手紙

ぐるぐる

手紙

 現在、この国において、いわゆる病院薬剤師というのは、薬剤師全体のうち二割程度しかいないらしい。一番多い勤務先は保険薬局で、約六割を占めている。

 これは新卒薬剤師の就職先割合としてもそう変わらない。保険薬局への就職率は減少傾向で、最近三割を切ったらしいが、ドラッグストアの調剤部門への就職と合わせると約半数だ。一般の病院・診療所への就職率はやっぱり二割くらい。

 大学の研究室なんかでは「最初は国公立の大きな病院に就職して、五年目くらいで薬局に転職するのがいいよ」なんてよく聞くが、病院就職はあんまりメジャーな選択ではないのが現実だ。ただでさえ少数派なのに、その上いきなり民間の中小病院に就職するやつなんて、よっぽどの変わり者だと言える。それも、大学のある土地でもなければ、故郷でもない、縁もゆかりもない地方の中小病院となれば、正気の沙汰じゃないと言われてもしょうがない。

 それでもおれは、知り合いのひとりもいない土地に行きたかった。

 全国どこでも就職先が見つけられるのがこの資格のいいところだし、地方だったら大体は必死に薬剤師を探している。規模の大きい施設になると、薬剤部の規模自体も大きくて、入職試験があったり夜勤があったりで面倒くさい。あんまり小さすぎる施設は逆に新卒を受け入れてくれない。そこそこの施設規模で、薬剤師の人数もほどほどで、できれば職員寮があるようなところがいいなと、適当に選んだのが今の勤め先だった。

 県庁所在地の郊外にある民間施設。病床数は全体で約百五十床、診療科は内科・外科・整形外科に緩和ケア科。薬剤部の定員は五名。

 大学の就職課や同級生たちには首を捻られたし、新卒薬剤師の就職先としてベストな施設ではないだろう。けれど、おれとしてはそれなりに満足していた。

 縁もゆかりもない土地に就職して、大学の友人たちともほぼ没交渉になったものだから、それをわざわざ話せるような相手がいないのは、少しだけ不満だけれど。


 ○


「おはようございまーす」

「はーい」

 カウンターのほうから声を掛けられて、反射的に返事をする。ログインしたばかりだった電子カルテは一旦置いておいて、立ち上がる。

 朝一番の薬を吐き出す自動分包機を横目に浅いカゴをひっつかみ、カウンターに向かうと、そこはすでに処方箋の控えやら薬やらでいっぱいだった。抱えているカゴの中身を順番に広げていたのは緩和ケア病棟の師長・宮崎さんだ。

「おはようございます」

「ああ、西村くん」

 声を掛けると一瞬だけ手を止めて、宮崎さんはおれを見る。明るい茶色に染められたショートヘアに縁取られたまるい頬が、サージカルマスクと一緒にほんの少し持ち上がったのがわかる。

「お薬の返却です」

「ああ、はい……。野村さんかあ」

 塩酸モルヒネ注50㎎。カウンターに積まれた注射薬の箱を見て、おれはぼやく。今、50㎎の処方が出ているのは、院内全体でも野村さんだけだった。七十代のおじいさんで、主病は大腸がん。今回緩和病棟に入院するまでに、腹水を抜くために入院をくり返していた常連さんで、おれも何度か退院指導を担当した。モルヒネとその希釈用の生理食塩水だけでなく、細々とした頓服も返ってきているので、これが処方変更用のための返却でないことがわかる。

「お亡くなりになったんですね」

 言いながら、モルヒネ注の箱を開けて、未使用のアンプルを確認する。処方箋の控えには昨日の日付の調剤印が捺されている。

「ついさっきね。尾崎さんも具合が良くないし、朝からもうバタバタで」

 尾崎さんは五十代の乳がんの患者さんだ。一昨日、フェンタニルテープが4㎎に増量になったばかり。この人は緩和病棟に直接入院だったから、顔を知らない。

 薬剤師も入院患者の全員に初回面談をするのが理想だけれど、うちの人数だとそこまで手が回らない。服薬指導のコストが取れない緩和病棟に直入の患者さんには、たまの退院時指導くらいしかできないのが現実だった。だから、顔を知らない患者さんのほうがずっと多い。

 知っているのは電子カルテの記録と、薬のことばかりだ。

 モルヒネ注に続いて、鎮痛剤、吐き気止め、下剤、精神安定剤と、内服の頓服を順番に処方箋の控えと照らし合わせて、返却確認の判を捺していく。定期の内服薬は先週すべて中止になっていたから、返ってきた薬はそれほど多くなかった。処方ごとに電子カルテ上の中止や返却の処理をしなくちゃならないので、数が少ないのは助かる。

 持ってきていたカゴにおれが薬を移し終わると、「そういえば」と宮崎さんが思い出したように言う。

「突然だけど今日の午前に医大から患者さんが送られてくることになって」

「ああ、今、部屋空いてますもんね」

 緩和病棟はほかの病棟より病床数が限られているのもあって、満床になっていることが多い。大体はベッドが順番待ちになっていて、どこかが空いてもすぐに一般病棟の患者さんが転棟して埋まるかたちが多くて、外来からの直接入院や他院からの転入はどっちかっていうと珍しい。あっても今みたいにたまたまぽっかり空いているベッドが多いときか、患者さんのほうによほどの理由があるときくらいだ。

「部屋は空いてるけど状態悪い人が多いからなあ」

「カンワ」と病棟名の書かれたカゴを抱え直して、宮崎さんはため息を吐く。

 元々緩和病棟は入院を受け慣れていない看護師さんが多いから、たまにあると結構バタバタするのだ。おかげでなかなか持参薬鑑別が下りてこなくて、薬剤師としてはやきもきすることも多い。

 まあ、でも、緩和病棟に他院から直接転院してくるような患者さんっていうのは、もうあまり薬を飲んでいなくて、持参薬鑑別自体は楽なことが多くていいんだけれど。

「しかも今回、すごく若い患者さんらしくて」

「へえ」

 わざわざ宮崎さんが「すごく」なんて言うくらいなのだから、よほど若いのだろう。うちでは結構若いほうの尾崎さんよりも更に。それじゃあ三十代の子宮頸がんの患者さんとかかなあ、と、おれはなんとなく考える。緩和病棟で若いというと、大体がその世代の婦人系がんの患者さんだった。

 だが、目を伏せた宮崎さんの言葉で、おれの予想はすぐに覆された。

「二十代の胃がんの男の子なんだって」

「……それは、かなり珍しいですね」

 思わず率直な感想が口から出てくる。緩和ケアで二十代でしかも男性の患者なんて、おれの短い薬剤師人生では初めてだ。たぶんこの病院の歴史全体でもほとんどいないんじゃないだろうか。

「一応入院の目的は疼痛コントロールらしいんだけど。若い子だし、よかったらまた服薬指導とか、お願いします」

 病棟に常駐はしていないが、一応緩和病棟の担当薬剤師はおれだった。服薬指導のコストは取れないし、緩和病棟は薬剤部から物理的に一番遠い病棟でもあって、滅多に足を運ばないんだけれど。もちろん服薬指導は病棟薬剤師の大事な仕事なので、たとえコストが取れなくたって頼まれたら実施する。

「了解です。またいつでも言ってください」

 おれは定型文を吐き出しながら、それでも内心少しだけ気を重たくした。

 緩和ケア科の患者さんへの服薬指導はただでさえ少し気を遣うのに、今回は若年男性と来た。若年の胃がんといえば真っ先に想像するのはいわゆるスキルス胃がんだ。実際の症例を見たことはないけれど、かなり進行が早いがんだという知識は持っている。

 頼まれたとして、一体どういう指導をしたもんかな……。考えながら、おれは宮崎さんの背中を見送った。


 ○


 おれが宮崎さんと話している間に、朝一番の調剤はほかの薬剤師が進めているようだった。なのでおれは心置きなく電子カルテ用のパソコン前に戻り、返却の薬を一旦脇に置き、まず緩和病棟の入院予定を確かめた。

 ――島谷海空。

 十時に入院予定で表示されているのは、えらく自然豊かな字面の名前だった。下の名前は何て読むんだろう。みく?首を捻りながら名前をクリックすると、カルテの個人ページが開く。患者名のところを確認すると、フリガナは「シマタニミソラ」になっていた。見るからに若い世代の名前だ。年齢は二十七歳。――おれと同じ歳だった。なんとなく苦い気持ちになる。

 大体の入院患者は、入院前に外来の受診歴があったり、転院依頼でファックスされた情報提供書があったりで過去の記録があるのだが、島谷海空の記録は今日の日付から始まっていた。緩和ケアの担当医の名前で、テンプレートどおりの入院時指示だけが記載されている。情報提供書のスキャンもまだということだから、よっぽど急に決まった転院らしい。疼痛コントロール目的という話だったが、疼痛時の指示や処方の入力もまだだ。これじゃあ何にもわからない。

