第3話 青年の秘密

湯乃宿 花咲亭は、山間の奥深くにひっそりと佇む旅館だ。かつてこの地には、愛憎が絡み合う悲劇の物語が語り継がれてきた。今もその名残が宿に息づき、訪れる者たちの運命を密やかに変えていく。


その夜、月明かりが静寂な空気を包み込む中、花咲亭の扉を開いたのは、一人の青年だった。


彼は背が高く、黒いジャケットに身を包んだ姿が都会的な印象を与えるが、その瞳には深い闇が宿っていた。どこか常軌を逸したような、不安定な雰囲気を漂わせている。


「いらっしゃいませ。」


女将の美和が柔らかな声で迎えるが、その目には不安の色が浮かんだ。一瞬、青年の顔に見覚えがあるように感じたが、すぐに表情を取り繕った。


「お泊まりのお客様ですか?」


青年は無言のまま視線を彷徨わせた後、小さく頷いた。


「はい、宿泊の予約をしています。名前は……相澤優一です。」


美和はその名前に耳を傾け、心の奥でざわめきを感じた。かつて花咲亭に訪れたある客と同じ名前――だが、その客は悲劇的な結末を迎えたという話を思い出し、胸に嫌な予感が広がった。


「相澤様ですね。お待ちしておりました。どうぞこちらへ。」


案内された部屋に入ると、優一は一人静かに過ごしていたが、時折何かに怯えるように窓の外を見ていた。その様子はまるで、誰かに追われているようだった。


机の上に置かれた旅館の案内板に目を留める。


『夜の混浴露天風呂 ─ 女将とのひととき ─』


その文字を見つめた優一の表情が歪んだ。彼は震える手で小さなノートを開いた。そこには未完成の小説の原稿が綴られている。しかし、その筆は長らく止まったままだった。


「これじゃ、ダメだ……。」


優一は頭を抱え、ノートを閉じると、浴衣に着替え、露天風呂へと向かった。その背後で、誰かの視線を感じるような錯覚に襲われ、何度も振り返った。


夜の露天風呂は、まるで異界の入り口のようだった。湯けむりが立ち込め、月明かりが湯の表面を不気味に照らしている。


湯船にはすでに美和がいた。ゆるく結われた髪から首筋にかけてのラインが妖艶に見えるが、その目はどこか警戒心を宿している。


「こんばんは。」


美和が優しく声をかける。しかし、その声音には微かな緊張が混じっていた。


「こんばんは……失礼します。」


優一は少しぎこちなく湯に体を沈めた。静かな湯音が二人の間に響くが、その沈黙の中に、何か得体の知れない緊張感が漂っていた。


「お一人でのご宿泊ですか?」


「はい。」


「お仕事のお疲れを癒しに?」


その問いかけに、優一は苦笑いを浮かべた。


「いえ……仕事と言えるかどうか。」


美和はその言葉の裏に、何か隠された真実があることを察した。


「相澤様は、何か重いものを抱えていらっしゃるようですね。」


その言葉に、優一の肩がわずかに震えた。


「僕は……小説を書いています。でも、もう長い間、何も書けていないんです。」


美和は優しく頷いたが、その目には鋭い観察の色が浮かんでいた。


「創作は、心が満たされていないと難しいものです。」


「……心が満たされていない、ですか。」


優一の瞳に、月明かりが映り込む。その瞳には、どこか寂しげな色が浮かんでいたが、そこには何か得体の知れない狂気も垣間見えた。


「僕は、愛を知らないんです。」


その告白に、美和は驚くことなく、静かに耳を傾けていた。しかし、その瞳の奥には警戒心が増していた。


「人を愛することも、愛されることも、どうすればいいのか分からない。だから、書く物語にも温もりがなくて……。」


美和は、そっと湯の中で優一の手を取り、指を絡めた。その手は冷たく、まるで生気を感じないようだった。


「愛は、理屈ではありません。感じるものです。」


「感じる……?」


美和は優一の頬に手を添え、優しく撫でた。その仕草に、優一の胸が高鳴るのを感じたが、その高鳴りは恐怖にも似ていた。


「今、この瞬間を感じて。」


美和の手がゆっくりと優一の髪に滑り、彼の額にそっと唇を寄せた。しかし、その瞬間、美和の瞳に不穏な光が宿った。


「美和さん……。」


優一の耳元で、美和は低く囁いた。


「あなたの心の空白を埋めるために、何が必要か知っていますか?」


優一の体が震えた。その震えは、これまで感じたことのない感情の揺れだった。


「何が……必要なんですか。」


美和の唇が優一の耳元で動く。


「犠牲です。」


その言葉に、優一は恐怖に目を見開いた。


翌朝、優一は新たな原稿を手に、晴れやかな表情で旅館を後にしたが、その原稿には、かつて誰かが同じ言葉を綴った痕跡があった。


「女将さん、本当にありがとうございました。」


美和は変わらぬ微笑みで見送ったが、その背後には影が揺れていた。


「どうぞ、またお越しください。あなたの物語が完成したら、ぜひ教えてくださいね。」


「はい……必ず。」


優一の背中を見送りながら、美和は小さく呟いた。


「さようなら……また、いつか。」


その呟きが、風に溶けて消えた後、湯けむりの中にもう一つの影が現れた。花咲亭には、まだ語られていない秘密が隠されていたのだった。

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