数学のすすめ
@potofu-is-sunflower
第1話
食卓にはラップがかかった半熟の卵焼きと、空の茶碗が伏せて置かれていた。
一人きりの朝食は慣れたもので、一品のおかずがその唯一の自由を奪っていることは確かだった。
「ご飯の気分ではない」
独り言を言いつつ、茶碗を食器棚に戻しトースターの上に置かれた食パンの袋をつかむ。
片手でクロージャーを外し、全粒粉の入った食パンを取り出すと無意識に嗅ぐ。小麦の香りが鼻腔いっぱいに広がり、その遠くにライ麦を感じることができた。ただ、ライ麦の匂いとクルミの匂いの差はいまいち嗅ぎ分けることができないのだが、定春はこの香りが好きだった。
トースターを一瞬見た後、パンを口にくわえ卵焼きのラップを外す。
そして、そのまま卵焼きの皿へ差し込んだ。
緩めに焼かれた卵は、パンの中へとゆっくり吸い込まれていく。
その、食感はフレンチトーストの様で嫌いではないのだが、いつも思い出すことがある。
中学生の頃、朝目覚めると食卓に手作りであろうステンレス板で作ったU字型のソーラークッカーと中華鍋が置かれていた。
定春は状況が呑み込めず、寝汗でじっとりとした頭を搔きむしる。
呆然としていたが、家を出るまでの時間的猶予があるはずもなく己に2択を迫った。
目の前の器具を無視して適当に調理するか、そのまま食べられるもので空腹を満たすか。
しかし、準備をしたであろう父親の姿を想像してしまう。
それと同時に、一種打算的な思考が走る。これを理由に少々の遅刻は許されるのではないのかと。それだけではなかったのは今になってわかる。純粋に使ってみたかったのだ。
揃えられた器具を持ち、ガラス張りのテラスに運び込んだ。母親が愛したこの外とも中とも言えない空間。
食材と器具を運び込むと日の当たる方にU字の開放方向を向ける。早朝から日差しは申し分なかったのだが、中華鍋に入れた油は一切白い湯気すら上げない。時計はどんどん進み、ぎりぎりに時間になったので卵とベーコンを投入する。焼ける音はしないものの、卵はうっすら火が通っていくのがわかる。ここで気づいたのだが、中華鍋に反射した光が絶妙にぼやけているのだ。日航が集中していない。これじゃいつまでたっても焼けるわけがないじゃないか。定春は調理を諦め、変に柔らかい生焼けのベーコンと、ぐずぐずの卵をパンに乗せて食べるしかなかった。悪夢のような朝食。
ふと壁際を見ると鎖がかかっていた。
「まだあったんだこれ…」
ゆったりとカーブした鎖は、両サイドをピンで留めているだけのシンプルなもので、当時父親が備え付けたものだった。
そして、これがソーラークッカーの発端であり、少し変わった父親と意思疎通することの難しさを知った瞬間でもあった。
「壁際の鎖、何に使うの?」
いつの間にか取り付けられていた、それを指さしながら父親に聞いた。
「収納。便利じゃね?」
父親は鎖や無造作に差し込まれたピンを触りながら満面の笑みを浮かべていた。
「この鎖にはS字フックとか使っても良いし、磁石貼り付けて使っても良いし、使い方無限大」
そう言いながら、父親は壁に刺したピンに引っ掛けた腕時計を手に取った。
「チェーン使わんのかいっ」
「まだその時ではない」
未だその時が来ないチェーンは目の前にあり、もちろん何かに使っているのをその後も見たことは無かった。
