第4話 冒頭


 人目につかないように、というのは三ツ村さんと一緒の場合難しい。

 彼女は何しろ、その姿形からして人目を引くのだ。僕一人だけなら存在感などけちったカルピスに等しいのに、三ツ村さんが加わると途端に原液を表面張力させた状態になる。

 隣に何の取り柄も想像できない僕がいるから尚更だろう。居たたまれないから離れて歩きたい。現地集合にしたい。

 そんなことを思っている僕に、彼女が案内してくれたのは小さなレストランだった。


 赤レンガ作りに蔦が這う壁。はめ込み式の窓にはステンドグラスが使われている。

 今は昼営業が終わって休憩中なのだろう。ドアには「Closed」と書かれた札だけが下がっていた。

 三ツ村さんは何の躊躇もなくその札を揺らしてドアを開ける。

 僕は一応彼女に聞いてみた。

「勝手に入っていいの?」

「今に始まったことじゃないから」

 それは答になっていないんじゃないだろうか。

 けれど店の方も迷惑だったら鍵をかけたりするだろう。それをしていないのだから、きっと彼女は許容されている。美人は得だ。

 もし別の事情があって鍵をかけられないならお店側に深く同情する。

 そんなことを考えている僕に、三ツ村さんは補足した。

「鍵が締められたら破るだけだから」

「お店側に深く同情する」

「いいの。そういう場所なんだから」

「そんな場所あっちゃ不味いだろ」

 しかし三ツ村さんは僕の正論を無視する。どうも彼女といると余計な言葉をしゃべらされる。非常に遺憾だ。


 店内は休憩時間とあって薄暗い。

 テーブルは四人掛けのものが四つ、二人掛けが三つ、窮屈さを感じさせないように配置されている。

 店の人が出て来るかと思ったらそんなこともない。

 三ツ村さんは、一番奥の二人テーブル、そこだけぽんと奥まった窪みに配置された席へ僕を誘った。

 彼女にそこにあったデスクランプを、慣れた仕草で点灯させる。

 ……というか、どうしてレストランのテーブルにデスクランプがあるんだろう。

 デスクランプのあるテーブルを挟んで座るって、なんだか取調室を連想させる。カツ丼専用席だろうか。


「この席は、本を読むための席なの」

 また僕の内心を見透かして、三ツ村さんは言う。

 彼女は当然のように、奥の席に座った。僕を向かいに座るように示す。

 色々と言いたいこともあったが、僕は素直に席についた。

「じゃあとりあえず、さっきの原稿読ませてもらおうか」

「飲み物を頼んだりしないの?」

「店の人がいないし、実のところ不法侵入かもしれないし」

「コーヒーならあそこで淹れられるわ」

 三ツ村さんが指さしたのは、ファミレスのドリンクバーにあるようなドリップマシンだ。

 僕は頷いてマシンの前に行くと、二人分の珈琲を淹れた。席に戻って三ツ村さんの前にもカップを置く。

 湯気の立つカップを見つめて、彼女は言った。


「不法侵入者が捕まった時、勝手に食料を食べているのといないのとじゃ、罪の重さは違うのかしら」

「本当に不法侵入なら、珈琲を淹れる前に言って欲しかった」

「冗談よ。このレストランは本を書くために空いた時間を提供しているの。今の代は私」

「今の代?」

「一人ずつにしか貸さないから。私が書き終わるまでは、他の人間は来ないわ」


 それは、いささかおかしな話に思えたが、「そうかもしれない」と少しだけ信じてしまうくらいには、薄暗い店内と彼女はよく似合っていた。

 三ツ村さんはついと壁に視線を送る。

 そこは作りつけの本棚になっており、取り留めのない装丁とタイトルの本が並んでいた。。

 その中に見覚えのあるタイトルを見つけて、僕は思わず手を伸ばす。

「『屍の辿る記憶』が……」

「私も読んだわ。中学校の時に」

 僕と同じくらいの頃だ―――― と言いかけて止める。

 ならば彼女は、あの授業の時既にこの本を知っていたのだ。知っていて黙っていた。知っている人間に聞かれた。

 そう思うだけで、恥辱で顔が赤くなる。僕はレストランが薄暗いことを感謝した。

 三ツ村さんも、僕を見ていない。壁に並ぶ本を見ている。


「ここにある本には、全て共通点があるの」

「ここで書かれた本ってこと?」

「それも正解」

「他の共通点は?」

「いずれ分かるわ。私の本を読んでいけば」


 彼女は鞄から取り出したレポート用紙を僕に差し出す。


「お願いします」

「拝読します」


 僕は彼女の原稿を読みだす。

 横書きというのが慣れないが、それを気にならなくさせるだけの引力が、彼女の文にはある。

 僕は草原に立つ主人公と、彼の見る景色の描写を読み、紙をめくり、読み、めくり――――


「三ツ村さん」

「何?」

「冒頭が長い」


 すごいな。先にもらった一枚を加えて、1万字くらい風景描写がある。長い。長すぎる。これが3500頁の力か。