 持参薬鑑別のついでに、きっと情報提供書のコピーも回ってくるだろう。処方が出るとしてもたぶん入院してからだ。そう判断して、おれは島谷海空の個人ページを閉じた。

 珍しい入院予定のことは一旦頭から追い出して、野村さんの退院処理に取りかかる。


 退院処理といっても、薬剤師の仕事はそう大したものではない。電子カルテ上に残っている処方オーダーで未実施のものを削除していき、その記録を残すだけだ。その作業のついでに、おれは至近の看護記録を遡る。うちの緩和ケア病棟の看護師さんは、ほかの病棟と比べて丁寧な記録をしていることが多かった。それが緩和ケア病棟ならどこでも当たり前のことなのか、うちのローカルルールみたいなものなのかは、わからない。

 記録には看取ったご家族の会話や野村さんの最後の服装などが丁寧に書かれていた。奥さんが用意した茶色のシャツに千鳥格子のズボン。野村さんとは何度か顔を合わせているが、病室で見た病院着の姿ばかりが思い出されて、茶色のシャツを着ているところは上手く想像ができなかった。


 ○


「えっ、若ッ!?」

 監査台で声を上げたのは近藤さんだった。おれより五年ほど長くここに勤めている先輩薬剤師だ。目をやると、ちょうどおれが終わらせた島谷海空の持参薬鑑別の監査に取りかかったところらしかった。情報提供書のコピーを掲げていた彼女がぱっとおれのほうを見る。

「この入院、二十七歳って!西村くんと同じくらいじゃない!?」

「ちょうどタメですね」

「えっ、珍しいですね。整形ですか?」

 分包機の操作をしていた水木さんが振り向く。彼女はおれの一年先輩。当然というか、この薬剤部で一番勤続年も年齢も若いのはおれだった。まあ、それでもみんな三十代・四十代だから、この土地のこの規模の病院としては年齢層は若めだと思う。

 おれは調剤の手を止めて、水木さんに答えた。

「緩和ですよ。胃がんで」

「ええっ……」

 水木さんがにわかに眉を寄せる。

「西村くんと同じ歳で胃がんで緩和……。か、かわいそう……私絶対指導とか行けない……泣いちゃう……」

 大袈裟な反応だ。「さすがに泣くなよ」と近藤さんのほうからツッコミが入る。

 水木さんは元々医大病院に勤めていたはずだけれど、病棟で担当していたのは主に耳鼻科だったらしく、うちの患者層とはあまり相性が良くなさそうだった。うちは一応は薬剤師それぞれで担当病棟を割り振っているけれど、いかんせん人数があまり多くない。状況に応じて担当していない病棟の服薬指導を請け負うこともあるけれど、水木さんはなるべく緩和ケアがらみの患者さんを避けている節がある。

「二十代で胃がんで疼痛コントロール目的で緩和に直入かあ」

 情報提供書に目を戻した近藤さんがぼやく。言葉のままの意味だけではなさそうな声色だった。「たぶん疼痛コントロールだけじゃなくなるだろうなあ」とか、そういうニュアンス。おれは内心だけで肯く。


 緩和ケア病棟というと看取りの場所だと思われがちだが、実際はその限りではない。退院できる人は退院する。というか、患者さんができる限り長く自宅に帰れるよう、諸々の環境が整うまでを繋ぐ場所としての側面も強い。だから入院時の目的が疼痛コントロールであることはそれほど珍しくない。

 しかし、全員が家に帰れるわけではないのも事実だ。医療従事者や本人がどうがんばっても、病気の進行がその努力を上回ってしまうことはままある。緩和ケア病棟に入院してくるがん患者のほとんどは、すでに積極的治療を終えているのだから、当然といえば当然だ。しかも、今回の患者――島谷海空は、ここまでの経過を見ても、かなり病気の進行が早いと見える。

 情報提供書には彼に胃がんの診断がついてからここに転院してくるまでの簡単な経緯と、その間に行われた治療の内容がきちきちと記載されていた。

 診断がついたのは去年の年末。若年の胃がんにはよくあることだが、その時点ではかなり進行したあとで、手術適応はなかった。当時は東京都在住で、一旦そこで化学療法を開始したようだが、そのタイミングで家族の要望もあり、治療に集中するという名目で地元であるこちらに帰ってきたらしい。しかしながら最初のレジメン(がんの薬物療法における薬剤の用量や用法を組み合わせた時系列的な治療計画)では奏功せずに中止。別のレジメンに変更になったが、副作用が強く出て、これも中止。肝転移が見つかったのもあり、先月半ばに積極的治療は終了。緩和ケアに移行して、うちに転院してくる運びとなったらしい。

 さして珍しくない内容だった。おれたちは毎日のように似たような情報提供書を目にしている。――患者が非常に若年であることを除けば。


 積極的治療を終えたからと言ってすぐに命が尽きるわけではなく、野村さんのように長く病院にいて最期を迎えるような人もいる。けれど、若年患者の、進行の早いがんというのはなかなかそうはいかない印象だった。もちろん、なるべく、一日でも長く自宅で過ごせるよう、努力はするのだけれど。

 近藤さんが監査台に広げた医大病院の薬袋には、赤字で「麻」の字が乗っている。

 疼痛コントロール目的で入院した島谷海空だったが、既にオピオイド系鎮痛剤――いわゆるところの医療麻薬の使用は始まっていた。オキシコドン徐放錠を一日あたり40㎎。レスキューはオキノーム散を一回10㎎。まださほど高用量というわけではない。

 情報提供書の記載によると、疼痛コントロールの目的は、今の用量ではコントロールできていないから量を調整しろというものではなく、嘔気が強く内服が困難になりつつあり、投与経路を変更しようというものらしかった。だから入院に併せてうちの主治医が貼付剤であるフェンタニルテープを新規処方している。

 この、「内服が困難」の記載が、近藤さんの渋い顔の理由だと思う。

 薬の内服が困難ということは食事も困難だということだ。やはり、口から食事を取れなくなってくると、先が厳しい。若いとその分体力もあるとはいえ。

 退院は難しくて、できても外出での一時帰宅程度なんじゃないかなと、そういう感覚がある。

「フェンタニルテープに変えるんだね」

 当院処方にも目をやった近藤さんの言葉におれはもう一度肯いた。

「もうすぐに貼っちゃいたいらしいんで、監査終わったらおれに言ってください」

「指導行くの?」

 まるで自分が行かなきゃならないかのように、水木さんが苦い顔をする。

「頼まれちゃってるんで。まあ、若い患者さんだから、説明はちゃんとしたほうがいいだろうし」

「私、緩和の担当じゃなくてよかった……」

 俯く水木さんに、おれはあえてへらへらと笑って返した。まあ、きっと、水木さんには緩和ケア病棟は向いていないだろう。

 ――おれ自身がどうなのかは、さておいて。


 ○


 緩和ケア病棟にたどり着くと、ナースステーションの中から宮崎さんがおれに手を振った。元々一旦寄っていくつもりだったので、そのまま彼女のほうに向かう。

「島谷さんの指導だよね?」

「はい」

 籠に入れて持ってきた薬を渡しながら、おれは軽く周りを見回した。さほど忙しそうでないことを確かめて、改めて宮崎さんと向き合う。

「すぐにフェンタニル貼ってほしいって話でしたけど、今、大丈夫そうですか?」

「うん、私が行くよ。島谷さんのお母様もまだ部屋にいるはずだから、ちょうど良いと思う」

「了解です」

 麻薬の受け渡しの記録を取ってから、宮崎さんと連れ立って病室に向かう。緩和ケア病棟は十床だけと病棟としては小さいが、すべてが個室で広く作られているので、フロア自体の面積はほかの病棟と遜色ない。

 おれは先導する宮崎さんの背中に訊ねる。

「島谷さん、どんな感じの患者さんですか」

「どうだろう。今どきの男の子って感じかなあ。名前もすごく今風だよね。お母様は意外と穏やかな雰囲気だったけど……」

 あまり参考にならない評価を答えながら、不意に宮崎さんが足を止める。部屋番号の下のプレートには「島谷海空」と“今風”の名前。おれとの会話は打ち切って、宮崎さんはさっさとそのドアをノックした。

「島谷さん、失礼します」

 声を張って言いながら入室する宮崎さんに続く。その肩越しに、窓際のソファから立ち上がる女の人が見えた。患者の母親だろう。おれの母親よりは少し若いだろうか。赤みがかった茶色のロングヘアはなんとなく乾いて見えた。顔のほとんどはマスクで隠れているけれど、目元は暗く見えて、きっと顔色全体が良くないんだろうなと思わせた。――もしかすると水木さんだったら、この時点でもう涙が出そうになっているのかもしれない。