「その鎖を伸ばしたら放物線になりそうだよね」
「そうなりそうだよね。けど、実際は違う…そうだなぁ」
そう言うと父親は何か考え込み、そのまま自室へと籠ってしまう。
数日後あの悪夢のようなステンレス板と中華鍋を目の当たりにすることになった。
当時カテナリー曲線と放物線の違いを伝えたかったとしても、何故に朝飯時に行ったのか今でも全くわからない。やはり太陽光を集めるには放物線でないといけなかったのか、とか思う訳がない。大体、そのステンレス版の曲線が、放物線なのかカテナリー曲線なのか分かる中学生が…いや、そんな人間が居るはずがない。
悪夢のような夜
「ソーラークッカー全く使えなかったけど、何で朝食用にしたの?」
定春はできるだけ声量を抑えて話そうとしたのだが、今朝の焦りと苛立ちが抜けきってはいない。
「ソーラークッカー?そんな物あったっけ?」
こちらを覗き込むような父親の視線が、定春の奥底に収めていた感情をざわつかせるには十分だった。
「ダイニングテーブルに大きな板と中華鍋があったじゃんか!」
半分ほど叫んだところで自身のくだらない作興が頭をもたげ音量が落ちる。それを感じ取ったのか、父親はしばし間を置く。
「そういう事ね。プラシーボ効果やな」
続けて、
「ある程度焦点が集中しなくとも、そこそこのエネルギーは集まるはず。今朝だったら十分日が照ってたし、板鏡を使ったソーラークッカーまであるんだぞ?」
「現に加熱はしないし、時間が無いし…」
言い淀む自分に対し、父親は満面の笑みで、
「まさに母さんの料理だったか」
と、亡くなった母親のせいにしだしたのを聞いて、震えるほどの怒りを覚え部屋に帰ってしまった。いや、母さんを出した事にすべての理由の乗せたというのが正しいのだが。
ただ、そう言ったこともあり、悪夢がなぜ起きたのかという真意まで届かなかったのだ。
今にして思えば、会話が全く嚙み合っていなかったので、どうしてそんな事を言ったのか聞けばよかっただけかもしれないが、現在その話はお互いに無かったことになっている。
それが自分の父親だ。そんな父親と進路について話をしなければならない。
過去のトラウマを思い出しながら溜息と共に独り言が口をついて出る。
「今日の夜までに進路の相談方法を考えなければ…」
定春には他に頼れるような人間は居ない。その現実が大きく圧し掛かる。
週末の気怠い日課を何とかこなした定春は、紫に染まった自宅の玄関を開ける。
静まり返ったリビングにあるソファー目掛け、肩にかけたカバンを投げた。ごわつく上着を脱ぎながらその上に被せると、朝から食卓に置いてあるリモコンを手に取り、エアコンを起動させ手荒にテーブルに滑らせる。
座りながらスマホを取り出し、真剣な眼差しで画面を見つめた。変に刺激し、興味を持たせてはいけない。それだけに集中する。一言一句気を抜かない。出来るだけ簡素に、そして父親が興味を持たないように。それだけを心掛けた。あの時の失敗は鎖に触れたこと。いや、鎖に対して興味を持つ自分に興味を持たれたこと。興味さえ持たさなければ良い…割と普通の父親なのだ。文面は、卵の殻の上を歩くほどに気を付ける。
進路の相談
成績は偏差値××××くらいです。
狙えるのは××××大学だと思いますが、○○〇くらいを目指そうと思います。
どうでしょうか?