 もう草原に生えている草の種類やその生態まで語りだした。これは必要なのか。なまじ文章が上手くて読んでしまうだけに疲れる。

 しかし僕の指摘に、三ツ村さんはきょとんとした顔になった。


「どうして? まだ全体の0.1パーセントも行ってないでしょう」

「割合の問題じゃない……。3500頁ってまさか描写の密度を通常の十倍にするって意味なのか」

「先崎君は知りたくないの? 主人公の踏んでいる植物の生態について」

「主人公が植物学者だった場合には、まあなんとか……」

「植物学の分野には進まないわ」

「じゃあ要らないな!」


 何を考えているんだこの人。いつまで経っても本題が始まらないぞ。

 草稿だけあって、どんな話になるのか先が微塵も見えないから余計不安になる。

 しかし彼女は僕の指摘に、不満げに眉を寄せた。


「要らないって、どうして?」

「……話の構成の無駄になるからだよ」

「でも、この世界が舞台なのよ。要らない情報なんてなくない?」

「要らない情報は、ある」


 迷いながら、けれど僕は断言する。

 僕は、まだ自分の一冊を書いていない。だからこれは、あくまで読者としての意見だ。

 そしていつか作者になる人間としての意見でもある。僕たちは本に対して、誰もが平等だ。


「情報が多ければ、情報同士の優先順位がつけづらくなる。そうすれば話の筋がぼやけてのめりこめなくなる」

「情報の優先順位なんて、読者が好きにつけるものでしょう? 文章の全部が必要な情報でしかないなんて、ただのパズルだわ」

「一理あるけど程度問題だな……」


 その辺のさじ加減は、個性とも言えるんだろうけど、三ツ村さんのこれは少し度が過ぎている。

 何と言えば伝わるのか、僕は悩んで、再び口を開いた。


「読者に多くを委ねすぎると、読んでもらうことさえ出来なくなるよ。冒頭数ページで本を閉じられるのがおちだ」

 そもそも全員に書かせることは、出版物のクオリティがまったく保たれていないということだ。

 このご時世、冒頭の出来はそのまま本自体の評価になる。かつての「誰かはいい話だと思ったから本になったんだろう」という最低限の担保さえ今はないのだ。

 しかし三ツ村さんは、僕の正論にふっと微笑した。


「私には、この一冊しかないのに?」


 …………それを言われたら、手詰まりに近い。

 僕たちに許されているのは一冊だ。その次はない。「書きたいけど次に回そう」ということはできないのだ。

 極論を言えば―――― 出した後の評価さえ、大した意味を持たない。

 毎月、人の数だけ発行される本は、濁流そのものとなって他のものを押し流していくだけだ。

 本は僕たちの傍に溢れている当然のもので、だから足を止めて一冊を拾い上げることは、さほど意味がない。

 どれほど求めても、次はないのだから。


 ならばこの一冊に、全てを込めるしかない。


 僕は溜息をついて、三ツ村さんを見つめた。


「それでも、僕は直してほしいと思う」

「私に我慢しなさいって言うの?」

「我慢しなよ。作品の質が落ちる」


 自分のための、自分が気持ちよくなるだけの作品なら、部屋で一人で書いていればいい。

 僕に見せる必要はないはずだ。好きに書いた後、彼女のファンにでも見せればいい。

 そういうやつらは本の中身なんておかまいなしに喜ぶだろう。

 けど僕は御免だ。


 沈黙が続く間、三ツ村さんはじっと僕を見ていた。

 最初の条件にあった「必ず目の前で読むこと」とはこのことを意味しているのだろうか。非常に居心地が悪い。いくら見ても顔色とか変わらないし。

 三ツ村さんは、ぽつりと口を開く。


「削った方が面白くなるのかしら」

「僕はそう思うよ」

「分かりました」


 あっさりとした返事に、僕は肩透かしの気分を味わう。

 三ツ村さんは、返されたレポート用紙に赤字を入れながら呟いた。


「私は、自分が面白いと思うものを書くわ」

「うん」

「そして先崎君が面白いと思うものを書く」

「なんで僕なのか」

「その結果、他の全ての人間に見向きもされない話になっても、別に構わないわ」

「それは嫌味なのか!?」


 三ツ村さんの本が評価されなかったら、責任は下読みの僕に来るのか!?

 別に構わないけどなんとなく釈然としないでいる僕に、三ツ村さんは首を横に振る。


「私が、そういうものを書こうと決めたの」


 凛として響く声が、妙に冷然と聞こえたのは気のせいだったろうか。

 僕はうすら寒さを覚えて、珈琲に口をつける。

 軽く伏せた瞼の裏には、彼女が生んだ世界の草が色鮮やかに浮かんでいた。


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