「先生から説明があったとおり、今日から新しいお薬に変更になるので、薬剤師さんからも説明に来てもらいました」

 はきはきと、しかし穏やかな声の宮崎さんの説明を受けてから、おれはその隣に並んだ。

「薬剤師の西村です」

 籠を脇に抱え、胸に着けた名札を見せながら、窓際の患者家族からベッドの上の患者本人のほうへと視線を動かす。

 上体だけを起こした彼のその目を見て、おれは一瞬、息を詰めた。ぐらりと心臓が揺れて、そのまま血の気が引くような感覚。

 ――ベッドの上の彼のその顔を、おれは確かに知っていた。

 マスクを着けていないから、よくわかる。見間違えようもない。

 顔立ち自体はそんなに派手じゃないのに、瞳だけはやたらと印象的だっていう、初めて会ったあの日と同じ感想が、引いていった血液の代わりにおれの中に浮かび上がってくる。あの時よりずっと短い髪の毛のせいで、その瞳は余計に際立っておれの目に映った。

「……こんにちは」

 おれがそのまま硬直しきる前に、そのまなじりが緩む。よくできた作り笑いだった。それが一目でわかってしまって、だからこそおれは自分のことを立て直せた。気付いたのはおれだけじゃない。向こうだっておれのことに気付いている。

 ――忘れられていたわけじゃなかった。

 だからおれはサイドテーブルに一旦籠を置きながら、もう一度、島谷海空に――おれがずっと「カイ」という名前で呼んでいた男に、向き直った。

 そして、不自然じゃない程度に深く息を吸ってから、ベッドサイドで腰をかがめる。ベッドの上の彼と目線を合わせて、今まで何度もくり返してきた定型文を吐き出していく。

「今日から痛み止めが貼り薬に変わります。今まで服用されていたオキシコドンと同じで、いわゆる医療麻薬のフェンタニルというお薬です――」

 自分の中で定型文ができていて良かった。心臓はばくばくと耳元に鳴っているけれど、口は勝手にフェンタニルテープの説明を自動再生してくれる。ベッドの上の彼は大して興味のなさそうな目で、しかし作り笑いだけは完璧なまま、おれの説明に適宜肯いてみせた。

 随分痩せて、短い髪の毛になっても、その態度は完全におれが知っていたときの彼のままだった。だから全然心臓の音が鳴り止まない。


 おれが大学のときにアプリ経由で知り合った中で、一番長く続いた男がカイだった。――といっても、一年と少しくらい。長く続いていたのは、たぶん、同じ歳でお互いに上京組だったからだと思う。けれど、カイの就活が始まったころに疎遠になった。同じ歳でも、六年制大学のおれと四年制大学のカイでは学生としてのスケジュールが全然違ったので、しょうがなかったと思う。特に未練はなかった。そもそもきちんと付き合っていたわけでもなかったはずだ。最初からそういうつもりで知り合った仲だ。ときどきふたりで出かけては、ちょっとだけ遊んで、たくさんセックスをする。それだけでそれっきりの関係だ。あえて名前を付けるなら、セックスフレンドとかそういうやつ。

 だから、本当は島谷海空なんて名前だったなんて、こうやってもう一度鉢合わせることになるなんて、思ってもみない相手だった。


「――お薬の説明は以上です。何かわからなかったことや気になることはありませんか?」

「大丈夫です。よくわかった」

 おれが知っているよりも随分痩せた顔で肯きながら、おれが知っている声で、カイは――島谷海空は答える。おれはぎこちなく笑みを返して、彼の母親のほうに向き直った。

「お母様はどうですか?」

「はい、まあ、たぶん大丈夫です……」

 こちらのほうが病人のような声色だった。

 ――確かに、思っていたより穏やかそうな人だ。

 たぶんきっと、宮崎さんとは違う道筋でそう感じる。おれは立ち上がって、もう一度ベッドの上に目をやった。たぶんまだぎこちないままの表情で彼を見る。

「では今から看護師さんに貼ってもらいますね。オキシコドンも今晩は服用していただきます。またお薬のことで何かありましたらいつでもご相談ください」

「――いつでも?」

 おれの言った定型文に対して、彼はわざとらしく小首を傾げた。なんだか嫌な感じの響きの声に、おれは言い直す。

「……平日の勤務時間内であれば、基本的にはいつでも」

「わかりました。それじゃあ何かあったら看護師さんにお願いします」

 ばかにほがらかな表情と声だった。おれはどういう表情を返していいのかわからず、逃げるように宮崎さんのほうに向き直った。

「じゃあ、これ、よろしくお願いします」

 説明のために持っていた薬を渡す。宮崎さんはいつも通りの様子で「ありがとうございます」と微笑んだ。――おれの態度はさほど不自然ではなかったらしい。内心で少しだけほっとする。

「では失礼します」

 一礼をしてからおれは急いで踵を返した。心臓の動きはまだせわしない。ボロが出る前に、できる限り早くこの場を離れてしまいたかった。


 ○


「指導、どうだった?」

 調剤室に戻ると、まだどこか暗い顔の水木さんに問いかけられた。

 ――どうもこうもない。

 まさかここで知り合いに、しかもよりにもよって学生時代のセフレなんかに会うなんて、正直心臓が止まりそうなくらい驚いた。けれど、いろんな意味でそんなことは水木さんに言えないから、おれは例のごとくへらへらと笑っておく。

「まだ結構元気そうでしたよ」

「西村くん、言い方~……」

 嫌そうな声で言われるのを無視して、空いている電子カルテ端末のほうに向かう。水木さんが雑談を振ってくるくらいには調剤室は落ち着いている様子だったから、このまま指導の記録を取っても許されるだろう。

 島谷海空という見慣れない名前をクリックして、そのカルテを開く。

 カルテの記録形式にも色々あるが、薬剤師はSOAPと呼ばれる形式に則っていることが多いはずだ。うちの電子カルテも薬剤師記録はその形式で設定されている。ざっくり言うと「S(subjective):主観的情報」「O(objective): 客観的情報」「A(assessment): 評価」「P(plan): 計画(治療)」の四項目に沿って記録する形式だ。おれは大学の実務実習の時に「『S』の項目は患者の言ったことをなるべくそのままに書くように」と習った。

 だから「S」の項目には、おれが聞いたとおりに「大丈夫です。よくわかった」と打ち込む。

 液晶画面でそっけないフォントで表示されたその台詞は、なんだか本人の言ったよりもずっと白々しいものに見えた。


 ○


 その日はなんだか一日中、気持ちが妙にそわそわしていたが、退勤して家に帰っていつも通りに過ごして寝て起きたら、全部すっかり落ち着いていた。

 翌日出勤してカルテを開いても、おれが見るのは「島谷海空」という知らない名前で、「カイ」なんて字面はどこにも表示されないのだ。看護記録は例のごとく丁寧だけれど、島谷海空は礼儀正しく素直な患者らしく、よく見るような記述ばかりがされていて、そこに彼のパーソナルは浮かび上がってこない。

 自分の記録を読み返しても、この患者がカイだったなんていう気はしない。不思議だ。昨日の記憶はちゃんと自分の中にあって、記録を読めば思い返しはされるのに。本当にあそこにカイがいたって実感は薄らいでいる。

 元々緩和ケア病棟には積極的に立ち寄っていない。このまま貼付剤への移行に問題がなければ、新規の服薬指導の必要もないだろうし、退院まで顔を合わせずに済むかもしれない……。

 おれはそれを期待していたのだが、昼前には宮崎さんからの電話であっさり裏切られた。

『島谷さんが薬剤師さんに訊きたいことがあるって言ってるから、手が空いている時間があったら来てくれる?』

「……了解です」

 我ながら苦い声で答えてから、PHSの通話を切る。一般病棟から調剤室に戻ろうとしているところだったけれど、呼ばれてしまったからにはしょうがない。緩和ケア病棟はおれの担当だし、たとえ病院の収入にプラスにならないとしても、患者の希望であれば話を聞きに行くのが病院薬剤師の責務だ……と、おれは思っている。だから仕方なく踵を返し、緩和ケア病棟へと向かった。


「うわ、本当に来た」

 失礼します、と病室に入るなり、からかうような声が聞こえた。日当たりの良い広々とした病室には、昨日と違って母親の姿がない。ベッドで上体を起こしている患者本人も、昨日とは違う表情だった。作り笑いじゃないと、いよいよ本当におれのよく知る男の顔そのままだ。

 おれは眉を寄せた。

「……何か訊きたいことがあると看護師さんから伺いましたが」

「えっ、ここでもまだ他人の振りで行くつもり?リョーくんでしょ?」

 何年も前に適当にでっち上げた名前で呼ばれるのは、思ったよりもむずがゆかった。

「薬剤師の西村だよ。島谷海空さん」

「リョーくんにそうやって呼ばれるの、だいぶ気持ち悪いな」

 言いながらわざとらしく自分の身体を抱いて震える素振りを見せる。おれも同じ気持ちだった。ミク、なんてこの男に似合わない名前だと思う。おれの中ではどうしたって、この顔の男はカイっていう名前なのだ。

