第3話 先崎正敏
三ツ村紗季さんはおかしな人だ。
少し妙な要望をされたからと言って、そう断じてしまうのも悪い気がするが、その印象は翌日確信に変わった。
いつも通りの一日を終えた放課後、そそくさと教室から逃げようとする僕に先んじて、彼女は行動していた。
クラスで一番に昇降口に辿りついた僕は、スチールの下駄箱を開ける。
そしてそこに入っている手紙に気づいた。
白い封筒には、僕の宛名が書かれている。
裏を返しても名前はない。ただ僕は、その美しい筆跡に見覚えがあった。
いつも黒板に整然と書かれる、正答の字だ。
「……三ツ村さん」
もともとラブレターだなどと浮かれたりは断じてしていなかったが、差し出し人が彼女と気づいた点で、塵芥ほどにあった期待は霧散した。
僕はその手紙を彼女の下駄箱に戻そうとして―――― だけど手を止める。
白い封筒の下に透ける便箋に、整然と並んでいる文字。
それを僕は一目で、小説だ、と悟った。ぞっと背筋が凍る。
直感は、僕の場合大して当たらない。
大抵の「嫌な予感」は、経験則か体調が悪いかのどちらかだ。
だが今だけは「この直感は当たる」と思った。
つまり―――― この手紙を読んだら、後戻りはできなくなる、と。
「読みなさい」
涼やかな声が僕を打つ。
振り返るとそこには予想通り、三ツ村さんが立っていた。
立ち姿一つさえ絵になる、美しい同級生。
戦場に一人立つに似て、堂々とした彼女を見て、僕は力なく返した。
「関わりたくないんだ」
言葉は、思考に用いた瞬間に思考を限定する。
口にした瞬間に変質する。
それは他者にデータを伝えるためにほんの僅か飛沫が犠牲になるようなものだ。
けれど僕は、その飛沫をも失いたくなかった。
余計なことは口にしたくない。
誰かの小説に関わることなどもってのほかだ。こんな僕でさえ、いつか一作を書かなければならないのだから。
三ツ村さんは、形の良い眉を軽く顰める。
僕は封筒を彼女に差し出した。
「別の人に渡せばいいよ。その方がずっといい」
「私は、先崎君のために書いたの」
「なんで僕なのか分からない」
『屍の辿る記憶』が、そんなに琴線に触れたのだろうか。
それは有難い話だが、僕は単なる紹介者だ。期待されるようなことは何もない。
けれどそんな僕の反応に、彼女は目を丸くするとふっと微笑んだ。
桜の花が散るような、儚い景色に僕は目を引き寄せられる。
「―――― 先崎君、あなたはいつも、言葉を惜しんでいる」
僕は息を飲む。
見抜かれた、などとは言わない。
そんなことは誰にでも言える。大して仲のいい友達を持たない僕は、必要な時以外は無言だ。
けれど彼女はそれから、誰にも言えないことを言葉にした。
「あなたは自分の言葉を何も書かなくていい。私の物語を読んでさえくれれば。私の書く本が、あなたの人生で消えない一冊になるわ。きっとあなたの人生を変える。他のどんな人の書く無数の物語よりも」
三ツ村さんは、体の前で両手を重ねると頭を下げる。
「だから、読んでください」
それは、無駄なところの何一つない、美しい言葉だった。
―――― 大した自信だ。
僕の人生を変える一冊を書くなどと、まったく意味が分からない。
ただ彼女の言葉は僕のために紡がれたように、ストレートに響いた。
僕は手元の白い封筒に視線を落とす。
迷ったのは数秒。僕は薄い封筒を開けた。中から一枚だけの便箋を取り出す。
書かれていたのは、物語の冒頭だった。
ただの一文が、静謐さを以て胸に沁みる。
息を止めて、文字を追う。
喉が詰まり、目頭が熱くなる。
―――― まったく馬鹿げている。
彼女の自信は、偽りではなかった。
今、分かった。
三ツ村さんは、紛れもなく僕の人生を変える人間だ。
※
「引き受けてくれる?」
いつの間に目の前まで来ていたのか、三ツ村さんは軽く身を屈めて僕を覗きこむ。
ハンカチで目元を押さえていた僕の表情を確かめようというのだろうか。遠慮なく追い打ちしてくるしたたかさに「嫌だ」と言いたくなった。
だがそれは余計な言葉だ。僕は頷く。
「いいよ。書くのはこの話? 何ページくらいになる?」
「三千五百ページ」
「今なんて言った」
普通の本の十冊から十五冊分くらいはあるぞ。そこまでの厚みになれば自己負担も相当なものだ。
第一金銭面を差し引いても、長い。長すぎる。本屋も困るし印刷会社も多分困る。
大体そんなに長いってことは要らないところが多いに違いない。読者のことを考えろ。
三ツ村さんは、僕の言わない言葉を察したように頬を膨らませた。
「そのあたりは後であなたと相談させて。とりあえずは私が書くから、読んで」
「……先にプロットを見たい」
「そんなものはないわ」
「ないの!?」
プロットなくて三千五百ページ書くつもりとか、何考えてるんだこの人。
本編の途中でスピンオフ長編でも始める気か。
三ツ村さんはけれど、何故か堂々と胸を張った。
「それに、先にプロットを見せたら展開が分かってつまらないでしょう?」
「むしろ先に見たい。三千五百枚になってから構造を直すの大変だぞ」
「つまらないでしょう?」
「…………」
駄目だこの人。人の話を聞かない。
下読みを募集しといて、指摘は聞かない人だ。確かに下読みとの相性はあるから全部を聞き入れる必要はないけど、物には限度があると思う。分厚い着ぐるみで雪中登山をさせられるような、「一理ある」と「お前何言ってんだ」が入り混じっている。
三ツ村さんは、白眼になった僕にあわてて手を振る。
「大丈夫。私、書くのは早い方だから」
「お互い八十を過ぎた頃出版、なんてことにならないように。というか、そんなになるんだったら僕はさっさと僕自身の義務を果たすよ」
「私が書き上がるまで待って。長くは待たせないから」
「三千五百ページ」
「十八歳になる前に終わるわ。私が年を取って変質してしまわないうちに」
僕の言葉を無視して、三ツ村さんは笑う。
その態度はやはり堂々としていて、僕は「一理ある」と思った。
「条件があるわ」
「僕にもある」
「一つは、渡した原稿はいつも私の前で読んで。反応が見たいの」
「僕の条件は、僕が三ツ村さんの本に関わっていることを誰にも言わないことだ」
「それは私もだから大丈夫。あともう一つは―――― 先崎君は私の本を読み終わるまで、自分の本を書かないで」
変なことを言う、と思ったが、下読みに集中して欲しいのだろう。
僕も高校時代に出版するつもりはない。もっと慎重に自分の言葉を練りたいのだ。
条件の合意を見て、僕らは頷いた。
「分かった。下読みはいつから?」
「今から」
彼女はそう言って、鞄の中から数枚のレポート用紙を取り出す。
手紙の一枚は、それを切ったものだろう。僕は続き読みたさに奇声を上げたくなった。
三ツ村さんはにっこり笑う。
「行きましょう、先崎君。私たちはこれから、小説を造るの」
その言葉に、僕は抗うことが出来なかった。
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