そして彼はヒーローになる

飛馬ロイド

第1話 邂逅

 外が静かになった。


 マシンガンのような雨音と体に響く雷鳴が聞こえなくなった。薄暗かった部屋に陽光が差し込んでくると勇輝ゆうきは顔を上げて窓を開けた。ふわっと、雨上がりの香りが彼の体を包みこむと、小さく息を吸った。


「いい匂いだ」


 あれだけ暑かった外の熱を夕立が冷ましてくれた。さらにサービスだと言わんばかりに風が吹き抜ける。勇輝は軽く目をつむると夏の夕暮れの空気を全身で感じていた。鬱陶しい夏の暑さは薄れ爽やかさが体を通り抜ける感じがした。


 部屋の中だけでは飽き足らず、彼は文庫本とスマホを手に部屋を出た。Tシャツと短パンにつっかけというラフな格好で家の外に出ると、今度は大きく息を吸った。庭の木々は陽光にキラキラと輝いて緑が一層際立って見えた。


 家のドアに鍵をかけ、当てもなく歩き回った。所々に見られる水たまりをよけつつ歩いていると、自然公園の前にいることに気が付いた。公園の中は雨上がりの香りに加えて土と緑の匂いに満ちていた。


 木々に囲まれた公園の小道を歩いているうちに東屋が目に入った。東屋の下のベンチなら濡れていないと思い、勇輝は東屋のベンチに腰掛けた。腰掛けてから周囲を見渡した。犬の散歩をしている老人や親子連れが見えた。


 静寂の中にあった公園が徐々に騒がしくなる。雷雨の間に身を潜めていたセミたちが僅かな時間を惜しむように鳴き始めた。


「カナカナカナカナ」


 涼しくなってきたことでヒグラシの声があたりに響いている。勇輝は部屋から持ってきた文庫本を開いた。日が完全に落ちてあたりが闇に包まれるまでの間だけでもここで本を読みたいと思った。


 時間は限られている。限られているからこそ自分にとって大事なことをすべきではないか。勇輝は大学受験を控える身であれば、一般的には彼にとって大事なことは受験に向けた勉強と言える。


 しかし、それが本当に必要なことなのか。勇輝は自身に問いかけながら本を開いた。本の中に綴られる物語にその身を投じることは勇輝にとって勉強より大事なことのように思える。空想に浸る時間は自己を維持するのに必要だ。


 勇輝にとって、それはカタルシスなのかと問われると違う気がしている。自分は何かに追われることも、何かに責め立てられているわけではない。ただ、逃げたいのだ。自分にかけられた呪いと逃れられない運命から。そのためにフィクションは必要なのだ。癒される必要はなく、そこに熱中できればそれでいい。


 勇輝が開いた本は、とある部屋で主人公の女性がディスプレイ越しに天才と称される女性博士との面会から始まる。勇輝はディスプレイの向こう側にいる女性のとあるセリフが心に残っていた。「7だけは孤独」と言うセリフだ。


 どうして7が孤独なのだろう。孤独な7はどこに行くのか、どこに行けるのか。孤独な7を気にしながらページを繰る。 その後、とある島の研究所に大学の助教授と大学生が訪れる。この本はミステリーなのだから、きっと彼らは殺人事件に巻き込まれるのだろう。


 ふと、勇輝は文字を追うのを止める。大学生か、そんな未来もあったんだろうな。本に目を落としたまま、彼の思考はそこで止まっていた。周囲は徐々に暗くなり、西の空は朱色に染まりつつあった。雨の香りはとうに失せ、勇輝が本を閉じようとしたその時だった。腕にじんわりと熱が伝わってきた。


 黒くて武骨なブレスレットが勇輝の右手にははめられている。ブレスレットといっても二本の湾曲した獣の爪のようなものが輪を形作っているもので、中央にガラス玉がはめられた留め具が爪同士をつなぎ合わされている。オシャレと言えなくもないが、どちらかと言うと不気味な見た目である。


 そのブレスレットの留め具に嵌められているガラス玉のような部分が僅かに赤く鈍く光っている。それと同時にそのブレスレットは熱を発しているように感じる。勇輝はそのブレスレットを左手で握りこむと軽く目を閉じた。ブレスレットが放つ光や熱を、左手を通して全身で理解するように集中している。


「駅の方か」


 駅の近くの商店街で何かが暴れている。それを感じ取ると、周囲の人目を気にするように公園の隅にひっそりと建っている公衆便所の裏手に回った。そこは隣の建物の塀と公衆便所の建物に挟まれ、寄り付く人はいない。