 ふたりきりなのを良いことに、大きくため息を吐いた。

「……まさかカイだとは思わなかった」

「おれも、知り合いに会うとしてもリョーくんだとは思わなかったよ。なんでこんなとこで働いてんの」

 カイの疑問は尤もだった。おれの地元は日本海側だし、ここは東京からも遠い。調剤薬局や製薬会社への就職だったら、全国転勤があるのが普通だが、病院就職なら普通はわざわざこんな縁もゆかりもない土地に就職しない。そんな薬剤師事情をカイは知らないかもしれないけれど、何にしたって不自然なのは間違いない。おれは苦い気分のままで答えた。

「東京で就職は嫌だったし、地元にも帰りたくなかったから」

「……東京、いいじゃんか」

「おれは嫌だったんだよ」

 地方から進学した薬学生は、地元の施設で実務実習を行うことが多いが、おれは大学のある東京での実習を選んだ。もちろん、実家に帰りたくなかったからだ。今の薬学生の実務実習というのは結構長丁場で、病院・薬局、それぞれ二ヶ月半ずつ行われる。トータルで約半年、実家で生活するなんて耐えられないに決まっていた。

 だから東京に残ったのだが、正直なところ、病院・薬局ともに実習先が性に合わなかった。というか、規模が大きすぎて向いていないと思った。もうちょっと規模が小さい施設が良いと思うと、東京では就職先の当たりを付けるのが面倒くさかったから地方に絞ったのだ。

「それでもなんでわざわざこんなとこ……」

「日本地図にダーツ投げて決めた」

「嘘吐け」

「おれがどこで働こうが勝手だろ。そこそこ上手くやってるからこれでいいんだ」

 あえて胸を張ってみせる。カイは呆れたような顔でマットレスに背を預けた。

「クソ田舎なのに」

「田舎度合いはおれの地元とあんま変わらないよ。ひとりも知り合いがいない分だけ、ずっといい」

「そこで東京じゃなくてこっちを選ぶの、性根が田舎者なんだな」

「何とでも言え」

「……おれはただでさえこっちに戻されて最悪だったのに」

 今度はカイがため息を吐く。その文法だと、何かがあって余計に最悪になったという意味合いになりそうだが、カイはそこで口をつぐんでしまったので、おれは深く考えないことにした。

「で、わざわざ呼び出して何なんだよ」

 薬物治療についての相談なわけがないのは明白だった。それでもおれは一応訊いておく。カイは面倒くさそうに首を傾けながら、「別に」と答える。

「昨日は母さんも看護師さんもいて、ちゃんと話せなかったから。呼んだら来てくれるなら、一応、話しておこうかな~って」

「それで言うのがおれの就職先への文句かよ」

「……調子狂うなあ」

 病院の備え付けでない毛布がずるずるとベッドの上を這う。カイはその毛布ごと膝を抱えて、唇をとがらせた。

「おれ、余命わずかの末期がん患者なんだけど。そういう態度でいいのかよ」

「おれはいつでもこうだよ。……もちろんいつもは敬語だけど」

「……そういう意味じゃない」

 じゃあどういう意味だよ、とは訊かなかった。

「まあいいや。――念のため訊いとくけど、昨日テープ貼ったとこ、痒いとかはないか?」

「別に?」

「痛みが増してるとかもなさそうだな。レスキューはオキノームのままだから、痛かったら我慢せずに看護師さんに言えよ」

「それくらいわかってるけど……」

 怪訝そうな目がおれを見上げる。なんで急にそんなことを訊くんだっていう顔だ。おれは軽くカイを睨み付けてやった。

「一応宮崎さんに頼まれて来たから。それっぽいことカルテに記録しとかないとなんだよ」

「……じゃあ、次はちゃんと薬の質問も用意する」

「……そうしてくれ」

 当然のように次回の話をされたのは引っかかったが、突っぱねるわけにもいかないので肯く。

「できれば薬が増えたり、変わったりしたタイミングだと尚ありがたい」

「まだおれに新しい薬が出たり変わったりすることって、あんの」

 カイは唇をとがらせたままで目を伏せた。付き合いがあったころも時々見かけた仕草で、なんだか懐かしい気持ちになる。

「新しい薬に変えたとこだから、これからまた痛みが出てくるようなら量を調整するし、眠れないようなら睡眠導入剤とか、気分が落ち着かないなら精神安定剤とか、ほかでもカイの体調に応じて出るときは出るよ」

「……ふうん」

「まあ、また何かあったら説明に来る」

 おれはそれだけを言ってベッドに背を向けた。廊下のほうから、昼食を乗せたカートがごろごろと近づいてくる音が聞こえていた。


 ○


 がんの緩和ケアで転院の患者は、持参薬がすっきりしていることが多い。元々、積極的治療は終了していて、鎮痛剤を始めとした対症療法的な処方だけになっているのが普通だからだ。若い患者だと元々の服用薬も少ないので、なおのことだ。

 島谷海空――カイの持参薬も、ほとんど鎮痛剤だけに等しかった。パラパラと頓用の吐き気止めや下剤の処方があるくらいで、睡眠導入剤もないのは珍しかったかもしれない。入院中でも眠れているならいいことだった。


 それが、ここ数日で睡眠導入剤の指示が続くようになった。

 うちは薬剤師が二十四時間在中していないこともあり、頓服に頻用される薬剤については、各病棟にいくらかの定数を置き、夜間や日中の急ぎのとき、本人の処方としてストックがないものに関しては、そこから服用させるようになっている。毎朝、各病棟毎に誰に何をどれだけ使用したかを薬剤師が確認し、記録と補充を行うシステムだった。

 おれはもう何日も続けて、島谷海空のカルテに睡眠導入剤の使用の記録をつけている。

 看護記録によると、カイは入院三日目から不眠を訴えるようになり、入院時に医師が設定した対症療法指示により睡眠導入剤を服用している。服用後はよく眠れているらしい。

 このように連日、同じ薬を定数から使っていれば、主治医が本人用にまとまった回数の頓服としてか、毎日服用する定期薬として処方することになる。今回は後者だった。

 調剤業務中、分包機から吐き出されたフィルムに印字された「島谷海空」の文字列を、おれは初めて見る。

 自ずと、このあいだの訪問のことを思い出した。

 薬が変わったら説明に行く、と言ったのはおれだったし、こういう処方が出たとなると、どうせ遅かれ早かれ本人から呼び出しがかかるだろう。

 おれはさっさと処方箋に調剤印を捺してしまって、調剤済みの薬として監査台の水木さんの前に差し出した。

「これ、指導に行くんで、監査終わったら声かけてください」

「はあい。……って、これ」

 監査の手を止めた水木さんの眉が寄せられる。

「例の若い胃がんの人じゃん。指導行くの?」

「新しい薬が出たときは説明に来てほしいって頼まれてたんで」

 これは嘘じゃない。おれの返事に水木さんはひとつ、なんだか大きな息を吐き出した。まるい眼がおれを見る。

「緩和は指導のコストも取れないのに。偉いね、西村くん」

 ――偉いとか偉くないとか、そういう話じゃあないと思うけど。ただの仕事だし。

 おれは返事の代わりに、黙ってマスクの下の口角を上げておいた。


 緩和病棟に向かっている途中で、彼の母親とすれ違った。入院当日と服装以外は変わりのない彼女は、おれに一応の会釈をして、そのままふらふらとエレベーターのほうに向かって行く。

「西村くん」

 なんとなしに足を止め、その背を目で追っていると、馴染みのある声に呼ばれた。師長の宮崎さんだ。おれは振り向きながら笑みを作る。

「お疲れ様です」

「お疲れ様。……それ、島谷さんのお薬?」

「はい。一応新規処方だから指導しておこうかなって」

「そうだね。島谷さんはそうしてくれた方がいいかも」

 宮崎さんが目を細めると、目尻にやわらかく笑い皺が浮かぶ。看護師さんもいろいろだけれど、宮崎さんはかなり穏やかなほうという印象だった。こういう表情もだし、何より声色が穏やかだからだ。

 その声が不意にため息を零す。さっきまでおれが見ていたのと同じ、エレベーターホールのほうに目をやりながら、宮崎さんは続けた。

「今は面会もご家族だけだから。うちの病棟は女性ばかりだし、たまには西村くんみたいな、同性で歳の近い人と話したほうが気が紛れるよね」

「……だといいですけど」

 おれは曖昧に笑って答える。

 新型コロナウイルスの流行以前と以降では病院のありようはすっかり変わってしまっている……らしい。おれはいわゆるコロナ禍以前を知らないから、実感は薄いけれど。先輩たちが言うには、以前は入院患者との面会はもっと自由にできるものだったとか。

