混浴温泉物語
霧乃遥翔
第1話「失意のサラリーマン」
山間の静かな温泉旅館「湯乃宿 花咲亭」。
静寂に包まれたこの旅館には、ある不思議な噂が囁かれていた。
——「女将の美和と混浴すれば、どんな悩みも溶けて消える。」
それを知る者はごく一部の常連客のみ。しかし、旅館の温かな雰囲気と、美和の柔らかな笑顔に惹かれて訪れる客は後を絶たない。
女将の美和は、四十代に差し掛かるもなお、若々しさと艶やかさを兼ね備えた女性だった。絹のような黒髪が艶めき、浴衣の襟元からのぞく鎖骨が、さりげなく色香を漂わせる。客の心を見透かすようなその瞳は、訪れる者すべての心を捉えて離さなかった。
しかし、そんな彼女の笑顔の裏には、誰も知らない秘密があった。
ある晩、旅館の玄関に一人の男が現れた。
男は三十代半ばだろうか。スーツはくたびれ、靴は泥で汚れている。疲労の色が濃く、うつむき加減のその姿には、生気の欠片も感じられなかった。
「ようこそ、『湯乃宿 花咲亭』へ。」
美和が、いつものように柔らかな微笑みを浮かべながら丁寧に頭を下げる。
男は軽く会釈をし、淡々とチェックインの手続きを済ませた。
「お疲れのご様子ですね。どうぞ、ゆっくりとおくつろぎください。」
その一言に、男の顔が一瞬だけほころんだ。
夕食を終えた後、男はふと旅館の案内板に目を留めた。
『夜の混浴露天風呂 〜女将とのひととき〜』
「……混浴?」
男の疲れ切った瞳が、少しだけ興味を湛えた光を取り戻した。
湯気が立ち込める露天風呂には、すでに美和がいた。薄手の浴衣を肩まで湯に浸し、月明かりに照らされたその姿は、まるで幻想のようだった。
「いらっしゃい。」
美和が、男を迎える。
「……お邪魔しても?」
男は一瞬躊躇しながらも、ゆっくりと湯に体を沈めた。
「仕事で、疲れてしまったんですか?」
美和の声は穏やかで、まるで母親が子を慈しむような温かさを帯びている。
「ええ……。会社では結果が出せず、家庭でもうまくいかず……もう、何もかも嫌になってしまって。」
男の声には、重い疲労と失意が滲んでいた。
美和はそっと男の隣に座り、湯の中で優しく彼の肩に手を置いた。その手は温かく、すべての不安や悲しみを溶かしてくれるようだった。
「人生には、時に立ち止まることも大切ですよ。」
その言葉に、男は少し驚いたように顔を上げた。目の前には、優しく微笑む美和の顔があった。
「女将さん……ありがとうございます。」
男は、美和の顔を見つめた。その瞳には、いつの間にか涙が浮かんでいた。
「泣きたいときは、無理に我慢しなくていいんですよ。」
美和は、そっと男の手を取り、指先を絡めるように優しく握った。
「疲れた心も、体も、ここで全部流していきましょう。」
美和の声は、心地よい波のように男の胸に染み渡った。
湯の中で、美和はゆっくりと浴衣の襟を緩めた。
月明かりに照らされた鎖骨が、美しく浮かび上がる。湯の中で濡れた浴衣が彼女の肌に密着し、男の目を引きつけた。
「……女将さん、本当に……綺麗だ。」
男の声は、どこか震えていた。
美和はその視線を受け止め、柔らかく笑った。
「ありがとう。でも、そんなに見つめられると……恥ずかしいわ。」
「すみません……でも、目が離せなくて。」
男の手が、湯の中で美和の手から腕へ、そして肩へと滑り、彼女の肌に触れた。
「本当に、誰にも言いませんか?」
美和の囁きに、男は頷いた。
「ええ……これは、二人だけの秘密です。」
「それなら……」
美和は、男の耳元にそっと唇を寄せ、囁くように言った。
「今夜は、特別な癒しを……あなたに。」
その瞬間、男はもう何も考えられなかった。
美和の手が彼の頬に触れ、唇がそっと重なった。湯の音が静かな夜に響き、二人はお互いの温もりに溶け込んでいく。
次の日の朝、男は別人のように晴れやかな笑顔を浮かべて旅館を後にした。
「女将さん、本当にありがとうございました。」
美和は優しく微笑み、見送った。
「どうぞ、またお越しください。いつでもお待ちしております。」
旅館の入り口で、男の背中を見送りながら、美和は小さく呟いた。
「さようなら……また、いつか。」
次回予告:第2話「未亡人の涙」
次に訪れるのは、ある事情を抱えた未亡人。彼女が美和との混浴で、何を語り、何を得るのか——。
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