第2話 新学期
すでに夜の帳はおち、あたりは暗闇に落ちつつあったが、自分の体から剥がれ落ちる僅かな光で相手の顔を知ることになる。それは勇輝の通う高校のクラスメイトの
「お前、明星か?」
燕谷が勇輝の苗字を声に出すと、反射的に勇輝はその場を離れようと駆けだした。燕谷の方を向いていた体は踵を返し、拝殿の裏手に向かった。そして、お稲荷さんの裏を抜け、木々の間を通り抜け、境内から出た。
走り去る間、燕谷の声が聞こえた気がするが、追いかけてくる様子はない。このまま逃げ切ろうと思い、走り続けた。どのくらい走っただろうか。数十メートルとも数百メートルとも思えた。どれだけ逃げれば十分だろうか。
逃げる?
どうして?
なんのために?
不意に疑問が頭に湧いたが、そう思った瞬間、足の動きが遅くなり、走るのをやめて歩き始めた。勇輝は額の汗を手でぬぐい、後ろを振り向いた。追っては来ていない。それだけ確認すると、とぼとぼと家の方角に歩き始めた。
大きな国道沿いの歩道を歩いている。何台もの車が行き交い、あたりは車の走行音にあふれている。この音に自分も包まれれば、誰に気付かれることもないのではないかと勇輝はぼんやり考えていた。逃げようがないのに、逃げだして、バカみたいだなと苦笑しながら、知らず知らずのうちに勇輝は頭をもたげ、俯いていた。
自宅前にいた。家族が帰っているのだろう。家に明かりが灯っている。「ただいま」と誰に言うでもなく呟きながら玄関のドアを開け、二階の自室に向かった。家族の声が聞こえたが、応答せずに部屋に入ると勇輝はベッドに横になり、天井を見つめた。
明かりのついていない暗い部屋の中に窓から月明りが差している。暗闇に白い光が入り、部屋の中がモノトーンに包まれている。いつのころからか景色から色が消え、勇輝には見るものすべてが白黒だった。そんな彼にとって、夜はただ黒の占める面積が多いだけの時間だった。
暗闇と月明りのコントラストをしばらくの間見つめた後、ゆっくりと目を閉じた。虫の声が聞こえる。夏の終わり頃から秋の虫たちが騒ぎ出す。その合間に時折、車の走行音が耳に入る。しばらくの間、窓から入る音たちに耳を澄ませていた。
先ほどの邂逅を思い出し、勇輝は目を開いた。すると、壁にかかっている制服が目に入った。よれよれのシャツを着ている今の勇輝とは対照的に、アイロンがかけられてピシッとしている。明日から学校だ。燕谷もいる。どうしたものかと呟きながら、勇輝は再び目を閉じた。
*
クローゼットから制服を取り出しながら、力弥は夕方の出来事を思い出した。黒い男の体から出てきたのは間違いなく明星だった。助けられたときに聞き覚えがある声だと思ったのも勘違いではなかった。
明星が黒い男で怪物と戦う『ヒーロー』だとして、彼はなぜあんなことができるのだろうか。そして、どうして戦っているのだろう。ハンガーにかけられた制服のワイシャツを改めてクローゼットに戻し、クローゼットの扉を閉めた。
不可解なのはそれだけではなかった。力弥は考え事をしながら、勉強机の椅子に腰掛けた。あの後、配達をすっぽかしたことで店長に大目玉を食らったが、叱られた際に店長は駅前のバス事故に巻き込まれなかったかと心配していた。
あれはバス事故ではない、巨大な怪物が暴れまわっていた。しかし、SNSやネットやテレビのニュースを見ても、怪物のことで騒いでいる人はいない。駅前でバスの横転事故があったという情報しか目に入ってこなかった。
テレビの現場映像でも確かにバスが横転している。自分が襲われたときに蛇女の尻尾でバスが倒れていた。そこだけは力弥が自分の目で見た光景と同じだった。しかし、あれだけの目撃者がいたにも関わらず誰一人として蛇女のことを語っていない。
力弥はSNS内で様々なキーワードを使って誰か蛇女のことを語っていないか検索してみたが、収穫はゼロだった。誰も蛇女のことを覚えていない。画像もない。蛇女が暴れていたという記憶も記録もどこにもない。当然だが、黒い男のことも誰も語っていない。
