第2話 三ツ村紗季
三ツ
常にざわざわと落ち着かない高校の教室で、彼女の周りだけはいつも静謐な空気が漂っているように思えた。
窓辺に座る彼女の美しい横顔も、日に当たると茶色に透ける長い髪も、まるでよく出来た人形のようだ。
成績は優秀。けれどそれが何かの意味を持つわけでもない。騒ぎ立てられることも何かを任せられることもない。
常に何かしらの本を読んでいる彼女は、クラスメートと話すこともほとんどないのだ。
皆が彼女の存在を意識しながら、ガラスで隔てられているかのように触れることはない。
三ツ村紗季は、そんな人間だった。
だから僕は、彼女に話しかけられた時―――― 「人形が生きて動いてる」と思った。
「何を読んでいるの?」
かけられた声は、授業中に指されて正答を読み上げる声と同じだった。
放課後の教室は僕の他には誰もいない。今までそう思っていた。西日が照らす机を眺めて、僕はようやく顔を上げる。
三ツ村紗季はすぐ後ろに立って、顔にかかる髪を押さえながら僕を覗きこんでいた。
「何を読んでいるの、
答えない僕に彼女はもう一度言う。
その時になって初めて僕は、彼女がクラスメートで、ちゃんと生きた人間であることを思いだした。
あわてて僕は机の上に開いていた本を示して見せる。
「地図帳だよ」
「地図帳……?」
形の良い眉が、疑うように寄せられた。
それもそうだろう。僕が開いていた地図帳は、二十年も前に発行されたものだ。
今とは国の名も大分違う。だが僕は、家にあったこの地図帳を見るのが好きだった。
いつか自分が本を書く時に、こんな国名を使ったらいいだろうか、こんな土地を舞台にしてみようかと想像が膨らむからだ。
だが、僕はそれについては何も言わない。
聞かれてもいないことについて話すのは、あまり好きではない。
三ツ村さんは、僕の肩越しにまじまじと地図帳を見て体を引いた。
「小説はあまり読まない?」
「うん」
小学生の頃、担任の先生に「かつては職業作家がいた」という話を聞いたことがあるが、正直なところ僕はその時代に生まれたかった。
義務教育の総決算として国民に課せられた出版権は、この国の文化レベルの高さを象徴しているとも聞くが、その実情は玉石混交そのものだ。
僕は、学生たちが夏休みの宿題のような粗雑さで書いた小説は読みたくない。
思い入れがあって書かれたものだとしても、それが僕に合うものであるかどうかは賭けだ。
口コミも、評価サイトも当てにはならない。本を読むということは、人を選ぶということそのものなんだろう。
だから、あまり多くの本を読むことはしていない。たまにのめりこむ小説に出会えても、その作者の二作目は存在しない。
全員に書かせれば、読む人間は手薄になる。そんなことも当時の政治家は考えられなかったのだろうかと、思う。
三ツ村さんは、僕の答を聞いて頷いた。
「先崎君は、本をもう書いた?」
「まだ」
「書きたいものはある?」
「まだ」
事実を端的に返す。
彼女は一体何がしたいのだろう。結論があるなら先に言って欲しい。
そう思ったことを見抜いたかのように、三ツ村さんはにっこり微笑んだ。
人間のように美しいな、と思う僕に、彼女は言う。
「なら先崎君、これから書く私の本を読まない?」
僕はその言葉を聞いて、咀嚼して―――― 馬鹿げている、と思った。
※
人形のような人だと思っていたが、馬鹿げたことを言うくらいには人間だった。
だがそんなことは口にしない。僕はもっと社交的に、当たり障りなく断った。
「三ツ村さんの書く本なら、みんな読みたがるよ」
それは嘘偽りない事実だ。クラスメートが本を出したと聞けば、ほとんどの人間が面白がって本屋に集まる。
騒ぎ立てられるのを嫌がって何も言わない人間が多いのも道理だ。
でも多くの人間にとって、本は小学校の夏休み明けに廊下に貼られる日記と大差がない。
学校一の美人が書いたとなれば、皆興味を持つだろう。
だから三ツ村さんは、そういう人間の中から好きに選べばいい。僕を巻きこまないで欲しい。
だが立ち上がって帰ろうとした僕に、三ツ村さんは退かなかった。
「みんな、じゃ意味がないの」
「本はみんなが読むものだよ。出版物だし」
「出す前に誰かに読んでほしいの。口が堅くて、まだ自分の本を書いていない人間がいい」
「ああ、下読み?」
出版権を与えられている僕たちには、表紙のデザインやイラストレーター、そして校閲について助成金が出るようになっている。
十八歳までなら全費用の一割負担。その後は年齢や収入によって変動するが、「お金をかけてもいいものが作りたい」という人間と「お金を払うくらいなら出来が不揃いでもいい」という人間がいるのは当然のことだ。
それでも小説の構成や展開にまで細かくアドバイスをもらうなら、それなりにお金はかかる。
友達や同級生に下読みを頼もうというのは、一つの手だろう。
でも僕は、御免だった。
「他の人に頼むといいよ」
いくら成績優秀の美少女でも、出来の悪い小説を読む手伝いはしたくない。
出来がよくても僕にはあわないかもしれない。
それが買った本なら黙って閉じればいいが、同級生の下読みなら責任が生まれてしまう。
僕は地図帳を閉じて鞄にしまうと、そそくさと席を立った。
ドアに向かう僕の背に、彼女の声がかかる。
「去年の国語の授業であった、あなたの発表―― 」
ぎくりとして僕は振り返った。
それは僕に「聞かれていないことを話した」記憶を思いださせたからだ。
僕は三ツ村さんと目が合う。
茶色がかった瞳が、夕日を反射して赤く見えた。
「あなたが発表した本、私も取り寄せて読んだわ。『屍の見る記憶』って……」
「『屍の辿る記憶』だよ」
言ってから、僕は失敗を悟った。
三ツ村さんは微笑む。わざと言い間違えたのだ。僕はそう確信した。
彼女ははっきりと言いなおす。
「『屍の辿る記憶』にとても共感を覚えたわ。それを推すあなたに興味を持った」
「全然売れなかった本だよ。作者もとっくに忘れてる」
「私は忘れていない。あなたも」
―――― 余計なことを言わされそうだ、と思う。
関わりあいになりたくない。それは、僕がやるようなことじゃない。
自分の中のことを言葉にするなんてことは、生涯に一冊の本だけで十分だ。
その一冊でさえ、出来るだけ言葉を削りたい。余計なもので汚したくない。
言葉にすれば、それは変わってしまうからだ。
だがそんな僕をまた見透かしたように、三ツ村さんは言う。
「私の本を読んで頂戴。―――― それだけで、あなたは何も書かなくていいの」
まるで余計なもののない、美しい断言。
嘆願には聞こえない言葉に、僕は無言で苦い顔をする。
三ツ村紗季さんは、そんなおかしな人だった。
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