 今は限られた関係の人たちが、限られた時間でしか面会できない。緩和ケア病棟はその制限が一般病棟よりは随分ゆるいけれど、それでも以前とは比べものにならないらしい。病棟にいると、患者さんの友人を名乗る人たちが面会を断られている場面によく出くわすのがきっとその証拠だった。

 ――けれど、もし、面会がもっと自由にできるんだったとしても、カイを訪ねる友人はいなかったんじゃないか。

 高校卒業以来、長くこの土地を離れていたからとか、そんな理由ではなくて。


 おれが知っているカイは、地元が嫌いだと言って憚らない男だった。

 おれも大概地元が好きじゃないけれど、カイの感情はそれ以上にもっと明快というか、確かな嫌悪で憎悪だったと思う。そこまでの感情に至った理由までは知らない。だけれど、想像することは難しくなかったし、共感もできた。

 だからあの頃のおれたちは結構仲良くやっていたのだ。


「……遅い」

 病室の真ん中、いつも通りにベッドの上で上体を起こしているカイは、不機嫌そうにおれを出迎えた。

「何が?」

「眠剤の説明だろ。もう何日も飲んでるのに、やっと来た」

「……継続の処方が出たのは今日が初めてだったから」

 その説明で納得したのかどうか、カイは鼻を鳴らしてから居住まいを正した。こちらを見上げながら、細い指でおれの手元を指す。

「説明書だけくれたらいい」

「……おれは説明に来たんですけど?」

「その紙読んだらわかる。飲んだらちゃんと眠れるし、特に変わったこともないし、質問もない」

「じゃあおれの用事はもう終わりだ」

「浮いた時間で休憩しろよ」

 指差す場所が窓際のソファに変わる。おれははっきり眉を寄せた。

「……おれと雑談したいってこと?」

 カイはなんでもない顔で肯いた。

「今来たとこなら、たぶんうちの母親とすれ違っただろ。さっきまで、そこであの人が辛気くさい顔で辛気くさい話すんのに付き合ってたから気分悪いんだよ。口直しさせてくれ」

「口直しって」

 それはもっとほかの言い方があるんじゃないか。

「なんでもいいから。話そう」

 カイの目が――例の、やたら印象の強いそのまなざしが、こちらを見る。だからおれは困ってしまった。

 入院患者が一番長く接する職種は、恐らく看護師だろう。けれど、看護師は患者のケアだけでなく、カルテの記録や面会対応に追われていて、個々の患者に割ける時間は限られている。対して、薬剤師は比較的時間に余裕があって融通が利く立ち位置だ。その分だけ長く患者さんの話を聞いてあげられるのが薬剤師のいいところだと、病院実習中に指導薬剤師に言われたことを覚えている。

 おれはなるべく小さくため息を吐いた。サイドテーブルに薬剤情報提供書を置いてやって、けれどベッドサイドには留まったまま、カイに話しかける。

「親御さん、毎日来てるのか」

「ばかばかしいよな」

 目を伏せながら、カイが吐き捨てる。

「おれがゲイだって知ったときは泣いてキレてもう顔も見たくないとか言ってたのに。死ぬかもってなった途端にこれだよ」

 カイの自分の故郷への嫌悪は、いつも肉親への嫌悪とセット売りだった。どちらかが先立っていて連鎖しているのか、それぞれが影響し合っているのかはわからないけれど。

 おれが話を聞いていたころから何年も経っていても、そこは変わっていないらしかった。髪型と、体重と、おれには見えない身体のうちがわ以外は、きっと何も変わっていないんだろうと、そう思う。きっと東京を離れてこの病院に入院することだって、本当は嫌で嫌でしょうがなかったに違いない。

「医大では一般病棟にいたんだよ。感染対策とかいって、面会は週一回十五分だけだった。こっちに来たら緩和ケア病棟になって面会制限もゆるくなるからって、何回も言われたけど。家族だったら時間も回数も制限がないとか。大デメリットすぎる」

 つらつらと捲し立ててから、カイは深く息を吸った。息切れとまではいかなくても、長く話すと疲れてしまうようだった。ずるりと、崩れるようにその背がベッドにもたれかかる。傾いだ首と一緒に、カイの視線はもう一度窓際に向けられた。

「何がかなしくて毎日あの人とばっかり話さなきゃならないんだ」

 カイの言う「辛気くさい話」とは、どんな内容なんだろう。いくらこの病棟の看護記録がほかより丁寧だからって、さすがに病室での家族の会話までは記録されていない。毎日母親が見舞いにきていることや、その母親と看護師の会話は記録されていても。だからおれは、カイの母親がまだ若い息子に先立たれる不安を宮崎さんに漏らしたことを知っている。そういう母親の態度が、カイにとっては不愉快なのであろうことも、想像はできた。

 おれのほうは見ないまま、カイが口をつぐむ。かたい表情を見下ろしながら、おれは少しだけ考え、ひと言だけを答えた。

「つらいな」

「……うん。つらい」

 カイが伏せた眼の、白い部分がうっすらと黄みがかって見えるのは、肝機能が落ちている証左だった。転院以来、カイの鎮痛剤の量は変わっていない。増えた薬はこの睡眠導入剤だけ。それでも、食事量は落ちて、検査値も悪くなっている。ここに横たわっている身体のうちがわでは、確かに病が進行していた。

「ずっと気持ち悪いし、だるいし、痛いし、つらいのはおれのほうのはずなのに、あの人は自分がつらいって話ばっかりだ」

「痛いのか?」

 おれは頭の中でカルテの記載内容を思い出す。レスキューの追加処方も出ていないはずだし、あまり痛みの訴えがあるという印象ではなかった。カイは眉を寄せる。

「やっぱずっと痛いのは痛いかな。頓服飲むほどじゃないってくらい」

「痛いんだったら飲んどけよ。回数制限とかないし」

「それは知ってるけど」

 返ってきた反応はあんまりいいものじゃなかった。突出した痛みがあるという感じではないんだろう。それでいちいち看護師に頓服を頼むのが億劫だというのはよくあることだ。持続痛があるならベースの用量が足りていない可能性がある。あとで主治医に増量を相談してもいいかもしれない。

 先に主治医に報告するか、カルテの記録を優先するか、おれが考えているあいだに、カイの視線がこちらに戻ってきていた。入室したときと同じ不機嫌そうなまなざしで、「それより」とはっきりした声がおれの意識を引き戻す。

「リョーくん、新卒でこの病院に来たんだって?」

「……ああ、うん」

 誰から訊いたんだ、なんてわざわざ訊くこともなかった。看護師の誰かだろう。

「おれの二年あとに就職だろ?こんなとこによく何年もいられるよな」

「またその話?」

「免許持ってるっつってたっけ。車買った?」

「中古だけど、一応」

「へえ」

 一方的に質問してきているくせに、相づち自体はどうでもよさそうな響きだった。だったらおれは痛みの程度の話のほうを続けたいけれど。おれを見上げる瞳はきっとそれをゆるさない。しょうがなく、次の質問を待つ。

「ドライブとか行く?」

「ひとりで車で移動してもつまらん」

「よかった。あんま変わんないね、リョーくん」

 どういう意味だよ、と訊く前に、その唇がうっすら笑みを浮かべる。

「田舎に毒されていない」

「単なるおれの趣味嗜好の問題だと思うけど」

「ああでも、海のほうは行ってもいいかもよ」

 まともにおれと会話のキャッチボールをする気はないらしい。さっきよりは楽しそうな響きをその声に滲ませて、カイは勝手に続ける。

「やっぱ日本海と太平洋って違うらしいし」

「ひとりで海って。尚のことつまらんだろ」

「だったらおれが一緒に行ってやるよ」

 何でもないことのような台詞が返ってきて、思わずおれは言葉に詰まった。たぶん、それを気取ったんだろう。カイの目がゆるゆると細められる。

「一時的にでも退院するのが目標だって、先生が言ってた」

 カイ――島谷海空の、今回の入院の目的はあくまで疼痛コントロールだ。看取りが目的じゃない。退院を目標に入院プランが組まれている。それは事実だ。――けれど、目指しているのは、家族の時間を過ごすためという名目の自宅退院だ。県内とはいえ、長距離のドライブなんかを、主治医は想定しているだろうか。しかも、おれなんかとの二人旅を。