危険な怪物に向かっていき、周囲の人間を助けるために身を挺して戦ってくれた彼のことも誰一人として記憶していない。明星はそのことを知っているのだろうか。椅子の背もたれにもたれながら、力弥は天井を見つめた。
どうして明星は戦っているのだろう。その疑問が再び力弥の頭の中に浮かび上がり、明日学校で聞けばいいよなと思い直した。そうして、顔を正面に向けた時、視線の端で窓の外の景色が見えた。
カーテンのかかっていない窓から月が顔をのぞかせていた。マンションの十階からは遮るものがなく、夜空の月がよく見える。力弥は立ち上がり、窓際まで近づくと僅かにクリーム色を含んだ月をしばらくの間、見つめていた。
夏休みが終わっても朝はセミたちのうんざりするような合唱から始まる。力弥は自宅から高校まで自転車で通学している。その途中には明星を見た神社もあり、木々に覆われた境内はひと際セミの声もやかましい。
「朝から勘弁してほしいよ」
力弥はぼやきながらもペダルをこぐ。自宅から高校までは駅とは反対方向になるので駅に向かう会社員や学生とすれ違う。朝の通学時間から徐々に気温が上がってきて力弥の額にも汗が光る。暑さと煩さで始まる二学期の朝は最高とは言い難かった。
境内を抜け、立体になっている国道をくぐり、住宅街を抜けていくと、彼の通う高校がある。正門に続く道の最後が上り坂になっていて、立ちこぎをして登りきると、学校に向かう学生たちが見えてくる。
正門の前には白いワイシャツに身を包んだ学生たちが大勢いた。力弥は正門の近くで止まるとあたりを見渡し、明星の姿を探した。教室に行けばいるはずなのでここで探す必要もないのだが、逸る気持ちが彼をそうさせた。ざっと見渡した限り明星の姿はなく力弥は駐輪場に自転車を止めると、速足で教室に向かった。
勢いよく教室の引き戸を開けて室内を見渡した。明星の姿はない。まだ来ていないかと独り言ちると、開けた時の勢いとは正反対に静かに教室に入った。すると、「おはよう」と言って力弥の肩に手を載せてきたのは同じクラスメイトの
「あ、うん、おはよう」
力弥は気持ちを切り替えて、祐介ににこやかに挨拶を返した。
「なぁ、リッキーは夏休みなにしてたん?」
リッキーとは力弥の愛称だ。力弥が自席に着くと、その前の席に祐介は座った。それに気が付いて、他のクラスメイトも二人の周りに集まってくる。そうして、休みの間に何をしていたのかとか受験勉強はどうだという当たり障りのない会話をしていた。
今の力弥にとってはそうした話題は心底どうでも良かったが、明星が来るまでの暇つぶしと思って会話を続けた。
「バイトばっかしてんじゃん。勉強大丈夫なの?」
「いや、お前も勉強してんのかよ」
「ていうか、バイト先ってあの定食屋だろ。あそこの店長ってめっちゃ美人じゃね?」
「マジで?リッキー今度紹介しろよ」
友人たちからの会話を聞き流しながら、明星の席の方をちらりと見やった。まだ来ていない。朝のホームルームが始まろうとしているのに、明星は学校をサボる気かと力弥は気が気でなかった。今まで明星のことを意識して見ていなかったので、そういえば彼が何時ごろに登校するかを知らなかった。
「店長が美人? まぁ、美人と言えば美人だけど。あの人は店以外だとだらしないよ」
「おい、店以外ってどういうことだよ」
藪蛇だった。店長の伽羅とは幼少時からの付き合いなので、言わば幼馴染というやつだ。ただ、年齢は向こうの方がずっと上だが。そのことを説明しようと思ったが、友人たちが血走った目でこちらを迫ってくるので、どうにも説明しにくい。
そこへ明星が教室に音もなくに入ってきた。友人らに迫られている中、視界の端に彼の姿が入った。声をかけようと思ったが、友人らの包囲網から出る手段が今の力弥にはなかった。視線だけ明星の方に向けると、明星も力弥の方をちらりと見やった。一瞬、二人の視線が交わった。