恐る恐る進路の相談をメールを送る。
これで回答はイエスかノーだけだ。
おそらく返信は夜中になるだろう。そう思い、スマホを防水袋に入れシャワーを浴びる。
リズミカルな音楽は一瞬音量が下がり、着信を知らせる音が一瞬鳴った。
今まで帰ってきたことのないタイミングだった為、父親からとは思わずメールを開く。
定春に浴びせかけられる大量の雫と共に、絶望が広がる。
今回も、意味不明だ。
件名は【問題】
本文は、
XY平面上の曲線Cを
C:Y=X⁴-X³+(a-1)X²-aX+a-2
で定める。
ただし、aは実数定数である。Cと異なる2点で接する直線laの通貨領域をXY平面上に図示せよ。
とあった。
「数学の問題って…」
今の偏差値や大学の名前など判断できそうな内容を送ったつもりだったのだが…
不安に駆られ、急いで定春は自分の文面を見返した。
送信フォルダには進路の相談しか書かれていない。しかも、それが判断として正しいかどうか、それだけを聞いていたのだ。
聞き方に間違いはない。間違いはこの親父そのものだ。
進路を具体的に決めなければならない状況で、問題をよこしてくるとは。しかも解けそうにに無い問題とは…。
好きにしろでも、任せるでも良かった。出来ることならば、この成績ならこの大学とかどうだろうか?など、寄り添ってほしかったのだがそんな贅沢は言わない。最低でも送ったメールを読んだ形跡だけでも欲しかった。
定晴は次から次へと湧き上がる不信感を忘れ去るようにベッドにもぐりこむ。
もうどうだって良い。不信感も悩みも、思考領域から締め出すように固く目をつむる。
その閉じた瞼の裏に、焼き付いた画面のように文字が浮かび上がった。
あの送られてきた問題だ。
布団の中で再びメールを開き、今度は丁寧に文字を目で追う。
問題文を飲み込む過程で、何を回答すべきなのか、そこだけでも理解しなければ落ち着かない性格だからだろうか。算数で例えれば、速度を出すのか、数量を出すのか、何を答えればいいのか、そこがわからないままでは気持ちが悪かったのだろう。
まず、直線laの通貨領域を図示せよと書かれている。と言うことは、laとは何なのか?
まずはそこに引っかかった。
続いて、Cと異なる2点で接すると書かれているため、Cとは何か。
そうやって問題を分解し始める。
Cの式はべき関数であり、その時数は4だ。そこから難易度を推し量ると、そこまでの難問では無いと値踏みできた。
適当に計算すれば出るのではないのかと思い、そのまま這うように机に向かう。
4次関数に対して2点で接するのか…。脳内にそのままWのような曲線が浮かんだ。
そこに左から直線が近づいていく。左側の山に触れた直線の接点が傾斜を滑るように動き、右側の山に触れ、その瞬間に図形が固定された。
aは実数定数であるが、aを変数と仮定し脳内でグラフを動かしてイメージを固める。4次関数はその時点で二本の指に置き換わり、接線はシャーペンに置き換わりゆらゆらと揺れている。
その直線はaを用いて書けるのではないか?という仮説に至った。
次に、どうやってlaの方程式をaを用いて表すかが課題になる。
そこで計算を開始した。それは今までの経験であり、そのまま解ける凡庸な問題の多くがその手法で解けていた為だ。
計算の内容としてはこうだ。x=tにおけるCの接線を求める。接線とは直線であり、平面上においては、傾きと高さという二つの要素によって一意に定まる。すなわちx=tにおけるCの接線を求める為にはその情報が必要となる。
まずは傾きだ。
x=tにおけるCの接線の傾きを求める為に、x=tで微分する。
微分係数がその傾きを表すからだ。
直線は通る点と角度が決まっている。つまり直線は平行移動しかできない状態で通るべき点を決められているのでおのずと高さが決まるのだ。
あとは、この接線がもう一度接する為にtが満たすべき条件を求めていく。
はずだった。
それを数式でどう表せば良いのか?
グラフによる考察…では条件が一つも見いだせない。
異なるt1、t2が存在し、更に同じ直線が共有する直線を求める?
傾きと高さを求める式が、tの3次式と4次式だぞ?