「……じゃあ、もうちょっと痛みのコントロールをしないとな」

 勝手に湧いて出た思考を押し殺して、おれは話を戻した。

「我慢せずに看護師さんに言って頓服使えよ。頓服の回数が増えると痛いんだなってわかって、ベースの量を増やそうかとか考えられるし」

「……わかったよ」

 さっきよりは素直な調子で肯いて、カイはまた背をベッドに預けた。

「ずっとここにいても気が滅入るだけだし」

 ひとりごとのようなその台詞は、たぶん本心だったのだと思う。


 ○


 緩和病棟の端末を借りるのは忍びなかったから、調剤室に戻ってからカイへの服薬指導の記録を書いた。

 誰が相手の服薬指導でもそうだけれど、会話のほんの一部分だけを抽出して記録にするのは、なんだかいつも落ち着かない。大体は定型文に収める作業になってしまうのだ。「薬を飲んだら眠れる」。「大丈夫です」。「少し痛い」。「わかりました」。おれの記録が下手くそってだけかもしれない。けれど、ほかの人たちの記録だって文章自体は大差ないはずだった。治療に必要そうな部分ばかりが抜き出されて、記録として積み重なっていく。

 もちろん、積み重なった記録からは、その患者さん自身のパーソナルというか、個性が浮かび上がって見えてくる。神経質な人なんだな、とか、おしゃべりな人なんだな、とか。だから、初めましての患者さんに服薬指導に行くときは、カルテからそういう部分を拾っておいて、どういう風に接するかを考えて準備する。それで大体は失敗しない。記録する側だって、その患者さんと接するにあたって大事な部分が伝わるよう、情報を取捨選択しようとしているからだろう。

 それでも個々の記録だけを拾い上げると、誰も彼も似通った定型文に見えてしまう。実際に顔を合わせたことのない患者の記録だったら尚更だ。「入院患者」という大きなくくりの中で、ちょっとだけ神経質そうだったりおしゃべりそうだったりの振れ幅を持つ、ボンヤリした存在が、それぞれのカルテの上に作り上げられているような。そのために記録をしているような。

 おれは落ち着かない気分でカルテを上書き保存して、過去の記録を遡った。

「例の若い胃がんの患者さん」たる「島谷海空」は、カルテの上ではどういう人物になっているんだろう?

 おれの記録でSの尺が短いのは、カルテに書けない雑談が多すぎるからだけれど、看護師の記録でも彼の発言は少なめに見えた。本当にあまり会話も訴えもないのか、それとも、みんなもおれのように会話をそぎ落としてこうなっているのか、画面の上だけではわからない。妙な気分だった。おれが知っているカイはああいう男だから、それしか知らないから、母親や、医師や、看護師と話しているところが上手く想像できない。

 カルテの上の「島谷海空」は、食事量が少なく、痛みや不眠の訴えもささやかで、いつもベッドに横になっているだけの、物静かな人物に見えた。この土地をクソ田舎と呼び、母親の面会を馬鹿馬鹿しいと吐き捨てる男の片鱗は、どこにも見当たらない。


 ○


 週明け、業務の間にふとカルテを見ると、カイにフェンタニルテープ1mgの処方が追加になっていた。元々の2mgと合わせて、計3mgへの増量だ。このあいだのおれの指導記録と、ここ数日のレスキュー回数の増加を主治医が考慮したのだろう。ちょうどおれの訪問直後からレスキュー回数が増えているのはカルテ上でも明白で、なんだかむずがゆくなった。

 とはいえ、疼痛コントロール中の患者では、こういうことはよくある。自分の手元にある頓服薬ならまだしも、看護師管理で時間や回数をきちんと記録しなければならない医療麻薬ではなんとなく遠慮してしまう人が多いのだ。遠慮しないでいい、回数が多くてもいい、それを参考にベースの用量を調整するから、と説明されることで、心理的ハードルが下がるらしい。

 カイもそれなりに遠慮があったりしたのだろうか。

 何にしても、痛みをコントロールするのが目的の入院で痛みを我慢したっていいことはないし、ベースが上がったのならいいことだ。

 気になるのは、食事摂取量が少ないままなことだ。自宅退院を考えるなら、もう少し食べてもらったほうがいいのだけれど。恐らく、胃がん由来の嘔気が問題なのだとは思う。これはわかりやすい解決方法がない。

 ただ、疼痛コントロールが良好になれば嘔気が落ち着くということもないわけではない。

 フェンタニルテープの増量が上手く作用すればいいなと思いながら、おれはカルテのタブを閉じた。


 ○


「あ、西村くん」

 一般病棟から調剤室への帰り道で、宮崎さんに出くわした。彼女のほうは調剤室からの帰り道だったらしく、調剤済みの薬剤の入った籠を抱えていた。

「ちょうど良かった。さっき麻薬処方箋を持って行ったところだったんだけど」

「はあ」

 わざわざ足を止めてそんなことを報告するということは、誰かが新規でオピオイドを開始したか、用量か薬剤が変更になったかのどちらかだろう。おれは頭の中に緩和ケア病棟の患者一覧を思い浮かべ、心当たりを探す。自分で思い当たる前に宮崎さんが眉を下げた。

「島谷さんにアブストラルの指示が出たの」

「……そうですか」

 自分でも思った以上にかたい声が出てしまった。

 アブストラル舌下錠は、名称の通り、舌の下部の粘膜から体内に吸収されるタイプの製剤だ。水なしで服用できるし、そもそも飲み込まなくていい剤形だから、嘔気が強かったり嚥下に問題がある患者さんにも比較的使いやすい。だから、わざわざこれに処方を変更するのであれば、内服自体が難しくなってきているということなのだ。

 宮崎さんの暗い表情も、それを物語っていた。

「やっぱり吐き気がつらいみたいで。先生が一回試してみようかって」

「わかりました。また調剤ができ次第、指導に行くようにします」

 アブストラル舌下錠は舌下錠であること以外にも色々と特殊な説明が必要な薬剤だった。それなりに新しい製品なこともあって、緩和ケア病棟でもまだ理解の浅い看護師さんがいるくらいだ。新規の処方が出たときは、必ず患者本人にも服薬指導に行く内規になっている。

「よろしくね」

 おれが肯くと、宮崎さんを纏う空気が少しだけ和らいだ。

「私がこんなことを言うとプレッシャー感じちゃうかもだけど、西村くんが来てくれたあとって、やっぱりちょっと嬉しそうなんだよね、島谷さん」

「……気分転換になってるなら、いいんですけど」

 プレッシャーというよりは困惑を感じながら、おれは眉を下げた。


 カイの容態が芳しくないことは、病室で直接顔を合わせなくてもよくわかっていた。たとえカルテを見なくたって、調剤業務をしているだけでも明白だ。

 利尿剤の処方が出た。吐き気止めの使用が増えた。オピオイドレスキューの回数が増えた。併せてベースの用量も上がった。ステロイド内服の処方が出た。輸液の投与が始まった。

 薬の動きを見ていれば、患者の大体の状態がわかる。腹水が増えて、嘔気や疼痛、倦怠感が強まって、食事が全く取れないような日が増えている。

 おれは当初の約束どおり、処方が変わったり増えたりするたびにカイの病室に訪問していた。だから、ベッドを起こしていられない日が増えていることも、その顔色が日に日に悪くなっていることも、その声から張りが失われていくことも、この目でちゃんと見て、耳で聞いて、確認していた。

 そろそろ疼痛時の指示が変更になるだろうとは思っていたのだ。――それなのに、新しい麻薬処方箋と聞いてすぐにカイのことが思い浮かばなかったのが、自分でも少し不思議だった。


 調剤室に戻ると、ちょうど近藤さんが件のアブストラル舌下錠の調剤を終えたところだった。

「あ、そのアブストラル、おれが見ます。指導行くんで」

 言いながら、監査台のほうに駆け寄ると、近藤さんがどこか困ったような目をおれに向けた。

「これ、今日は私が指導に行こうか?」

「え?」

 思っていなかった提案に、思わず呆けた反応をしてしまった。

 近藤さんはおれよりいくらか先輩だが、今は病棟を受け持っておらず、主に調剤業務を担当している。服薬指導に行っているところなんて、しばらく見かけていない。それがどうして急にこんな提案をしてくるのか、理由がすぐには思い当たらなかった。

 近藤さんのあくまでやさしい声が続く。

「さっき師長さんとも話したけれど、この患者さん、大分悪くなってきてるんでしょう?西村くん、歳も近いし、しんどくなってないかと思って」

「……そんなことはないですよ」

 おれはいよいよ困惑しながら答えた。近藤さんがおれを気遣っていることはわかったが、その気遣い自体が不可思議だった。

 緩和ケア病棟のほかの患者に比べるとかなり頻繁にカイのところに訪問しているのは事実だ。けれど、彼と元々知り合いだったことは誰にも話していないし、病室でした会話についても、カルテに記録していること以外は共有していない。……もしかすると、宮崎さんあたりがおれたちが親しげだとか触れ回っているのかもしれないけれど。