 夕暮れが近く、夕立の後ということもあり、公園内は閑散としている。勇輝は人の目に付くことなく塀と建物の間に身を隠した。そして気持ちを落ち着けるように深呼吸を一度すると、目を見開き、覚悟を決めたようにブレスレットを眼前にかざした。


「変身」


 ブレスレットを中心にして光の奔流があふれ出し、勇輝の体を完全に包み込んだ。そして、その光が質量をもったように勇輝の体にまとわりついていく。それに伴い、勇輝の外観が徐々に変貌していく。彼の細い体は黒く逞しい肉体に覆われ、体格も二回りほど大きくなっていく。その胸には大きな白い十字の模様が刻まれる。それはちょうど星の輝きのようにも見える。


 さらに腕や脚の側面はさらに光が集まり強く輝いているように見える。そこには赤い甲殻のようなものが形成されつつあった。言うなれば鎧。動きを阻害しないように関節を避けるように赤い甲殻は体を覆う。


 次に、手や足部にも光が凝縮し、指の一本一本に禍々しく攻撃的な爪が形作られた。その爪は鷲の鉤爪のように長くて鋭利で、ナイフのように大きい。その刃物のような爪を含めると元の勇輝の手と比べて倍以上はあるだろう。


 最後に、残った光の渦は勇輝の顔に集まってきた。顔全体が白い甲殻で包まれ、彼の顔を仮面のように覆いつくした。目は赤い水晶体のようなものがはめ込まれ、外見だけで「これ」が勇輝だと判断するのは難しくなった。そして、黒い頭髪が背中に届くほど伸びると光は収まった。


 勇輝は上を見ると、塀と建物に間からわずかに夕暮れに染まりつつある空が見えた。次の瞬間には、彼の体はその隙間にはなく、空を飛んでいた。勇輝の体は近くのタワーマンションよりも高く飛び上がり、西に傾く太陽よりも高く思えた。その太陽の赤い光の中で、赤い甲殻はさらに朱に染まり、その反面、影が濃くなり、黒い体を漆黒に染め上げる。


 勇輝は駅の方を見つめた。到底何かが見えるとは思えないが、今の彼の視力であれば百メートル先のスマホの文字を読むことすらなんてことはない。建物の影ではっきりとは見えないが、人の何倍もある巨大な何かが動き回っているのが見える。


 勇輝は空中で体の向きを整えると、何もない空中を蹴るような仕草をすると風のように体が滑空した。何もない空中を蹴ることなんてできないのに。勇輝は頭の片隅で物理に反するなぁと苦笑しつつ、巨大な何かに向けて突き進んだ。


 そもそも光に包まれるだけで突如体格が大きくなって、筋骨隆々になっている時点で様々な物理学や生物学に反しているわけで、空中を蹴るなんて大したことじゃないかと独り言ちると、既に勇輝は巨大な何かの近くまで来ていた。


 そこは駅前のバスロータリー。駅には複数の商業施設が林立し、それらの間にロータリーはある。ロータリーの上には駅の改札に続く広場がある。広場の中心は穴があいていて、ロータリーに降りるための階段がある。勇輝はその穴からロータリーに降り立った。


 勇輝はゆっくりと速度を落とし足から地面に立つと、巨大な何かを見上げた。それは巨大な蛇のようだが、蛇の頭にあたる部分には女性の体があった。腰から上の女性の体が蛇の頭の部分に生えているように見えた。


「シャアアァァァ」


 蛇女は奇声をあげ、目の前に降り立った勇輝を威嚇し始めた。蛇女の体の所々からは炎が噴き出しており、その周囲は熱気を帯びていた。黒くて長い髪も先端に向かうと炎に変化している。


 蛇女が少し動くたびに周囲の地面がきしみ、噴き出す炎が周囲を焦がしていく。周囲に人だかりはできつつあるが、間近に見ようとする命知らずはいないようだ。勇輝はそれだけを確認すると、両手を強く握りこんだ。


「さて、やるか」



 夏休みが終わる。


 夕立を確認しようと店から出てきた力弥りきやは空を見上げながら、今日が夏休みの最終日であることを思い出した。雨はすっかり止んで、激しい雨の痕跡は道路に点在する水たまりだけになっていた。うだるような暑さはなく、爽やかな風が吹いていた。