これはあれだ、無理だ。
このアプローチは失敗だったか。
枕もとの時計を横目で見ると既に2時を回っていた。
一旦…寝よ。
机から再びベッドへ戻ると、そのまま意識を失うように睡眠状態に落ちていく。
「ズダダダダダダ…」
ハンマードリルの音で目が覚めた定春は、目覚ましを確認した。
仕事をやり切った目覚ましは、アラームの時間を超え悟りの境地に達した僧侶のように現在の時刻を冷静に表している。定春はベッドから這いずり出て応答ボタンを押す。
「おお、起きたか~」
奈央の抑揚のない口調から大体の時間を把握する。
それと同時に、インターホンを工事現場の音にした父親を少し褒めたい。小鳥のさえずり程度では起きることは不可能だ。むしろ目覚ましをこの音に変える事は出来ないだろうか…本気でそう思う。
「ありがと、それでは学校で」
「無事たどり着いたらな」
奈央らしい受け答えと言えばそうなのだが、たどり着かないシチュエーションが思いつかないまま通話を切る。
定春の家の前まで来ているにもかかわらず、二人は一緒に登校することはない。いや最初は登校していた時期もあったが、定春の準備が遅かったので、遅刻の巻き添えを食らったこともあり、それ以来別々に登校していた。
ちなみに、彼女は先に学校に向かうのだが、なぜか遅刻することがある。
無事では済まない道順が存在するのだろうか…。
父子家庭の朝は悲惨だ。
朝食の概念もなく、父親は絶賛外泊中でどこにいるのか皆目見当がつかない。
ただ、ソーラークッカーの一件より毎朝自身の朝ごはんは把握する癖をつけていた。
今日は昨日の晩に見つけておいた冷ごはんを、インスタントのクリームスープに入れチーズを載せレンチンしたドリアだ。誰が何と言おうとドリアだ。
いつもならばスマホ片手に食べるのだが、今日はコピー用紙を睨みながら食べる。
食べ終えたスープカップをシンクに放り込み玄関を出た。時間は把握していないがおそらくギリだ。
定晴は教室に着くと朝見返していたコピー用紙を再び広げた。
奈央がその挙動を見かけたのか、肩越しに覗き込んでくる。
「何読んでるの?」
相変わらず距離が近く、平常心を保つのに苦労していた。
奈央の距離感は見事なほどにバグっていて、地図アプリに例えるとオーストラリアを検索すれば四国を表示するほどだと思っている。
ただ、他の男子にも同じ感覚で接するため、女子に慣れていない男子には勘違いされることが多く、告白されそうな場面を何度も目にしていた。
その時は常に、
「ご苦労さまです!」
と言いながら敬礼するのが定番で、あまりに色気の無い奇怪な行動をするために相手が戦意喪失していく舞台は他人事としても目を覆いたくなる。
作戦なら策士なのだが、いかんせん身から出た錆なので何とも言い難い。むしろ被害者が増え、それをよく思わない女子の半数がアンチ化していた。
「春っち、それなに?」
奈央はコピー用紙から一切目を離さず聞いてくる。
「人のものを変な角度から覗くな!まずは謝れ!」
「あっ…お父さんからの問題?いつも意味深なメール送ってきてるけど、スパイとか特殊部隊系の人?」
俺の周りには、自分の会話を無かった事にする人間がなぜこんなに多いのかと思い返し悲しくなってきた。そもそも、いつも?そんなにメールのやり取りをしてないんですが!数学の問題が意味深?どゆこと?特殊部隊の人は問題を息子に出すのか?など色々聞きたい事がが山積みになっているがひとまず一番言いたいことを言う。
「まずは人の話を聞こう?」
「じゃあ春っちが先に聞いて!なにそれ?」
あっ無理だ。すぐさま諦めて問題を別の紙に書き出す。
その問題を書き写すまで待たずに、そのまま奈央はクラスの人ごみに消えていった。
定春は慣れてはいるのだが、奈央の興味の移り変わりは人知を逸している。
途中まで問題を書いた紙に接線の式を書き出し、相異なる二つのtに対し同じ接線が出力される為の条件を再び求めようとした。
方向性は合っているはず…。
だが、クソだるい。
これは「キショイ」ではなく「だるい」打つ手がない。
「志望大学の問題?」
高い位置から低い声が聞こえた。視界の隅には寛くんの足が見える。
「いや、進路相談したら親父から送られてきた問題…」
「相変わらずパンチのきいた親父さんだね」
一瞬で察してくれたことに感謝し、定春は愛想笑いをする。
それと同時に寛くんも一瞬顔がにやけるが、真顔に戻り腰を落として問題を覗き込んできた。
「どういう風に解いてんの?」
「接線が二重接線になるような接点の条件が出せんかなぁ…って足掻いてる」
会話が終わる前に
「それ、三次式と四次式で出てくるから処理大変じゃない?」
視線が右上を見ながら話している所を見ると、会話と同時に計算しているのだろうと思う。
「わかる?ムリゲー!接線の方程式がさぁ…」
そう言いながら定春はもう一枚の紙を目の前に出そうとする。
寛くんはその行動を待たずして奈央の為に書いた方の紙を定春の方に向け、xyの座標軸を書き出す。
定春は寛くんの描いているグラフに違和感を感じた。
xyの座標軸必要なくないか?
