痛み止めの薬

青いひつじ

第1話




『痛み止めの薬をください。夕方から痛くて痛くて‥‥』


突き刺さるような風の吹く冬の夜。コートに身を包んだひとりの女性が、私の診療所へとやってきた。


「それは大変だ。どうぞ中へ。いやぁ間に合ってよかった。先ほど最後の患者さんを見送ってもう閉めようかと思っていたところだったのですよ」


『遅くにすみません。痛くて痛くて仕方がないもので』


私は急いで彼女を中へ招き入れ、そのまま診察室へと案内した。


「さぁ、ここに座ってください。座るのが大変でしたら、ベッドに横になってもらっても構いませんが」


『いえ、イスで大丈夫です』


彼女は足が悪いようではないようだと私は考えた。診療所の前に車は停まっていなかった。つまり彼女はこの冷たい夜風の中、ひとりで歩いてやって来たのだ。



「ふむ、熱はないようですね。血圧も心拍数も正常。喉の腫れもないようです。痛むのは、どこですか?」


私の問いに、彼女は俯いたまま、自身の手を胸にあてた。


『心です』


「‥‥心?」


『はい。数ヶ月前から、ちょっとしたことで心が痛くなるのです』


そう言ってゆっくりと顔を上げると、力のない目で私を見つめ、話を続けた。


『半年ほど前からです。周りの人の些細な言動に心が握りしめられるように痛くなり、初めの頃はそれだけでしたが、今では夜も思い出して、痛くて痛くて眠れないのです。もう人と会うのも嫌になってしまって、友達もどんどん減ってしまいました』


彼女は『このままでは、最後の1人の親友まで失ってしまいます』と涙を流した。


「‥‥なるほど。それで痛み止めをもらいにやって来たというわけですね」


『はい‥‥。この薬を処方していただくのが難しいことは存じております。高額なのも。私は質素な暮らしをしておりますので、お支払いに関しては心配ございません。ですのでどうか‥‥』


彼女は椅子から崩れ落ち、私の白衣にしがみついてきた。



私は逡巡していた。彼女の言うその"痛み止め"は、世に出回っている通常の痛み止めの薬とは少し違っていたからである。

それは特別に認可された診療所だけが処方できる"万能の痛み止め"で、その分、副作用も強く非常に高価な薬だ。処方するとなれば、そこに至った経緯を事細かく報告しなくてはならず、私としても腰が重い。この診療所で処方できることは公開していないが、どこからか噂を聞きつけてやって来たのだろう。

こんなことを考えていると、かれこれ5分ほど経ったが、彼女が泣き止む様子はなかった。



「よし、分かりました。薬を出しましょう」


こう言った理由としては、面倒臭いを理由に処方を躊躇するのは、私の医師としての理念に反するからである。いやしかし、情けない話であるが、泣き続ける女性を前に心が揺らいでしまったのも真実。私は医師として失格なのかもしれない。


『本当ですか!?!』


「ええ、本当ですとも。しかし今から説明する服用方法を必ず守ってください。そうでないと、大変な副作用が発生します。分かりましたね?」


『分かりました。必ず守ります』


先ほどまでこの世の終わりかのように泣いていた彼女は、光を取り戻し、微笑んだ。

そうだ。私は人々のこの顔が見たくて医者になったのだ。私は20分かけて服用方法を説明し、彼女は熱心にそれを聞いた。


「それでは、万が一何かありましたらすぐに来院ください。何もないことを願いますが」


『はい。本当にありがとうございます。しっかり治します』


彼女は薬を受け取ると、振りかえることなく青い闇の中へ消えていった。





それから1ヶ月が経った夜のことであった。


『‥‥あの‥‥薬の効果を和らげてもらえないでしょうか』


看板の電気を切ろうと外に出ると、そこに立っていたのは、ひどくやつれた彼女であった。


「これはこれは!まさか副作用が出ましたか?!」


『いいえ、あの薬の効果は素晴らしかった。全く痛みを感じなくなったんです。でもそしたら、心の痛みが分からなくなったせいで人の心が分からなくなり、親友から別人のように冷たくなったと縁を切られてしまいました』



私はまた彼女を中へ招き入れ、診察室に座らせ話を聞いた。

薬が効きすぎたせいで痛みを感じなくなり、他人の心の痛みまで分からなくなってしまったようだ。そのせいで、最後の親友も離れていってしまったと言う。


「それでは薬を止めましょう。薬の代わりに、今日から毎日、2リットルの水を飲んでください。それで次第に効果は薄れていきます」


『親友とは‥‥やり直せますかね』


「きっと大丈夫ですよ。薬の効果がなくなってからゆっくりと話せば、きっとまた以前のように戻れると思います」


『‥‥そうですよね』


青白い肌を流れる涙を拭い、彼女はまた夜の闇へと姿を消した。





それから2ヶ月後のことだった。窓の外では、小さく白い花びらが上に下にと舞っていた。


13時。午後の診療が始まり、看護師から渡されたカルテに、私の心が小さく波を打った。そこに書かれていたのは、2ヶ月前に薬を止めてくれとやって来た彼女の名前であった。

私は一瞬で理解した。きっと彼女は、"また心が傷み出した。痛み止めを出してくれ"と言うに違いない。

続けてこう考えた。このような強い薬を何度も処方するわけにはいかない。繰り返し服用することは、彼女の命にも関わってくるのだ。今日は泣こうが喚こうが、強固たる意志を持ち、お断りしよう。そうして心の襟をピシッと伸ばした私であったが、診察室のカーテンから覗かせたその顔は、思いのほかにこやかだった。



『お久しぶりです。先生』


「こんにちは。今日はまた、痛み止めをくれといらしたんですか」


診察室に入って来た彼女は、私の嫌味な口調に少し驚いた顔をみせ、すとんと椅子に座ると続けた。


『いいえ、今日は花粉症の薬をもらいにきたんです』


「花粉症‥‥ですか?今の時期は特にひどいですからね。ところで、例の親友とは仲直りできたのですか?最近、心の方はどうですか?」


なんとなく進展が気になって聞いてみたが、答えはすぐには返ってこなかった。



「‥‥すみません。何かまずいことを聞きましたかね」


『あ、いえいえ。‥‥実は、薬を止めて心が戻っても、その友人に会いたいと思わなかったんです。会わない日が長くなるにつれて、むしろ心が軽くなっていったのです』



私はカルテに書き込んでいた手を止めて、優しい声で話す彼女に目を向けた。



『幼い時からずっと一緒にいたので、大切な友人だと思っていましたが、よく考えれば、私は彼女の言葉に幾度も傷つけられてきました。少し離れてみると心がとっても楽になりました』



「‥‥つまり、その友人と離れるのが、1番の痛み止めだったと」



『ええ』



「そうですか‥‥」と、自分のことのように悲しくなってしまった私とは対照に、彼女の表情は晴々としていた。





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