 「高校三年の夏ってこんなあっけなく終わるのかよ」と雨上がりの空に語り掛けるように呟いた。夏休みが終わることを焦っているわけではない、宿題が終わっていないとかそういうお決まりの悩みではなく、高校生の夏が持つもっと大事な意味を考えてしまった。


 友達と思い出を作ったり、彼女を作って甘酸っぱい日々を過ごしたり、あとは夢に向かって頑張るとか。そういう今でしかできない時間を過ごすべきだったのだろうなと力弥は他人事のようにこの夏を思い返す。


 力弥も人並みには大学受験をするつもりでいる。だから、友達に誘われるままに予備校の夏期講習に参加したり、模試を受けたり、人並みに「受験生」をやってみた。別に勉強に悩んでいるわけではない。親や先生に勧められるままに志望校の欄を埋めた。そして模試の合否判定結果はB判定で、このまま勉強すれば合格するとも言われた。


「大学か・・・」


 雨が上がり、傾きかけた陽光を仰ぎながら力弥はため息をつく。勉強をして大学に行って、そのあとはきっと就職するというのが自分の願いなのだろうか。それは両親や教師の期待ではないのか。自分は行きたくて大学に行くのか。


 力弥はそれが分からなくて今日も「天衣無縫」でアルバイトをしている。勉強はいつでもできる、傲慢でも何でもなく、力弥はそれで大学には行ける気がしている。ただ、勉強する理由が足りていない気がしている。


 力弥は店の外の「準備中」の札を裏返して「開店」を表にすると、店の中に戻った。「天衣無縫」は和を基調とした外観で、昼は定食屋、夜は居酒屋という業態の店だ。ただ、夜も定食の注文は受け付けている。


 「天衣無縫」はおしゃれさとは縁遠い、揚げ物を思う存分食す店なのだ。なお、力弥のお勧めは「店長のわがまま定食」だ。これは揚げ物をこれでもかと積み上げた至高の逸品で、食べ盛りの男子たちにはもちろんのこと、揚げ物が好物のおじさまたちにも好評のメニューだ。


 店の電話が鳴っている。おそらくは配達の注文だろう。電話の応対は店長がしているが、配達は力弥の仕事だ。


「唐揚げ盛り合わせですね。ご注文ありがとうございます。」


 店の奥から快活な女性の声が響く。この店の店長である宮武みやたけ伽羅からの声だ。黒くて張りのある髪を結いあげ、Tシャツにジーンズというラフな格好ながらも、女優顔負けの美形から近隣の男子学生であれば振り返らずにはいられない。加えて、竹を割ったような性格から女子学生すら虜にしていると噂だ。


 ただし、ここに一人の例外がいる。それが力弥だ。力弥は伽羅を女性と認識する以前からの腐れ縁であり、彼だけは伽羅に魅力を感じないそうだ。力弥がフロアの準備をしている間に、奥で店長は調理を始めていた。電話の注文にあった唐揚げを揚げているのだろう。唐揚げの揚げあがりのカラカラという心地の良い音が力弥の耳をくすぐる。


「力弥くん、配達お願い」


「うっす」


 力弥は配達用のバックパックを取り出した。唐揚げは輪ゴム止めされた透明容器に入れられ、ビニル袋にまとめられている。それをバックパックに入れて担ぐと裏口から店を出た。


 力弥は店の裏に止めてある自転車に跨るとスマホで届け先を確認した。商店街を道なりに進んで、駅の前を通って行くのが良さそうだなと経路を頭の中で確認した。その先の詳細は近くまで行ってから確認することにした。


 雨上がりの商店街では西の空に傾きつつある夕日を水たまりが反射してキラキラと光っている。どこか空気まで洗浄されたような気がして、力弥は息を吸い込んだ。雨上がりは好きだ。自分を覆っている何かも一緒に洗い落とされたような気がするからだ。その解放した瞬間は気持ちが良い。


 でも、その後はどうなるのだろう。解き放った自己はどこに行くのだろう。自由になってもどうせ疲れないような場所にわだかまって、淀んだ空気のようになってしまうのではないのか。暑さの抜けた涼しい風を受けながら、そんな考えが頭をよぎった。


 力弥の自転車が商店街を通り抜け、駅の方に向かっていると、駅前ロータリーから大勢の人が逃げるように走っているのが見えた。中には、駅前のバスロータリーを覗き込むように見つめ、スマホを構えている人もいる。