明星の方をもう少し見たいと思ったが、ホームルームの時間を告げるチャイムが鳴った。それと同時にクラス担任の教師である高瀬が入ってくると、生徒らはそれぞれの席に就いた。そして、日直が「起立、礼」と声をかける。生徒らが立ち上がり、礼をして着座すると、高瀬はクラスメイトの出欠を取り始めた。
「明星」
「はい」
窓際の後の席にいる明星が返事をした。彼は名前を呼ばれたときは顔を正面に向けていたが、すぐに視線は窓の外に向かっていた。明星はやや癖のある赤みがかった黒髪をしている。教室の窓から風が吹き抜けると彼の髪はさわさわと揺れた。少し日焼けした明星は夏の陽光がよく似合った。
「おい、燕谷、返事は?」
先ほどから名前を呼ばれていたが、力弥はそれに気付いていなかった。我に返って周囲を見渡すと、皆が自分の方を見ていた。
「はい、 すんません。目を開けたまま寝てましたー」
手を挙げて、おどけることで気まずさをごまかそうとした。高瀬は呆れた表情を浮かべたが、クラスメイトは面白そうに彼を見ている。自分が明星の方を見つめていることがバレていないだろうかと心配になったが、誰もその点には触れてこなかった。
*
燕谷に何か問い詰められるのではないかと思った勇輝はややぎりぎりに教室に来た。燕谷はクラスのムードメーカーとも言える存在で、常にクラスの中心に彼はいた。夏休みが開けた直後であればクラスメイトと夏の話題で盛り上がっているだろう。
そして燕谷はそんなクラスメイトに囲まれているのではないかと思った。そうした光景を何度も見てきた。予想通り、登校すると燕谷は複数の男子生徒に囲まれていた。このタイミングに教室に入れば声をかけられることはないだろうと勇輝は踏んでおり、そのまましれっと自席に向かった。
それでも燕谷の顔を見ようとしてしまい、彼と視線が交わった。人に見つめられるのに慣れていない勇輝はすぐに視線を外し、すたすたと席についた。このまま燕谷からの追及を免れたいと思ったが、そうはいかないだろうと覚悟は決めていた。
出欠を取っている際にぼんやりしていたのか、返事をし忘れた燕谷がおどけた返事をしていた。勇輝はそんな燕谷の様子を視界の端で眺めていた。切れ長の目で男女ともに好かれそうな凛々しい顔立ちにやや長い黒髪は後ろで束ねている。すらっとしていて背が高い。陽気な性格で友人も多く毎日を楽しく過ごしているのだろう。
彼は言うなれば太陽みたいに眩しい。羨ましいとは思わないが、見続けることはできない。そんな燕谷の陽気から逃れるように、勇輝は彼を視界から外し、窓の外の景色を眺めた。外も太陽の陽光が強い。どっちも眩しい。
「身長はちょっと羨ましいかも」
嘆息するように漏れた勇輝の声は残暑の空に溶けていった。
*
休み時間のたびに声をかける機会を力弥は伺っていたが、明星を捕まえることはできなかった。明星は忍者というよりも、透明人間のように気が付いたら姿を消していた。今日を終えるチャイムが鳴った。ここで彼を逃せば明日以降になってしまう。
「リッキー、この後、どっか寄ってかね」
「ごめん、今日はパスで」
友人らの誘いを振り切り、教室を飛び出し明星の姿を探した。彼の姿はない。このまま帰るつもりなら昇降口に向かうはず。同様に帰宅の途につく生徒たちをかき分けながら廊下を進み、昇降口への最短ルートを走った。
階段を駆け下り、昇降口の靴箱の前に着くと、あたりを見渡した。靴箱には明星の姿はない。しかし、その先の昇降口の開け放たれた扉の片側に、誰かを待っているように佇んでいる明星の姿があった。
息を切らしながら力弥は明星の方に向かい、上履きのまま彼の傍まで近づいた。すると、明星は力弥の方に目だけで視線を向けると、小さくため息をついた。そして、力弥に向き直ることなく声をかけた。
