水浸しにしてしまい、優しい彼女から珍しく大声を上げられる。
「お、お母さんのそのような大きな声は初めて聞きました…」
プリプリと怒る妻を前に、大事な一人娘はこちらの心境など知らずしてそんな感想を漏らしている。これまで巳咲の口から率先して男子の話題が出た事はなくこれが初めてであった。
「あら、そうかしら?巳咲、悪いけどお皿上げて貰っていいかしら」
「は、はい。お、お母さん」
言葉尻の強い妻にビクビクしながらも返事をし協力してテーブルを拭く二人を前に、幸助はそれ以上の質問は恐ろしくてする事が出来なかった。
▼
深夜零時、相馬孝仁は昼間あった出来事が忘れられずベッドの上で無駄に高い天井をテーブルランプの薄暗い灯りのもとジッと眺めていた。
そこに何かある訳でもない、変わりに映し出されるのは「さようなら、また明日」と、深々と頭を下げる蛇ヶ崎巳咲の姿で…白のセーラー服を見に纏い、初めて見た巫女服以外の格好で膝丈辺りのスカートを
予想以上に低い身長で今の自分とは背丈が頭ひとつ分ぐらい違っていた。
「なあ…"あんたはかつてVtuberだった蛇ヶ崎巳咲本人なのか?"…なんて、聞けるわけねえよな」
他人のそら似ではない事は良く分かっている。穴が開くほど見つめていた彼女の姿を見紛う事などある筈がない。されど聞くことが出来ないのは、それが事実であった時、自分がどう行動すれば良いか分からないからだ。
「暫くは様子見するのが正解か…」
"それじゃあ貴方は誰ですか?"等と質問を返された日には、言葉に詰まるに決まっている。何者でも無い、"ただの性格の悪い厄介なかつてのファンでした"等と自己紹介するのはあまりに馬鹿げているし、何より己が恥ずかしい。
シュレーディンガーの猫の蓋は今はまだ閉じておいた方が良い。無闇に開けてしまえばその先にある未来は互いに破滅の道へと向かう気がしてならないからだ…孝仁はそう自己解釈してスッとベッドの上で身体を起こす。
「久々に、書いてみるか…」
もう既に日付は変わっているというのに、孝仁はランプが照らす机へと足を運び、置かれていたノートパソコンの電源をそっと入れる。
カタリと中指でキーボードをタッチし、そこから先の題名を何にするか顎に手を当てて静かに悩む。
「
何となく浮かんだ題名は彼女の背景を知っているからではない。…ただ不意に覗いた窓の外に満天とはいかないまでも綺麗な星が煌めいていて、その上には大きな満月がランプの灯りを必要としない程に輝いていたからだ。
書き始めた小説の完成はいつになるか分からない。プロットなど作られている訳でもないし、誰かに見せる未来も、どこかに投稿する予定も今のところはない。
されど今度こそは完結させられる。…深夜一時を過ぎてもなおキーボードを鳴らし続ける孝仁の心の中には不思議とそんな自信が溢れていたのだった。
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