曲線と接線の位置関係について考察しているため、座標軸の必要性を定春は感じていない。
しかし、寛くんの描き出した四次関数はx軸に接するものだった。
「いやいやいや、こんな特殊な場合考えてどうするの?」
純粋な質問に寛くんは台詞を被せる。
「だって重解を考えてんだろ?」
接線なのはわかっているが、実際は違う。そう思いながら、昨日の紙を寛くんの目の前に差し出す。
「こういう風になるよね?」
ふてくされた表情で、昨日描いた四次曲線と直線のみが描かれたグラフを見せる。
それを一瞥すると、
「まだわかんない?上から下引いてんだって」
目の前に差し出していた紙をひっつかみ、四次関数と直線をx軸に接する形に変換する公式を空いたスペースに書き込む。
四次関数と直線の交点のx座標は、四次関数の式から直線の式を引いた関数とx軸の交点に一致する。
言葉で表せば魔法のような数式変換だが、小中高とそのような変換は常に机上で行われていた。ほとんどの人間は決められた作業を、文字の中で淡々とこなす文字列操作。
しかし、一歩引くとそこには自分の意志で自在に動く平面座標が広がっている。
定春の脳内のグラフが、文字が、空間が躍動し始めた。
正解を求めるがゆえに足元にある何かを、前に進むためにその何かを踏みつけ、振り向きもせず歩んでいたのだ。
今、無限と思えた空間の中に楔が撃ち込まれた。
「ごめん、この先は一人でやりたい」
そう言って定春は静かに紙を伏せる。買ってもらった絵本を隠す子供のように。
「諦めたら言えよ」
寛くんはこちらから視線を外さず、するするとすり抜けるように自席に戻りながら言った。
間髪を入れず、入口のドアが派手にスライドする。
バン!と聞こえるまで思い切り開けるのはこの学校で中田先生だけだ。
身長が低いが細マッチョで、どんな季節も黒いスーツを着た教師だった。
おそらく自分自身を演出しているのだと思われるが、いかんせん趣味が悪い。ただ、そんな彼を慕う女子生徒もいるのであながち100%の間違いではない。
「では、教科書の122ページを開いていこ!さあ、楽しい古典学問の…」
いつも通り甲高い声が耳障りだったが、すぐに意識の端に飛ばした。
騒がしかった授業の中で、最近の古典だけはやけに静かだ。
理系クラスなので、みんな自分に必要な勉強をしているのだろう。
自分は…。今これが必要なことだ。
伏せた紙をめくり、教科書で壁を作る。
C:Y=X⁴-X³+(a-1)X²-aX+a-2
と
lt:Y=[4t³-3t²+2(a+1)t-a]X-3t⁴+2t³-(a+3)t²+a-2
が、2つの重解を持つ。
X⁴-X³+(a-1)X²+[-4t³+3t²-2(a+1)t]X+3t⁴-t³+(a+3)t²=0
が2つの重解を持つ。
あとは左辺四次関数を微分して、X軸に二回接する条件を考えてやるだけだ。
待てよ、微分すれば三次方程式を解く羽目になる。
先ほどと何も変わらないのではないのか?