 事故か事件だろうか。仕事の途中だが、少し見に行くだけなら構わないだろうと思って、他の野次馬に混じって駅前ロータリーの方を眺めた。力弥の位置からははっきりとした状況は分からないが、一つ分かったことがある。それは巨大な何かが動き回っていることだった。


 駅前のバスロータリーの真上には駅の二階から続く広場がある。その巨大な何かはその広場に届くほどの巨体だった。信じ難い光景にその場の誰もが目を見張った。力弥は巨大な何かをもっとよく見ようと、自転車から降りると人混みをかき分けて、駅前ロータリーに近付こうとした。


 何人かの大人たちにやめるように声をかけられたが、力弥は目を離すことができなかった。忘れかけていた熱量が体の中に湧いてくる感覚を力弥は押さえることができなかった。近付くにつれて、駅前ロータリーの状況がはっきりと理解できた。そこには巨大な蛇の怪物とそれに対峙する人型の何かがいた。


 何の根拠もない、ただの直感で、力弥はその人型が正義のヒーローのように思えた。黒い皮膚の所々に赤い鎧のようなものを纏い、黒い長髪の大男。一見すると、特撮ヒーローの悪の幹部のようにも見えた。しかし、この状況であれば、あの大男はヒーローのはずだ。


 よく見ると、巨大な蛇の頭のある場所には女の体がある。紫色のズタボロの服をまとった長髪の女。その女の体が黒い男に襲い掛かる。女の体はその大男よりも更に一回りも大きい。二階に届くほどの巨大な蛇の体に大柄の女の体という圧倒的なウェイト差をものともせずに黒い男は正面から対峙する。


 その瞬間、周囲の空気が震えるような感覚を肌で感じた。黒い男は蛇女の手を両手で受け止める。巨大な蛇女の体重が男の体を伝って地面を揺らす。その揺れだけで周囲の野次馬の何人かは逃げ出したが、力弥は益々目を離せなくなった。


 黒い男と蛇女は互いの手を握る形で押し合いをしていたが、男は体を後方へいなすと蛇女はバランスを崩して両手を地面についた。すると男は蛇女の顔に下から蹴りを入れた。蹴りの勢いでその場で一回転した男はすぐさま地面に降り立つと目にも止まらぬ速さで今度は膝蹴りを入れた。


 膝蹴りが見事に蛇女の顔面に入ることで蛇女の顔面は仰け反り、蛇女の動きが止まった。そしてすぐさま黒い男は次の攻撃の準備に取り掛かった。男は両手を左右に広げると、指先の爪が倍の長さに伸び、そのまま垂直に飛び上がった。そして、男はふらつく蛇女の眼前で長く伸びた爪を交差させた。


 鮮血がエックスの形に飛び散ったように見えた。続けて、蛇女の身の毛がよだつ絶叫があたりに響き渡る。黒い男は鮮血と絶叫を全身に浴びながら、何事もなかったように地面に降り立った。


 力弥の目には獣同士の闘争のように見えた。それは人知を超えた凶悪な獣たちが互いの生存を賭けた戦い。そこでは人間は蟻などのような小さく弱々しい生き物であり、傍観に徹するより他にない。


 飛び散る鮮血に、聞くに堪えない絶叫は周囲の人々を恐怖させた。周囲に群がる人の輪は次第に広がり、獣たちの闘争の巻き添えを避けるように野次馬たちも離れていく。そんな中、力弥だけは目を離すことができなかった。黒い男の姿に目を奪われてしまった。


「おい、離れろ」


「危ないから君も逃げなさい」


 周囲の大人たちはそんな力弥の行動を制しようと声をかけたり肩を掴んだりするが、力弥の足は止まることはなかった。自分にヒーローに憧れる側面などあっただろうかと自問しながら、少しずつ、黒い男に近付いていた。


 蛇女は絶叫しているだけで、絶命する気配はない。黒い男もそれを知って蛇女を仰ぎ見つつ、どこか睨んでいるように見えた。蛇女の体の至るところから炎が上がり、蛇女が力を高めているようだ。


 蛇女は目を大きく見開き、口が耳まで裂けたかと思うと、炎の塊を吐き出した。炎の塊は黒い男めがけて放たれる。男は驚く様子もなくそれを一瞥すると、右手の爪を横一文字に一閃すると、炎の塊は雲散した。その衝撃で空気の奔流が周囲に巻き起こり、寸断された炎が火の粉となって飛び散った。