「学校だとあれだから、外で話そう」
そういってスクールバッグを肩から担ぐように持つと、明星は昇降口を出た。そして茫然と立ち尽くしている力弥の方に向き直ると、少しいらだったように「早くしろよ」と声をかけた。教室からここまで急いで来たのにバカみたいだと思いつつ、力弥は上履きからスニーカーに履き替えると、明星の後について歩いた。
明星が正門を出ようとしたところで、自転車のことを思い出した力弥は明星に自転車を取りに行くから待ってほしいと言った。すると、「うん」と言って明星は軽く頷くと正門にもたれかかって項垂れていた。その少し寂し気な雰囲気になんだか申し訳ない気がして、力弥は気が付いたら駆け足になっていた。
「ごめん、お待たせ」
駐輪場から自転車を取りに戻ると、力弥は明星に詫びながら声をかけた。すると、明星は黙って歩き始め、正門を出た。夏休みが終わったとはいえ太陽の輝きに陰りはなく午後の太陽からは容赦ないじりじりとした陽光が降り注ぐ。
明星は何も喋らない。そんな寡黙な彼とは対照的に力弥は人といるなら口を開かずにはいられない。しかもこの暑さだ。気を紛らわすためにも何かしら会話が欲しい。沈黙に耐えきれず、力弥は明星に声をかけた。
「なぁ、どこに行くんだ」
「暑いよな、涼しいところ行こうぜ」
力弥は何度も声をかけたが、明星は答えない。それどころかちらりともこちらを見ない。黙ってついてこいということだろうか。あるいは怒っているのだろうか。その時、光の粒子から明星が現れるあの光景を思い出した。あれはきっと誰にも見られてはいけない秘密なのだろう。それを見たことで自分は消されてしまうとか。
どうして今までその発想がなかったのか。考えてみれば、自分は大変なことをしたのではないかと力弥は今更ながらに昨日のことを後悔した。このまま明星についていけば人気のない所で例の黒い男になって殺されてしまうのではないか。血まみれになる自分の姿を想像して、力弥は血の気が引いた。
すると、力弥は足がすくんでしまい、その場で立ち尽くしてしまった。残暑の猛烈な太陽の下にいるというのに、力弥の視界は暗黒に包まれようとしていた。明星は力弥がついてきていないことに気が付くと、振り返って力弥の方を見た。その目から殺意は感じられない。むしろ、力弥を小馬鹿にしているように見えた。
「何やってんだよ。早く来いよ」
「なぁ、だからどこ行くんだよ」
「ムンバ」
ムンバとはムーンバックスコーヒーという世界最大のコーヒーチェーン店のことだ。老若男女を問わず、多くの人が訪れ、コーヒーや食事を楽しめる場所だ。この近くだと、正門から続く道路の先にあるショッピングモールにある。明星はそこに向かおうとしているのだろう。
どうやら人気のない所で自分を処分する気はないと力弥は分かると安心して明星についていくことにした。いやむしろ、力弥は明星のすぐ横まで駆け寄ると、馴れ馴れしく話しかけ始めた。怖がったり、懐いたり、力弥の感情の変化は忙しない。
「ムンバに行くなら最初にそう言えよ。外は暑いから、ちょうどいいな」
急に距離を詰められて明星は先ほどまでのクールな面持ちが崩れ始め、どこか落ち着かない様子だ。そんな明星の様子を気にすることなく、力弥は信号待ちをしている間、明星に話しかけていく。
「ムンバにはよく行くのか」とか「普段は何をしているんだ」とか。
明星は答えることなく黙っている。そして信号が青に変わるとずんずんと歩いていく。相変わらず無口だなぁと力弥の口からは無神経な感想が洩れた。明星が力弥を置いて一人でショッピングモールに入って行ってしまうのを見ると、力弥は慌てて自転車を適当な場所に停めると、明星に続いて建物の中に入った。
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