寛くんはその先まで見ていたはずなのに、こんな難しい計算があるはずがない。
多分感覚でわかるはずだ。
四次方程式の重解は難しいので、二次方程式の重解を持つ時で考えてみよう。
二次方程式では
X²+aX+b=0
が、重解を持つとき、判別式は0であるためb=1/4a²であるから…。
(X-α)²=0
のような形に因数分解できる。これを4次方程式に応用すれば…。
(X-α)²(X-β)²
と、因数分解できるはずだろう。
X⁴-X³+(a-1)X²+[-4t³+3t²-2(a+1)t]X+3t⁴-t³+(a+3)t²
これも同じように因数分解できないか考えてみよう。
「いつになく真剣に授業受けてるやないか!」
古典に似つかわしく無いテンションと、問題がなかなか開放に向かわない苛立ちで普段ならできた愛想笑いに身体が全力で拒否する。
無言の定春に更にさらに追い打ちをかけた。
「古典楽しいだろ?」
わざと言っているのか、定春は彼を理解することはできない。
「受験は楽しむ必要ないので」
見かねた寛くんが割り込んできた。
「そりゃそうか!」
昭和の漫才師のようなリアクションを取り寛くんの方に歩み寄る。
とりあえず助かった。今は無駄な時間を作りたくない。
彼は本当に粘着質なので、普通に相手をするには非常に時間が惜しい。おそらく中田先生には自覚はないのだろうが。
「菊池~この訳を出来るか?」
ごめん寛くん。続きを解きたい。友を見捨てる我を許したもう。
しかしながら古典で友を見捨てた呪いなのか、ずっと同じところで詰まり続けていた。
「どう?進んだ?」
授業終わりの寛くんが、にやけ顔で聞いてきた。おそらく進んでいないことがバレているには違いない。
「今日は無理だ」
「この後自習室寄ってく?」
「いや、家で考えたい」
指で空中にある電卓を叩くような動きをしながら断る。
「だと思ったよ。俺は英語を押さえに行くから」
そう言うと寛くんは自習室に向かっていった。
「この時間に帰るのなら家よってけ」
「うおぅ」
予想外の声の出どころに、意味不明な声が出た。
奈央の気配はいつまでたっても読めない。
「普通に正面から声かけられない?」
定春は振り向きながら不満をこぼす。
「正面に立つと睨み合いで動けなくなる」
そう言いながらジャガーポーズをとる彼女を不意にかわいいと思った。一瞬だけだが。
「寄ってくってことはご飯食べられるってこと?助かる~コンビニ飯飽きてきたんだよね」
定春は、母親が亡くなってから週一回くらいのペースでご飯をごちそうになっていた。
ただ、自習室に通うようになり、コンビニ弁当が増え最近はほとんど断っている。
「行くよ!野郎ども」
「はい船長!」
どんな返事が正解かわからない呼びつけ方に困惑しないのは、長年の無駄な経験のおかげだろう。
「んで、今日の定川春男は何を研究していたのかね?」
相変わらず呼ぶ度にあだ名が変わるため、一瞬間が生まれる。まあ、反応すら出来ない場合があるのだが今回はましな方だ。原型がある。
「朝の問題だよ」
そう言いつつ、カバンから紙を取り出し持ち直して横から見せた。
一瞥もせず奈央は
「言葉で表したまえ」
いや、明らかに見るのを拒否している。
「寛くんに…」
「寛くんはよい!問題点は簡潔に!」
オーバーリアクション気味に手刀で空を切る。
古典の前まで解いていたところを説明し、
「…結局、X⁴-X³+(a-1)X²+[-4t³+3t²-2(a+1)t]X+3t⁴-t³+(a+3)t²、これが=(X-α)²(X-β)²って因数分解出来ればいいんだよね…」
「うわー見るのも嫌だが、聞くのはもっと嫌だ~」
奈央は頭を抱え小走りで走り出す。
定春は追いかけながら不思議とおおよその検討がついていく。