 あの禍々しい爪の前ではいかなる獣たちもひれ伏してしまうのではないか、そんな考えが力弥の頭の中に去来した。力弥は火の粉から守るように両手を顔の前にかざし、黒い男を凝視した。そして、また一歩、彼に近付こうとした。どうしても歩みを止められない。


 蛇女は、蛇の体を持ちながらも、蛇に睨まれた蛙のごとく黒い男に睨まれることに恐怖を感じつつあった。このままではこいつに滅せられるという恐怖が蛇女から感じられた。その時、蛇女の視界に力弥が入った。


 力弥との距離は離れているように見えるが、長い体を持つ蛇女にとっては、尻尾を振り回せば簡単に力弥に届くことができる。この黒い男の気を逸らすのに力弥を利用しようと蛇女は考えに至った。一方の黒い男は、背後にいる力弥との距離を正確につかめていない。


 蛇女は耳まで裂けた巨大な口が開き、にやけたような表情を見せた。それを見た者たちは、黒い男も力弥も周囲の野次馬も、背筋が凍るような不気味さに襲われた。黒い男は何かの攻撃が来ると体を構える。流石の力弥も足を止めた。


 何かを引きずるような音があたりに響いたかと思うと、蛇女の巨大な尻尾が円を描くように地面を滑っていく。しかし、その尻尾の先端は黒い男を狙っていない。黒い男の後方に向かっている。巨大な尻尾は駅前に止まっているバスを横転させながら、力弥めがけて伸びている。


 黒い男が後方を振り返りと、力弥が佇んでいるのが目に入った。すると、しまったと言わんばかりに後方に飛びのき、蛇女の尻尾の猛襲から力弥をかばった。尻尾の強力な一撃を受けた黒い男は近くの建物に体を強く打ち付けた。


 力弥の目の前で黒い男が吹き飛ばされた。尻尾の攻撃から黒い男がかばってくれるまでの一連の動きが瞬く間に起きたように思え、茫然としてしまった。だが、黒い男にかばわれたという事実に気が付くと、男のそばに駆け寄った。


「あ、あの大丈夫ですか」


 建物に体を強く打ち、一瞬だけ膝立ちになったものの、すぐに立ち上がり、蛇女を睨んだ。そして、力弥が声をかけると、力弥の方に向き直った。


「早く、逃げろ」


 そう言った男の声は、見上げるような大男とは思えない、どこか幼さを感じさせた。そう、力弥とそう年の変わらない高校生のような気がした。そして、力弥に声をかけた黒い男は力弥の顔を見るや、少し動きが止まったように思えた。しかし、それは気付くか気付かないかの微妙な間であり、すぐさま、男は蛇女に向かおうとした。


 その時、黒い男の背中が力弥の眼前にそそり立った。強く頼もしい背中だ。強大な怪物に対峙し、自分を守ろうとする大きな背中があった。しかし、どこか寂しさを感じさせた。そこには誰にも頼ろうとしない決意のようなものがあった。


 しかし、尻尾で体を打ち付けられたダメージがあったのか、動きが一瞬遅れた。蛇女の巨大な体がすでに二人の頭上にあり、黒い男は蛇女の両手で鷲掴みにされた。そして蛇女にそのまま持ち上げられた。


 蛇女は眼前まで黒い男を持ち上げると、にやけた口から二つに割れた舌をチロチロと出しては男の顔を舐めた。もはやダメかとそれを見ている誰もが思った。あの耳まで裂ける巨大な口で黒い男の頭を丸かじりするのではないかと、想像する者が野次馬の中にいただろう。


 力弥は違った。力弥は黒い男の足の指の爪が刀剣のように長く伸びていることに気付いていた。そして、蛇女が油断して口を大きく開いた瞬間、蛇女と男の間で鮮血が輪を描いて飛び散った。すると、男の体は解放され地面に降り立つと、蛇女の切断された右腕が男の横にぼとりと落ちた。


 黒い男は足の爪を刀剣のように伸ばし、蛇女の片手を切り落としたのだ。切断された右腕からとめどなく血が噴き出し、黒い男の全身がその鮮血に染まる。先ほどよりもさらに大きな絶叫があたりに響き渡り、人々の耳をつんざいた。黒い男は意に介する様子もなく、両手の爪を伸ばした。


 すると、黒い男は蛇女の前に立ったかと思うと、次の瞬間には背後に、次の瞬間には蛇女の右横にという風に目にも止まらない速さで蛇女の周囲を縦横無尽に動き回った。その素早さには蛇女も把握することはできていない。


