緩慢な表象と虚ろな幻想

古宮九時

第1話 プロローグ

―――― 人は誰しも、一生に一冊は名作と呼ばれる本を書くことができる。


 当時の高名な教育者で政治家でもあった男の言葉を、皆一度は聞いたことがあるだろう。

 僕も当然知っている。

 最初にその言葉を聞いたのは、小学四年の時の担任であった女の先生からだ。


「昔はね、本屋さんにある本は、『作家』って職業の人たちが書いたものだったの。そういう人たちは色んな理由で書いたものが人に認められて、本を書くようになったの」


 社会の教科書をめくりながら、先生は言った。

 その隣に置かれている一冊の本は"先生の本"だ。僕の席からは、背表紙に書かれた先生の名前が見えていた。

 一番前の席に座っていた女子が、手を挙げて問う。


「職業にしてたって、わたしたちとどう違うんですか?」


 その疑問は、クラスの大半が持ったのだろう。口々に賛同の声が上がった。

 先生は全員が落ち着くのを待って、微笑む。


「作家って呼ばれた職業の人たちは、一人でいくつものお話を書いたの。人気のある人は、何十冊も本を出したのよ」

「何十冊!?」

「すげー……」

「でも読む人はどんどん新しいものを読みたがって、どんどんいっぱいの新しい作家が出てきたの。作家になりたがった多くの人が『自分の物語』をネットに書くようになって、『本にしたい』って希望が当たり前のものになって―――― そんな時、ある偉い先生が言ったのよ」


 ―――― 人は誰しも、一生に一冊は名作と呼ばれる本を書くことができる、と。


 そう言って、先生は曇りのない笑顔で、自分の本を教壇に立てた。


「それからね、この国では人はみんな、一生に一冊だけ自分の本を書いて世に出すことが義務になったの。私も、あなたたちのお父さんやお母さんも、そして勿論あなたたちもそう」


 冬の西日が、窓から斜めに差しこんでくる。

 よく通る先生の声が謳った。


「つまり今、本屋さんにある本は全て―――― 誰かが書いた最初で最後の名作なのよ」


 その時見せられた先生の本のタイトルは、もう覚えていない。

 だが、彼女の誇らしげな、恥ずかしそうな顔だけはよく覚えている。


 つまりこれは、職業作家がいなくなって久しい時代の話だ。

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