初めの一歩はつま先から

ふりったぁ

初めの一歩はつま先から

 おしゃれは努力の賜物なんだ、と小雪こゆきは自身の足先を見つめてしみじみと思った。


 小雪が友人の萌花もえかの家を訪れてから最初に指示されたのは、風呂場での足湯だった。

 風呂のふちに腰を下ろし、すでに張られていた湯に白い両足を浸して十数分。

 その間は、ずっと萌花が話をしていた。

 最近できた彼氏のこと、実家の犬のこと、大学の授業のこと。

 小雪はニコニコと笑いながら、黙って話を聞いているだけだ。

 相槌がなくても、萌花は機嫌を損ねなかった。そのようなことで顔色を窺う相手ではないと、小雪も理解していた。

 だからこそ、小雪は萌花の傍に居心地の良さを感じていた。

 やがて足湯で温まった小雪の足を、萌花がバスタオルで丁寧に拭いていく。

 それから二人はリビングに入った。

 小雪は萌花に促されるがまま、リビングの椅子に座る。

 一方の萌花は小雪の足元に座って、ポシェットの中の道具を床に広げた。

 それは、小雪が見たことのないものばかりだった。


「これ? ファイルっていう道具だよ。いわゆる『爪やすり』。あんたも、爪切りに付いているのを見たことがあるでしょ?」


 萌花は細長い爪やすりを手に取ると、なにかを考える仕草を見せてから、その爪やすりの先端で他の道具を指し示していく。


「このクリームを爪に塗って、このバトネっていう道具で表面の皮を取るの。ちなみにこれ、私の手作りね。あとで作り方も教えてあげる。それから、このバッファーっていう別の爪やすりで、さらに爪の表面をきれいにしていくの」