 水木さん相手ならともかく、おれにそんな気遣いなんてしなくてもいいのに。

「本当?」

「本当です」

 念押しのように言われて、おれも食い気味に肯く。

「それに、今までずっとおれが指導に行っていたのに、急に別の薬剤師が行ったら、島谷さんも不安になると思います」

「……それはそうか」

 あまり納得はしていなさそうな表情で、近藤さんはおれのほうに調剤済みの籠を滑らせた。呟くような声が、それに続く。

「西村くんって、病院薬剤師に向いてるのかもね」

「……それ、大学のとき、同級生にも言われました」

「そうかあ」

 近藤さんはそれだけを答え、おれに背を向け、調剤業務に戻って行った。


 ○


 ベッドに横たわるカイの腕には点滴の管が繋がっていた。食摂不良時施行の指示で出ている、簡単な栄養補給のための輸液だ。今日もろくに食べられていないらしい。

「島谷さん」

「――リョーくん?」

 うとうとしている様子だったから躊躇ったものの、おれが声を掛けると、カイははたと目を開けて、もうほかの誰も知らない、いつもの名前でおれを呼んだ。

「びっくりした。名字で呼んでくるから誰かと思った」

「……頓服の薬が変わったから指導に来たんだけど」

「そんな話だったっけ……」

 寝ぼけているような顔と声で言いながら、カイはベッドの上で手を這わせた。手探りで掴んだリモコンで、わざわざベッドを動かし、少しだけ上体を持ち上げる。最近はほとんどずっと横になっているらしいのに、おれが訪ねると必ずこうやって身体を起こす。無理をしなくていいと何回言ってもきかないので、おれはもう諦めてしまった。

 起き上がったカイの膝のあたりに、薬の説明用紙を広げてやる。

「今日から頓服がオキノーム散からアブストラル舌下錠というものに変わります。成分は今貼っているフェンタニルテープと同じ。舌の下に置いて溶かして服用するお薬です」

 服薬指導の内容は大体が定型文だから、頭の中に入っているそのままに言うほうが間違いがない。かしこまった口調はカイには不評だけれど、おれは仕事をやっているんだから知ったことじゃない。

「したのした?」

 カイが首を傾げる。確かに音だけだと一瞬わかりづらい。おれは口を開けて、べろりと舌を出して、指さしながらカイに見せた。

「舌」

「うん」

「……の、下」

 言ってから舌を持ち上げて、下のほうをもう一度指さす。カイはぼんやりとおれを見てから、膝のほうの説明書に視線を落とした。そこにはちゃんと服用方法のイラストが印刷されている。

「漢字とこの絵を見たらわかった」

「そうかよ」

「なんだか面倒くさそうなことも書いてある」

 細い指が紙の上をなぞっていく。

「服用間隔とかの決まりが細かいんだ。一回目を服用したら、三十分後に痛みの評価をする。そこで痛みが治まっていなかったら追加でもう一回分飲んでいい。二回目の投与は一回目飲んだときから四時間以上あけて、一日に四回まで」

「面倒くさいな」

「まあ、看護師さんがわかってるから、大丈夫だよ」

「家に帰ったときが困るな」

「……退院するときにはまた説明するよ」

「わかった」

 小さく肯いて、カイは口をつぐむ。なんだか本当に言葉少なな男になってしまった。掛け布団でわかりづらいけれど、腹水が大分溜まっているらしいから、息苦しいんだろう。実際に耳に聞こえる息づかいも、少し苦しそうだった。一度腹水を抜く予定だとカルテには書いてあった。

 ――たぶん、カイの一時帰宅のタイミングはとっくに過ぎてしまっている。

 それをわかっているのかどうか、おれが訪ねるたびにカイは「退院したら」の話を持ちかけてくる。海に行こう。山に行こう。食事をしよう。酒を飲もう。おれはその全部に「身体が大丈夫そうだったらな」と肯いてきた。「退院は無理だ」なんて、薬剤師のおれが言うことではないはずだからだ。

 最初のころのように一方的に話しかけられるようなことはなくなっていた。それでもおれが服薬指導だけで帰ろうとすると、毎回不機嫌な素振りを見せるから、たとえ無言でもある程度カイの気が済むまでは病室に留まるようにしていた。

「したのした……」

 ベッドにもたれかかったカイは、小さい子どもが言うようにくり返しながら、自分の口元に触れていた。最近は水を飲んでも吐き戻すことがあるらしく、水分が足りないのか、唇は乾燥して見える。

 ――そろそろ輸液の指示が毎日になるかもしれない。

 その顔を見ながらぼんやりと考えていたら、不意に視線がかち合った。その眼は、どんなに白目が黄みがかっても、不思議と印象的なままだ。ばかにまっすぐ、おれを射貫く。

「ねえ、リョーくん」

 妙にはっきりした声がおれを呼んだ。

「キスしてくんない?」

「は?」

「だから、キスだって。ちゅーだよ」

 カイは自分のかさついた唇をちょいちょいと人差し指でつついた。仕草はどこか子どもじみているのに、声色は平坦で、その顔には表情らしい表情も浮かんでいない。ただ、その、強いまなざしだけがおれに向けられている。

 ――なんだか背中がぞっと冷えた。

「……できない」

 おれは動揺を気取られないよう、なるべくはっきりと声に出した。

「なんで」

 それでも、見下ろした先で、カイは唇だけを動かして問うてくる。ばかな質問だった。あんまりふざけすぎていて、咄嗟の返事ができないくらいに。

 ふん、とカイが鼻を鳴らす。わざとらしく目が伏せられ、唇がとがり、小さな声が吐き出される。

「あんなにキス魔だったくせに」

「いつの話だよ」

 ふざけた話でわざとらしいしぐさなのに、カイの顔にも声にも、どこにも不思議と冗談の気配はなかった。

 おれの内心の動揺がすぐにかたちを変えて、嫌悪感として身体に染みていくのが、自分でわかる。

 おれはわかりやすいように眉を寄せ、カイのことを睨みつけた。

「とにかく、するわけないだろそんなこと」

「一回くらいいいじゃんか」

「いいわけない」

「だからなんでだよ!」

「――ッ!」

 突然荒げられた声に身を固くすると同時に、目の前をひらひらと紙が横切った。ついさっき渡した説明用紙を投げつけられようとしたのだと気付いたのは、その紙が床に落ちて、カイの眼に涙が浮かんでいるのが見えてからだった。

 ぜえ、と息を吐いて、涙をこぼして、掛け布団を強く握りしめて、カイは叫ぶ。

「ほかのことは全部はいはいって言うくせに、なんでこれだけは断るんだよ!」

 荒々しい声は、確かに叫びだったけれど、それでもさほどの大きさにはなっていなかった。むしろ、今にも息が切れてしまいそうな響きをしていて、それがやたらと痛切に耳に聞こえた。

 だからおれは、今度こそすっかり呆気にとられてしまう。

 カイは本気だった。冗談なんて、本当に一度も言っていなかった。身体こそベッドの上から動いていないけれど、心は本気でおれにすがりつこうとしていた。――きっと、もうしばらく前から、今までずっと。

 その事実に、おれはここに来て、ようやっと気付いた。

 カイの痩せた輪郭をぼろぼろと涙が伝い落ちていく。それでもまだ強いまなざしが、おれを確かに捉えていた。おれを睨んで、射貫き、責め立てようとしていた。

 さっきまで体内を占めていた嫌悪感が、あっという間に消え去って、代わりに困惑が湧いて出てくる。突然目の当たりにしたむき出しの感情に、どうしたらいいのか、おれはすっかり何もわからなくなってしまっていた。

 自分が間違っていたんだろうということだけが、わかる。

 呆然と立ち尽くしているうちに、カイのまなざしが揺らいだ。「ふざけんな」と、ほとんど嗚咽と区別の付かない悪態が吐き出されて、その首が項垂れる。その肩は小さく震えて家、ぼたぼたと落ちる涙が、シーツに染みを作っていく。

 ぐず、と鼻を啜る音が聞こえた。

「なんで今すぐできることだけはしてくれないんだよ……」

 そう言って続けたカイは、きっとただしくその答えをわかっているはずだった。だからこんなに泣いているに違いなかった。

 おれは逡巡の後に、床に落ちた説明書を拾い上げ、それをもう一度カイの膝の上に置いた。

「――仕事中なんだよ、おれ」

 おれはなるべくやわらかい声で取り繕いながら、カイに言った。ほかのやり方がわからなかった。

 昔なじみの男は俯いたままで、もう一度だけしゃくり上げる。喉から振り絞るような声が、おれに問う。

「……仕事中じゃなかったらしてくれた?」

「それは――」

「即答しろよ、そこは」

 ぐずぐずと泣いている男は、おれの当惑をゆるさないで、自分の手のひらで顔を覆った。息切れのような嗚咽のあいだに、長く深い息を吐いて、本当に小さな声で吐き捨てた。

「もう来ないでいい」


 ○


 研究室の同級生で、病院に就職したのはおれだけだった。

 元々が薬局就職のつもりのやつが多かったはずだけれど、何人かの決め手は実務実習だった。病院と薬局、それぞれ二ヶ月半の実習は、充分に長い。

「おれの実習先、結核病棟があってさあ」

 ドラッグストアに就職した同級生が、気怠げにキーボードを叩き、表計算ソフトに実験結果を入力しながら、そうぼやいていたことを覚えている。

「結核って空気感染だろ?だから結核病棟ってすごい厳重に隔離されてて。そこに長く入院してるお婆さんとかがさ、どうやったら脱出できるだろうって、冗談で言うんだよ。それをさあ、看護師さんとかも笑って聞いて、一緒に脱出計画を立てたりしてんの。結核病棟なんかに長く入院してるんだからさ、退院もできないかもしんないのに……」