問題がこなれてきた感じだ。そうなんだ、あとは計算すれば出来る。
計算したい…。
「母さん定吉連れ帰ったよ~」
靴を脱ぎながら奈央が母親に告げると、
「もう少しだから待ってもらって~」
キッチンの奥から聞こえる声は、どことなく余所行きの感じに聞こえた。
「まだ時間あるなら部屋行っていい?」
リビングに向かう奈央に小声でお願いする。
「エロい事する気?」
奈央は両手で自分を抱きしめ身震いしている。が、その目は白目をむき口角は骨格を無視したかのように上がり一言で言うとてつもなく不快だった。
「続きがしたいの!」
定春は視線を上方に外しながら答える。
「私と計算どっちとしたいの?」
まだその表情を保ったまま、身体を激しくくねらせ奈央は目の前をうろつく。
ああ、殺意とはこんなにも簡単に沸くものか。
怪しくうねる奈央を壁に押し付け、部屋の中に押し入る。
すると、アフリカのお土産であろう赤茶けた無表情の面が色鮮やかなハワイのレイをかけられた状態でこちらを見ていた。
天井からはいったいどこなのかわからないタペストリーがぶら下がり、呪われそうなほど漢字が書かれた三度笠が不釣り合いな本棚の上を独占し、意味不明な調度品がひしめく中に机というの孤島が見える。
ピアノブラックの天板、そこには開いたままの赤本が放置されていた。
そうだ、彼女もまた進路に向かい努力している最中だということを再認識する。
「ごめん、やっぱおれリビングで…」
言い終わらないタイミングで奈央に肩を掴まれた。
「さあさあ座り給え!そして解法を見せたまえ」
壁に立てかけられた真っ白な丸っこい折り畳み椅子を起用に片手で広げ、奈央は定春を椅子に押し付けた。
「ちょっ」
そのまま、定春の手にシャーペンも握らせた。
「そういや定春ってなんでいつもコピー用紙使ってるの?ルーズリーフの方がまとめやすいし書きやすいじゃん?」
そう言いながら、ルーズリーフを目の前でひらひらさせながら鼻に当ててくる。
「ちょっと、本気でうざい」
心の声が噴出した。
奈央はすっと目を伏せ、廊下へと出ていく。
瞬間的に硬直し、椅子から立ち上がりかけたところへ、定春のカバンの片方の取っ手だけ持った奈央がすぐ帰って来た。
だらしなく開いたその中をあさりながら近づいてきたので、もう一方の取っ手を軽く持ち上げつつ取り上げる。
何が入っているわけでもないし…そんなに大切にしているわけでもないが…。
そんな言葉を飲み込みつつファイリングされた紙を取り出した。
「ここから面白いところは無いよ?ただの計算だし」
そう言いながら椅子に座り直し目の前の赤本を丁寧に閉じた。
背表紙には、誰でも聞いたことのある某有名大学名が書かれている。
そのことを忘れるように手渡されたルーズリーフにシャーペンを走らせた。
丁寧に問題を書き写し、今日止まっていたところまで一気に書く。
案外内容を覚えているもので、問題から書き出すと不思議と理解度が上がっている気がしていた。
(X-α)²(X-β)²をバラシてX³とX²の係数比較を比較する。
α+β=1/2 ,αβ=1/2 a-5/8
「という式を得た」
振り向きもせずに話しかける。
「この形は基本対象式であり、α,βを具体的に求めることなく残りの項も計算可能だと思う。ただ、基本対象式を扱う際にはα,βが実数であることに注意する必要があるよね」
いわゆる実数条件というやつだ。
一瞬彼女がどんな表情で話を聞いているのか不安になり振り向く。
そこには苦虫をかみつぶしたような苦悶の表情だが、視線は定春の手元に集中しており、おそらく振り向いたことすら意識していないように見えそのまま続けることにした。
「この問題は、さらに相異なる実数という条件も付いてくると思われるから…」