 萌花の説明を小雪は目を瞬かせながら聞いていた。

 彼女のその様子を見て、萌花は意地悪っぽく笑う。


「なにを説明されているか、意味がわからないでしょ? ものは試しだよね。あんたの仕事は、そのまま椅子に座っていること」


 そのように言うと萌花は作業を始めた。

 湯に浸からせて多少柔らかくなった小雪の足の爪に、『ファイル』と呼ばれた爪やすりが密着する。


「ちょっとここからは集中するね」


 萌花の手が小雪の足を優しく包み、ファイルを使って爪の形を整えていく。

 小雪はどこか緊張した様子で、けれど好奇心に目を輝かせて、作業を進める萌花の手元を凝視していた。

 片足からひとつずつ、丁寧に。

 本当のところ、小雪は萌花の手が動くたびに、少々こそばゆい心地になっていた。

 だが、真剣に作業をしている気配が萌花の姿から漂っていたため、わざわざそれを伝える真似はしなかった。

 小雪は我慢が得意だった。

 これまでの彼女の人生に比べたら、ちょっとした擽ったさに耐える程度は苦ではない。


「クリームを塗るよ」


 やがて小雪の両足にあるすべての爪を整えた萌花は、爪の縁をなぞるように専用のクリームを塗りつけていく。


「これは爪に馴染ませる必要があるから、ちょっと置いておく」


 萌花は専用のクリームに蓋をすると、床に並べた道具の中から、さきほど『バトネ』と呼んだ細い棒を手に取った。

 それから彼女は、バトネの作り方を小雪に伝授する。

 小雪は真面目な顔で萌花の説明を聞いていたが、同時に彼女は『とても手間のかかることに挑戦しようとしているのかもしれない』ことにようやく気付いた。


「あんた今、面倒くさいと思ったでしょ?」


 そして、そのことを萌花に目ざとく指摘される。


「でも、それは正しい感覚。おしゃれって本当に面倒くさいの。肝心なのは、その面倒くさいことに時間を割けるかどうか……っていうだけ。それじゃあ、作業を再開するね」


 萌花は、手に持っていたバトネの先端を小雪の爪に押し当てた。

 そして慣れた手つきでバトネを動かし、爪の甘皮を取り除いていく。

 小雪は、再び萌花の作業に見入った。

 萌花が『バッファー』と呼んだ爪やすりで小雪の足の爪を磨くところも、爪の表面にたっぷりとオイルを塗っていくところも、小雪は静かに見つめ続けた。

 そうして、何十分が経過した頃だろうか。


「はい、これで準備完了」


 萌花はなんでもないことのように宣言し、小雪の足から手を離した。

 小雪は普段よりきれいに整った足の爪をまじまじと見つめ、感嘆の息を漏らす。


──おしゃれって……大変なんだ。


 今回、小雪が萌花の家に訪れた理由。

 それはちょっとした『おしゃれ』をするためだった。

 これまで『おしゃれ』をしたことのなかった小雪は、『おしゃれ』の下準備だけで、ここまで時間がかかるとは想像できなかった。

 だが、萌花にとっては想定通りらしい。

 彼女は慌てる様子もなく、次の準備に取りかかっていた。


「これがあんたの選んだ色。間違いない?」


 萌花がそのように言って小雪に見せたのは、真っ赤な塗料の入ったちいさなマニキュアだ。

 瞬間、小雪はことさらに目を輝かせた。

 そして彼女は何度も頷いた。


「おっけー。私とお揃いの色ね」


 萌花は機嫌良さげに言って、マニキュアの蓋を開ける。

 いよいよだ、と小雪は興奮を隠せなかった。

 萌花はマニキュアの蓋に付いたハケで、小雪の足の爪を染め上げていく。

 親指から順番に、第二指、第三指……。

 やすりがけをしたときよりも多くの時間を費やして、萌花は小雪に『おしゃれ』を与える。

 やがて小雪の足の先は、ラメの煌めきを持つ赤い色に統一された。


「どう? 初めてのペディキュアは、どんな感じだった?」


 萌花は小雪を見上げて問いかける。

 けれど、小雪は自身の両足を見つめたまま動かない。

 その様子を見て、萌花は口角を上げた。


「気に入ってくれたのなら良かった。あんたは肌が白くてきれいだからさ、赤い色がすごく映えて大人っぽいよ」


 萌花のその発言を聞き、ようやく小雪は萌花を見た。

 彼女は微かに頬を紅潮させ、ラメをまぶしたマニキュアのように目を煌めかせている。

 萌花は思わず苦笑した。


「あんたの視線、熱すぎ」


 それから彼女は、広げていた道具の片付けを始めた。

 小雪はそれを熱のこもった眼差しで眺めた。


──やっぱり、萌花ちゃんはすごい。


 ウェーブのかかった金髪。

 パッチリとした愛嬌のある目。

 自己主張しすぎない程度に薄い色の口紅。

 それらはすべて、萌花が時間と労力を費やして作り上げた、努力の賜物だった。

 そして、道具をポシェットに仕舞う萌花の指先には、ラメ入りの赤いマニキュアが塗られている。

 小雪は初めてそれを見たとき、『なんてすてきな色だろう』と一目惚れをした。

 大学に入学するまでの十九年間、勉強一筋で過ごしてきた小雪にとっては──萌花の手首に彫られたタトゥーも、萌花の耳に付いたピアスもすべてが愛おしく、美しいものに映った。

 おしゃれに手を出してきた同級生は、これまでも数多く見てきたはずなのに。

 小雪は、萌花の美貌ほど目を奪われたものはなかった。


――すこしは萌花ちゃんに近づけたかな?


 そのようなことを考え、小雪は口元が緩みそうになる。


――あたしも、『地味な子』を引退できたかな?


 ちょうどそのとき、萌花がおもむろに立ち上がった。

 彼女はあまり背が高くない。しかし厚底のブーツを履くことで、その身の丈を女性の平均身長に近づけている。

 もちろん今は部屋の中なので、厚底ブーツなど履いていない。

 だから彼女の背丈は、普段見ているよりも低かった。


「あんたが『おしゃれしたい』って、私に言ってきたときはビックリしたよ。それなのに髪を弄るのは緊張する、ビューラーを使うのはこわい、マニキュアを爪に塗るのは大人すぎる、だのなんだの……思いのほか文句を付けてくるんだから」


 矢継ぎ早に放たれる萌花の言葉に小雪は苦笑し、そっと視線を逸らした。

 彼女の臆病な性格には、すこしばかり訳があった。

 ずっと小雪は、失敗の許されない環境で育ってきた。

 小雪はとてもおとなしい子。

 小雪は誰にも強く反抗をしない子。

 小雪は親の言うことをよく聞く良い子。

 そのような型に嵌まった『小雪』を演じ続けてきたものだから、彼女は髪や目元など、周りの反応が露骨にわかる部分に変化を与えるのが恐ろしかったのだ。


──足元なら靴下で隠せる。似合わなくても、誰も怒らない。


 そのように隠してまで、『おしゃれ』に挑戦したいと小雪が思えたのは、萌花の美しさに強い衝撃を受けたからだ。

 十九年間、一度も触れてこなかった『おしゃれ』をしてみたいと思い至るほどに。

 小雪は、萌花の努力で彩られた魅力の虜になっていた。


「見えないところに力を入れるのも、おしゃれの醍醐味だからね。ギャップ萌えってやつ? ちょっと違うか」


 萌花はウェーブのかかった髪を揺らしながら小雪を見ると、


「いずれにせよ、おしゃれデビューおめでとう」


 満足そうに笑みを湛えた。


――ありがとう、ありがとう。萌花ちゃんのおかげだよ!


 小雪は柔らかく笑みを返し、パタパタと嬉しそうに足を揺らす。

 それを見て小雪の心情を察したのか、萌花はケラケラと笑い声をあげて、小雪の頭を撫で回した。


 これからの大学生活。小雪はすこしずつ、自分らしさを形作っていこうと決意している。

 その第一歩を友人の手によって彩ってもらえたことが、彼女は誇らしかった。

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