第2話 学校 後編
カンッ!
教室のフローリングの床と、御坂の下駄がぶつかった乾いた音が、無人の廊下に響き渡る。1-Bのドアに入った瞬間から、御坂の目は鋭く変わっていた。
夜とはいえ永井にとっては見慣れた教室。先に入った御坂がスイッチを入れたため、今は蛍光灯に照らされ明るいその教室は、廊下にいる永井の目からは昼間とまるで変わらぬ光景のように見えていた。
「この教室が何か?」
「お主は入ってくるなっ!!」
御坂が叫んだのは、既に永井が教室に片足を踏み入れた後のことであった。
途端に先ほどまで煌々と光を放っていた教室の蛍光灯から明かりが失せ、教室は闇に包まれる。
「あぁっ! いや、申し訳ない」
永井は慌てて教室から足を引っ込めたが、戻った廊下の蛍光灯まで既に光を失っていた。
「もうよい」
「え?」
「もう手遅れじゃから、お主も教室に入ってくるのじゃ。
ワシの傍にいる方が、まだ安全じゃろうからな」
永井は慌てて、1-B教室に飛び込んだ。
「何が起こったんです?」
「この世とあの世の境がわやになったんじゃ」
「は?」
「正確にはこの世とあの世の中間にある幽界と呼ばれる世界、その世界との境があやふやになったんじゃよ。
ますい事にこの状態じゃと、悪霊や魔物共がわし等に直接干渉してきおる」
「だ、大丈夫なんですか、それ?」
永井は既に、御坂に数歩近づいていた。そのハの字を描く眉とへの字の口元からは、彼の心の焦りが一目で察せられる。
「その調子では、あっという間に魔物共に憑かれるぞ。奴等は、恐怖や怒りや恨みつらみといった感情が、なによりの好物じゃからな。
ほれ、ゆっくり数を数えながら、呼吸をしてみるんじゃ」
御坂に背中を軽く叩かれて永井は息を整えるが、まだ心臓の鼓動は早いままだった。
「あ、あの、さっきから何を見ているのですか?」
御坂は教室の隅、丁度掃除用具入れの辺りを、先ほどからずっと見上げていた。
「あれが見えぬとは……、随分と感覚が鈍いようじゃな、お主は」
御坂が掃除用具入れに向かって塩を投げる。当然、御坂の撒いた塩は、そのまま教室の隅に向かって散らばる筈であったのだが……
(んっ?!)
まるで何か透明な壁に阻まれたように、教室の真ん中付近から先へは飛ばなかった。
「うわあああぁぁぁぁっ!!」
直後、永井は大声で叫んでいた。御坂の目の前に、いつの間にが黒い巨人が立っていたからだ。
頭が天井に届きそうなその巨人は、全身が黒い闇でできていて、顔には大きな目玉が一つだけ付いていた。教室に並べられた机と椅子は、巨人の半透明な下半身に埋まっていて、まるで同化しているようにすら見える。
そして巨人の目は、一直線に永井だけを見据えていた。
(俺が放課後の教室で見た大きな目は、もしかしてコイツのものだったのか……)
が、異様なのは永井を見つめる巨人の目玉より、その体系だった。巨人は教室に収まらないくらいにデカいのに、その頭身は低く、まるで子供のようなのだ。年齢でいえば、そう丁度中学生くらいの体系だろうか?
「こら、慌てるでない。
お主が逃げれば、奴は全力で追ってくるぞ」
教室から逃れようとする永井の腕を、御坂が掴んで引き留める。
「みっ、御坂さんっ、後ろ! うしろーーっ!!」
永井の方を振り向く御坂の後ろから、巨人の右手が迫っていた。その下半身に埋まっていた筈の机や椅子も、巨人が動くと共に四方へと飛び散り、椅子の一つは永井の頭上を飛び越えて、派手な音を立てながら廊下へ続く扉の前へ落ちて逃げ道を塞ぐ。
プゥーーッ!