 彼の視線は手元の実験ノートに向けられていて、おれが座っている場所からではその表情までは見えなかった。

「だからおれ、病院で働くのは無理だわって思ったんだよな」

 だから、だらだらとした声の印象と、それを聞いたおれの気持ちばかりが今も記憶に残っている。


 ――おれはきっとその看護師と同じ側だろうなと、そう思ったのだ。


 ○


 朝一番の退院指導を終えて調剤室に戻ると、薬袋と処方箋が押し込められた籠を積み重ねた横で、渋い顔をした水木さんが電子カルテの端末と向かい合っていた。内服薬だけでなく注射薬も積み重なったままだから、死亡退院の処理中らしいと当たりがついた。

「……えらくたくさん返ってきましたね」

「夜勤帯に緩和で三人も亡くなったんだって」

 それは病棟と当直の医師がさぞ大変だっただろう。想像するとぞっとしないが、おれたち薬剤師は返却された薬を確認して、処方オーダーを整理するだけだから、ちょっとばかり死亡退院が重なってもさほど大変じゃない。

 けれども水木さんの表情はやたらと渋い。ほかに何か仕事があるのだろうかと考えながら、声を掛ける。

「手伝いましょうか」

「じゃあこれ……」

 ひょいと差し出された籠を受け取った。誰が亡くなったんだろう、と考えるまでもなく、処方箋に印刷された名前が目に入る。

 ――ああ、と勝手に声が口から漏れた。

「島谷さん、亡くなったんですね」

 とうとう、というか、ようやく、というか。彼の入院から、もうすでに三ヶ月が経っていた。

 あまり驚かなかったのは、すでに鎮静用のモルヒネ注が処方されているのを知っていたからだ。おれが最後に服薬指導に行った数日後にはもう内服が完全に中止になって、以来ずっとカイは、薬で眠ったままだった。静かに最期を待つ日々になっていた。

 モニタの方を睨むように見つめながら、水木さんが言う。

「最期は親御さん、というかお母さんが号泣だったって看護師さんが言ってて。私、そんなカルテ見たらたぶん泣いちゃうから……」

 その声はもうすでにほとんど泣き声だった。険しい表情は涙を堪えてのものだったらしい。

「水木さん、医大で小児科担当とかにならなくてよかったですね」

「いつか順番が回ってきそうだったから、その前に転職したんだよ」

 それでもその転職先がまた病院なんだから、水木さんも珍しいほうの人間なんじゃないかと思う。

 おれはその籠を受け取ったままで、空いている電子カルテの端末のほうに移動した。

 島谷海空の名前は、まだ緩和ケア病棟の入院患者一覧の中に残っていた。それは病棟での退院処理が完了していない証拠だったけれど、個人ページの中を見ると、死亡確認から退院までの記録はすでに終わっている様子だった。

 夜勤帯でも、例のごとく、緩和ケア病棟の記録は丁寧だった。下顎呼吸が始まったときの家族への説明と反応から、エンゼルケアの最中に家族がこぼした台詞まで、どれもきちんと記録されている。

 息子の遺体に「眠ってるみたい」と呟いて号泣したと記録されている母親が、数年前にはその息子を同性愛者だというだけで罵っていただなんて、きっと誰も思わないだろう。

 カイが最後に着せられたのはオフホワイトのシャツとジーンズだったらしい。記憶を遡ってみたけれど、おれはそんな格好の彼を見たことがなくて、上手な想像もできなかった。

 きっとあまり似合っていなかったんだろう。


 そう思うと、初めて少しだけ寂しいような気がした。

 けれど、水木さんみたいに泣いてしまいそうな気持ちにはさっぱりならないままで、その事実のほうがおれにとってはかなしかった。


 あんなにそばにいた時間があったのに、入院中もあんなに何度も会って話していたのに、最後の会話だってあんな風でそれきりだったのに、こうやって死亡退院の記録を読んで、その処理までしているのに、おれの中には、もうあいつがこの世界のどこにもいないって実感が湧いてこない。

 なんとなく疎遠になってそれきりになったあのときと、おんなじような感情しか抱かない。

 さっき一般病棟で「お大事に」と見送った退院患者さんと同じ場所に、カイのことだって収めてしまっている。


 これはおれの精神が強いとか、性根が薄情だとか、そういうわけではないんだと思う。

 たぶん、ただきっと、想像力が足りないだけなのだ。定型文でルーチン化された患者対応をしているだけなのだ。その相手が、たとえ旧知の、好ましく思っていた時期さえあった男でも。


 だから、あんな風に傷つけて、泣かせてしまったりするのだ。

 それなのに、おれがこの仕事に向いているなんて、そんなことがあるわけがなかった。


 ○


「西村くーん」

 カウンターのほうから近藤さんに呼ばれて調剤の手を止める。「はあい」と返事をしながら顔を出すと、目が合ったのは緩和ケア病棟の宮崎さんだった。

「師長さんが用事だって」

「はあ……。おはようございます」

 近藤さんに促されて場所を入れ替わる。おれが向き合うと、宮崎さんはなんだか寂しそうに笑った。

「島谷さん、退院したんだってね」

「ああ……はい。昨日の深夜だったらしいです」

「今日来たら名前がなくてびっくりしちゃった」

 そういえば、昨日は宮崎さんの姿を見なかった。たまたま休みだったのだろう。それはわかったが、何故おれが呼びつけられたのかわからず、内心で首を傾げる。確かに宮崎さんはずっとカイのことを気に掛けていた風だったが、退院翌日にわざわざおれを呼び出してまで彼の話をしたいってこともないだろう。

 その答えはすぐにおれの前に差し出された。

「これ、実は、島谷さんから西村くんにって預かってて」

 それはうちの病院のロゴが入った長封筒だった。その中央に「西村先生」と見慣れない字で書かれたおれの名字がある。

 渡されたままに受け取りながら、おれは眉を寄せた。

「……手紙?島谷さんから?」

「自分が退院したあとに渡してほしいって。モルヒネ始まる前の日だったかな。ちゃんとしたレターセットを準備する時間がなくて、コピー用紙と病院の封筒になっちゃったんだけど」

「はあ……」

 それなら、おれが最後に服薬指導に行った日よりもあとのはずだ。見た目からしても中身はせいぜいコピー用紙一枚くらいだろうに、受け取った封筒はなんだか妙に重たく感じられる。

 あんなやりとりのあとだったのに、あいつがおれに手紙を書いて遺すなんて、中身が全く想像できなかった。

「西村くん、ずっと服薬指導に行ってくれてたからね……」

 しみじみと言う宮崎さんはどんな内容を想像しているんだろうか。

 弱々しい線の宛名書きを、じいと見つめるが、当然、そこからは何の感情も浮かび上がって見えてこなかった。

 感謝なわけがないと思う。謝罪もあまりしっくりこない。呪詛が一番あり得そうだ。

 一応ひっくり返した封筒はしっかりと封がされていた。署名は小さな「海」の一文字だけ。

「……わざわざありがとうございます」

 落ち着かない気持ちのままで頭を下げる。気にしないで、と宮崎さんは笑って、病棟のほうへと帰って行った。

 それでもカウンターから動けず、封筒を見つめるおれの肩に、ぽんと手のひらが置かれた。

「薬剤師冥利に尽きるね」

 近藤さんが言って笑う。やさしい声が居心地悪い。

「……そうですかね」

 おれは曖昧に笑って返しながら、なるべく慎重に見えるような仕草で、封筒をポケットに突っ込んだ。


 たぶん、おれは手紙の中身を確認しない。

 カイが最期におれに書き残した言葉が、感謝だろうが謝罪だろうが呪詛だろうが、どんな内容にしたって、それを受け取ったおれがどう感じるのか、確かめてしまうのがこわいからだ。その結果がどうあれ、おれは今のおれのままじゃいられなくなってしまう気がするのだ。


 だから、その日のうちに、家の中の押し入れの、薬剤師免許証と同じ場所にしまいこんだ。

 ――もしも、この先おれが、病院薬剤師なんて無理だって、そう思うような日がやってきたら、そのときに中身を確認しようと、そう決めて。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

手紙 ぐるぐる @suzushi211

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