α,βが相異なる実数であるための必要十分条件は、α,βを解にもつ二次方程式を与える多項式を考えればよい筈だ。
λの二次方程式
λ²-1/2λ+(1/2a-5/8)=0
の左辺の二次多項式について定義される判別式が正であればよいから、
(1/2)²-4(1/2a-5/8)>0
⇔11/8>a
すなわち定数aの取りうる範囲は11/8>aである。
「X,定数項の係数も比較してやれば、二重接線の方程式を求められるのだから…」
「あっ」
思わず声が漏れる。
「ここで、そもそも接線の方程式など考えずとも、求めたい直線の方程式を…」
Y=pX+q
などとでもおいてやればよいことに気が付いた。
「放物線に接する直線を求める際に、判別式を用いた解法を馬鹿にしてたけど、もうそれもできないな…。」
求めたい直線の方程式をY=pX+qと置くことにより、
p=-1/2a-5/8,q=-1/4a²+13/8a-153/64
「でしょ?でしょ?だからね」
la:Y=(-1/2a-5/8)X+(-1/4a²+13/8a-153/64)
「どう?あってる?」
今度はわかりやすく振り向くと、
「へへっわかんない」
いつの間にか奈央の表情は緩んでいた。
「この答えは…」
導き出した数式が描きだされていく。
それを待っていたのか、奈央の母親が廊下から声をかける。
「青春した?」
定春と奈央は二人揃って親指を立てた。
夕飯は色鮮やかなパエリアと鮭のカルパッチョにスパイスの利いたチキンが並べられている。
「食べる前から美味しいの確定やん」
取り皿に盛りつけられたサフランライスと、魚介に混じって漂ってくるレモンの香りで唾液が漏れ出しそうだ。
「お腹がはちきれるまで食べなさい」
奈央の母親はフライパンから取り分けたパエリアを置きながら微笑んだ。
定春はほんの一瞬、自分が別の家族になった気がした。
「これお土産~」
奈央が余ったパエリアとチキンをタッパーに入れ、定春に手渡す。
「明日の晩御飯か朝飯、どっちにするか迷うわ~」
そう言いながら定春は笑顔で受け取る。
数時間前までそのような表情ができるとは定春自身思わなかった。答えが合っているかどうかより、自分の中でベストを尽くした答えが出た時の解放感は数学ならではだ。
その夜、風呂上りに回答を写真に撮り父親に送った。
これを送れば何らかの答えが返ってくるのを期待し、定春は眠りにつく。
翌朝メールの返信は意外なものだった。
その数学力があるのならばここを受験してみたら良い。
○○大学
××大学
…
名だたる大学名が綴られていたが、いまいちピンとこない。
一応調べてみるか…
ネットで調べると今の自分で乗り越えれるような大学では無く、全てが雲の上に感じた。
ただ、受験内容が一貫して数学の配点が高いところばかりだと気づく。
そこには奈央の受ける大学も入っている。
こんな高望みをしていいのか一瞬躊躇するが、幼馴染が受ける大学…
そう思うと若干肩の力が抜けるのを感じた。
「赤本買って帰ろうか…」
独り言が口をついて出る。
ただ、そんな簡単な道のりではない。
なぜなら、目標にしていた大学より数段上なのだ。
特に英語は鬼門で、クラスではいつも下から何番目かを争う状態だった。
ただ、学部によって数学の配点が違うことに気が付く。
数学で突き抜ければワンチャンあるのかも?
そう思わせる内容だ。
ピンポン~
水を差すようなタイミングだったが、何故か分からないが希望の音に聞こえた。
「ちょっと待って!」
定春は今年一番のスピードで支度を行う。
「3分で支度しな」
奈央の3分は実質1分に満たない。
ただ、その時間でも良かった。
何故だか無性に話したかったのだ。
覚悟を決めるために。
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