 蛇女は黒い男の姿を追おうとするも追いつくことができず、逆に蛇女の体に小さな傷が入っていく。そう、黒い男がヒットアンドアウェイの攻撃を決めているのだ。一つ一つの攻撃は小さいが段々とその傷が増えていき、蛇女の体がズタズタになっていく。


 やがて、黒い男の高速運動が臨界に達した。俊足で動き回る黒い男の体がまるで黒い嵐の壁のようになって蛇女の体を完全に取り囲んでいく。そうして蛇女の体すら見えなくなったかと思った次の瞬間。黒い男は蛇女の後方に飛んでいるのを力弥は見た。


 黒い男が地面に降り立つと蛇女の巨体がバラバラと崩れていった。それと同時に、蛇女の組織が崩壊していくのが見えた。巨大な蛇女の体は黒い塵のようなものになっていき、そのまま蛇女は消えていった。


 力弥は巨大な怪物が塵となって崩れていく向こう側で黒い男が立っている姿を見た。それは陽炎の中で佇んでいるように見え、力弥にはそんな男の姿に儚さを感じずにはいられなかった。あれだけ強い男からなぜ儚さを感じるのか。


 男は塵になる蛇女を顧みることはなく、蛇女の体の全てが塵に変わる前に高く飛び上がった。飛び去る男の姿を力弥は見逃さなかった。周囲の人々は糸が切れたマリオネットのように茫然としていて、微動だにしない。その状況に異常性を感じつつも、力弥は黒い男の行く先を目で追い、自転車に跨り足を動かした。


「あれは神社の方角だ」


 力弥のバイト先の天衣無縫のすぐ近くに十字路がある。その十字路を店から見て右折した道の途中に神社への参道がある。高い木々に囲まれた参道を抜けると神社と広場がある。黒い男はその方向へ向かっているように見えた。


 力弥は店の方に向かって自転車を急いだ。自分が配達中で、その配達先が全くの逆方向であることなど今の彼には関係のないことだった。今はただ、彼の心を突き動かすあの黒い男のもとに向かいたいという衝動だけが力弥を突き動かしている。神社の参道の入り口に辿り着くと、自転車を降り、手で押しながら参道を歩いた。


 日が暮れつつある境内には人の気配はない。境内は見上げるような木々が無数にあり夕方ともなればすでにあたりは暗闇に没する。そして、奥の拝殿に進むにつれてその闇は深いようにも思えた。


 ふと、力弥の脳裏に黒い男に会ったらどうするのかという思いが浮かんだ。どうしようという言葉とともに自身の後先のなさに嘆いた。もしかして、後をつけたことで殺されたりしないかと思い、背筋をぞくりとした怖気が走った。


 しかし、ここまで来て後戻りなどできないと思い、参道の先にある拝殿に向かった。拝殿は木々に囲まれ、昼間でも薄暗い。その拝殿の陰なら身を隠せる。そこに黒い男はいるのではないかと力弥は考えている。鳥居の先のご神木の近くに自転車を置くと、足音を立てないように周囲を探索した。


 すると拝殿とお稲荷様の間の物陰で足音のようなものが聞こえた。力弥は足音に気を配りつつも急ぎ足でそこへ向かった。そして拝殿に身を寄せて物音のする方をちらりと見やった。案の定そこには人影があり、それの体躯は大きく、先ほどの黒い男を思わせた。


「解除」


 若い男の声が聞こえた。そういえば、逃げるように言われた時も感じたが、体格のわりに幼い印象を受ける声だった。ふと、力弥はそれだけではないと感じた。どこかで聞いたことがある。


 誰だろうという好奇心から、身を隠すことを忘れ、声の主の方へ体が動いていた。そして、力弥は声の主と相対する位置に立つと、男の体に起きている変化が目に飛び込んできた。黒い男の体からは光の粒子のようなものが放たれ、それによって男の体が徐々に消えているかに思えた。


 だが、よく見ると違う。その先に黒い男と比べると小柄な男性がいる。そう、力弥よりも背の低いその男を力弥は知っていた。男の体から放たれた光の粒子のおかげで辺りが明るくなり、中から現れた男の顔をはっきりとみるとことができた。


 粒子がほぼ消え、その男の全身が見えると、力弥は足を一歩前に踏み出した。その足音で男も力弥の存在に気が付いた。それと同時に力弥の口から声が漏れた。


「お前、明星あけぼしか?」


 明星勇輝、力弥の通う高校のクラスメイトの名前だ。

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