第2話 未亡人の涙
湯乃宿 花咲亭の夜は、静寂と湯けむりに包まれ、訪れる者の心をそっと解きほぐしていく。
その夜、玄関に一人の女性が立っていた。
黒い喪服をまとい、肩までの艶やかな髪が風に揺れる。彼女の表情はどこか物憂げで、瞳には深い悲しみの影が宿っていた。
「いらっしゃいませ。」
女将の美和が、変わらぬ柔らかな笑顔で迎える。
「ご予約のお客様でしょうか?」
女性は静かに頷き、声を絞り出すように答えた。
「……はい。今日から二泊の予定です。」
名前は、村瀬沙織。三十代半ばの未亡人だ。夫を亡くして半年、悲しみから立ち直れず、ふと見つけたこの旅館の噂に心を惹かれたという。
チェックインを終え、案内された部屋に荷物を置いた沙織は、しばらく窓から外を眺めていた。
山の夜風が心地よく、遠くから虫の音が聞こえてくる。しかし、彼女の胸に広がるのは、深い喪失感と虚無だった。
ふと、部屋に置かれた案内板が目に入る。
『夜の混浴露天風呂 〜女将とのひととき〜』
その文字に、沙織の指が止まった。
「……混浴、ですか。」
一瞬ためらうも、心のどこかで、誰かに寄り添ってほしいという気持ちが湧き上がる。
その夜、沙織は浴衣姿で露天風呂へと向かった。
湯気が立ち込める露天風呂には、すでに美和がいた。髪をゆるく結い、浴衣の裾を湯に浸している。
「こんばんは。」
美和が優しく声をかける。
「こんばんは……お邪魔しても?」
「もちろん。どうぞ。」
沙織はゆっくりと湯に体を沈めた。月明かりが二人の姿を照らし、湯の表面に揺らめく。
「美しい月夜ですね。」
美和の声は、静かに心に染み入るようだった。
「そうですね……でも、私には、もう何も美しく見えません。」
沙織の瞳には、涙が浮かんでいた。
「大切な人を、失ってしまったんです。」
その告白に、美和はそっと沙織の隣に座り直し、湯の中で彼女の手を取った。
「大切な人の記憶は、心の中にずっと生きていますよ。」
「でも……もう、触れることも、声を聞くこともできないんです。」
沙織の声は震え、涙が頬を伝った。美和はその涙を湯の中で静かにぬぐい、沙織の顔を優しく見つめる。
「悲しみは、誰かと分け合えば少しだけ軽くなるものです。」
「……女将さん。」
沙織の視線が美和に向けられる。その瞳には、どこか熱を帯びた感情が宿り始めていた。
美和は、ゆっくりと浴衣の襟を緩めた。
「ここでは、心も体も素直になっていいんですよ。」
月明かりに照らされた美和の鎖骨が、滑らかに浮かび上がる。沙織は思わず息を呑んだ。
「美しい……」
「ありがとう。でも、沙織さんも、とても綺麗です。」
美和の手が、そっと沙織の肩に触れた。湯の中で二人の距離は自然と縮まり、沙織は美和の温もりを求めるように寄り添った。
「私、ずっと誰かに触れてほしかった……。」
沙織の声はかすれ、涙混じりの囁きになった。
「大丈夫ですよ。」
美和は、そっと沙織の髪に手を滑らせ、耳元に囁いた。
「今夜は、あなたの悲しみを全部溶かしてあげます。」
沙織の体が、湯の中で震えた。その震えは、悲しみだけではなかった。
美和の指が沙織の頬から首筋へ、そして浴衣の襟元に触れる。湯気が二人の間に立ちこめ、夜の静寂が二人を包み込んだ。
「あなたは、もう一人じゃない。」
美和の唇が、沙織の唇にそっと重なった。
その瞬間、沙織の心の奥にあった悲しみが、まるで湯に溶けるように消えていった。
沙織の指が美和の背中に触れ、そっと引き寄せた。
「もっと、そばにいてください……」
「ええ、もちろん。」
二人の呼吸が重なり、湯の音が静かな夜に響き渡る。沙織の指が美和の襟元に触れ、湯気の中でその動きがゆっくりと丁寧に浴衣を解いていく。
「あなたの心も、体も、ここで解放して。」
美和の声は優しく、沙織の耳元で心地よく響いた。沙織の目には涙が光り、その涙を美和がそっと唇でぬぐう。
夜は深まり、二人の影が月明かりの湯面に揺れる。
次の日の朝、沙織は晴れやかな表情で旅館を後にした。
「女将さん、本当にありがとうございました。」
美和は、変わらぬ微笑みで見送った。
「どうぞ、またお越しください。いつでもお待ちしております。」
旅館の玄関で、沙織の背中を見送りながら、美和は小さく呟いた。
「さようなら……また、いつか。」
次回予告:第3話『青年の秘密』
次に訪れるのは、若き小説家の青年。彼の抱える秘密とは?そして、美和との混浴で何が解き明かされるのか——。
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