対して御坂は口から御神酒の霧を吐き出し、巨大な右手の指の隙間から不気味な一つ目を狙撃する。
『ーーーーっ!!』
酒を浴びた巨人は両手で顔を押さえ、声もなく悶絶する。いや恐らくは、声を発する事ができないのだろう、この巨人には口がない。
「黒蛇っ!」
御坂が掛け声と共に床に右手をつくと、その胸元から黒い蛇が飛び出す。蛇は彼女の腕を伝って床に下り、床を伝ってのたうつ巨人の体を這い、最後に注連縄(しめなわ)へと変化して締め上げる。
「いっ、今のは……」
「あの世との境がおかしい時のみ、使える術じゃ」
御坂は注連縄で縛られ倒れ伏し、完全に動けぬ巨人に近づくと、右足に履いた神木の下駄をその肩に押し付けた。巨人はやはり声も上げず、うらめしそうに一つ目で永井をみつめながら、霧散するように姿を消した。校舎に蛍光灯の明かりが戻ったのも、それと同時であった。
「ようやく現世に戻れたようじゃな。
さて……」
御坂は腰に手を当て、机や椅子の散らばった教室を見渡す。
「こりゃ、片付けぬ訳にはいかんのぅ……、お主も手伝ってくれ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
永井は腰を抜かし、まだ立ち上がれない。それを一瞥した御坂は、やれやれといった風に首を振り、一人で教室を片付け始める。
「のぅ、理事長に”ここを祓うのは、これが最初で最後じゃ”と、伝えといてくれんか?」
机を運びながら、不意に御坂が伝言を頼んだ。
「それは一体、どういう意味です? 今日全部お祓いすれば、それで済む話じゃないんですか?」
傍の机を支えにして、ようやく永井は立ち上がろうとしているところだ。
「今後もこの調子で邪鬼を貯め続けるのなら、もう世話を焼ききれんということじゃ。
今のまま、この学校を続けるつもりなら、また数カ月後にはお祓いが必要になるじゃろう」
「じゃあ、またあんな怪物が出てくるって事ですか!?」
「その可能性もあるにはあるが、まぁ大丈夫じゃろう。
そもそも、この世とあの世があやふやになる事など滅多になく、その境が正常ならば肉体を持たぬ霊や魔物がこの世に干渉できる事は限られるからのぅ」
「”可能性もある”とは、どういう意味です?」
血相を変えて詰め寄る永井に、御坂は運んでいた机を下ろして向き直った。
「そんなにあの怪物が気になるなら、お主がどうにかすればよい」
「私が?」
「ここはお主のクラスなのじゃろう?」
「っ!?」
「お主が教室前へ来た途端に邪鬼が騒ぎ出し、お主が一歩この教室に踏み込んだ途端あの世との境がおかしくなったのじゃ。嫌でも分かる」
「それじゃあ、あの怪物が出てきた原因は、私にあるとでも?」
「恐らくあれは、このクラスに貯まっていた邪念が凝り固まったものじゃが……、十中八九イジメじゃろうな。
お主とて、それは察しておるのじゃろう?」
御坂に冷ややかな瞳を向けられ、永井はゴクリと唾を飲み込んだ。
「あの怪物がお主ばかりを見つめていたのはお主に訴えたい事があったから、あの怪物に口が無かったのは言いたくても言えぬ事があったから、あの怪物に目が一つしか無かったのはお主との距離感が分からないから……とまぁ、そんなところじゃろう。
お主にすがる意思が奴にあったという事は、イジメを見て見ぬフリしていたわけでもなさかろうよ」
「簡単に言ってくれますね。
部外者には分からないでしょうが、イジメをみつけるのも面倒なら、その対処だって難しいんですよ」
この永井の言葉自体には、嘘や誤魔化しはなかった。
イジメられている本人が勇気を振り絞って名乗り出てくれるのならばともかく、確かな証拠も無しにイジメの容疑を生徒にかけようものなら、それは学校側の落ち度ともなりえる。もしまかり間違ってそれが冤罪だったとなれば、生徒や親達との信頼関係が完全に失われる恐れすらある。
(只でさえ残業に追われて余裕がない毎日なのに、俺にこれ以上どうしろっていうんだ!)
この時、永井は初めて目の前の巫女に怒りを向けていた。しかしそれは、正義の怒りとかそんなカッコイイものではなく、イジメへの対処により自分の生活が壊れる恐怖に端を発するものだった。
授業中が忙しいのは勿論、放課後になれば部活の生徒もみなければならず、それが終わればテストの作成・採点・生徒の成績付けに追われる。そのうえで、更に複雑な問題の絡むイジメの対処など、只でさえ時間の無い今の永井にできるとは思えなかった。
「この学校の窮屈さに耐えかねた生徒が、弱い者を標的に鬱憤晴らしをしとるんじゃ。明らかに元気のない生徒を、無理に誘って連れてく連中をマークしとれば自ずと見つかりそうなものじゃが?」
「だから、そんな簡単なものじゃないんだ! 第一、今の教師にそんな生徒一人一人を見ている余裕があるとでも思っているのか!?」
その強硬な態度とは裏腹に永井は追い詰められていた。確かに言われてみれば、イジメられている生徒に心当たりはあった。だからこそ、対処を迫られ追い詰められる感覚に永井は囚われ、怒りでそれを押し返そうとその感情をただただ爆発させているのだった。
御坂はそんな永井の血相に少し目を見開いて驚きの表情をみせるが、フゥと鼻から息を吐き、肩の力を抜いて机の上に腰かける。腰まで伸びる彼女の黒髪が、机の上を這うように垂れた。
「ならいっその事、ここを辞めたらどうじゃ?」
「え?」
「わしの見立てでは、もうこの学校は長くない。
これまではどうだったか知らんが、あいにく今は時代の変わり目じゃ。無理に無理を重ねて続けてきた分、その崩壊は早かろう」
「……」
永井はあえて反論の言葉を呑みこんで、黙りこくった。
教師としての矜持を語る事も、この無礼な巫女の無責任な発言を咎めてやる事も永井にはできる。が、あの怪物を自分が作り出してしまったのだと自覚した以上、このままでは……今と同じままではこれ以上自分が教師を続けられるとも思えなかった。
そして、どんな理由であれ自分がイジメと向き合う覚悟が足らなかったのも、認めざるを得ないのだ。
「差し出がましい口を叩きすぎたようじゃ。すまなかった。
わしの言葉を信じるも信じぬも、辞めるも続けるも、お主の好きにすればよい」
頭を抱えて悩む永井を尻目に、机から飛び降りた御坂は教室の片づけを再開する。
静まり返った暗い校舎の中、二人の居る教室だけが寂しい明かりで校庭を照らし続けていた……。
令和怪奇事件録 ~はぐれ巫女のお祓い日誌~ 蝉の弟子 @tekitokun
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