第3話 書道大好き大作戦 その1


「……うーん」


 私はパソコンの画面に表示される文字を目で追った。何度もエンターキーを押しながら。それでも、期待した結果は見つからない。


「書道を好きになる方法って調べても全然役に立たない……」


 嫌いな理由や、苦手な理由は人それぞれである。

 私はなぜ書道が苦手なのか?

 そんな問いを自分に投げかけながら、ベッドに寝転び天井を見上げる。ゲーム機が目に入ったが、やる気にはならなかった。


「なんでだろう……」


 なんとなく、ではないのだろうが、昔から私は書道に苦手意識があった。長時間筆を持って拘束されるのが嫌だったか、単純に上手く書けないから嫌だったとか、そんな理由だと思う。

 元々字は汚かったし。だって般若心経ってクラスの男子に言われてたくらいだもん。ノートは綺麗に書きなさいって、何度も先生に言われた。

 先輩の姿を思い出す。

 あんなふうにすらすらと書けたらどんなに良いことか。強くて繊細な筆使いを思い出し、私の顔はほころんだ。


「舞子ちゃーん、お夕飯よー」


 お母さんのテンプレに沿りまくった声が聞こえてきた。私はそれに反応して、部屋を出て階段を降りる。


「お母さん……もう少し、テンプレに沿ってない呼び方ないわけ?」


 下に降りると、美味しそうなハンバーグが並んでいた。その隣にはカップのもずく酢が置いてある。


「何言ってるのよ、舞子。私はね、学生時代毎日イケメンとの出会いを期待していちごジャム塗ったパンを咥えながら遅刻してたのよ? そんな私が今更テンプレに沿わないセリフなんて言えるわけないじゃない」


 お母さんは当然のことのように微笑みながらそんなことを言った。うちのお母さんは究極の変わり者である。


「ちなみにお父さんとは曲がり角では出会わなかったけど、雨の日に傘を忘れた私がお父さんに傘を貸してもらったのが始まりで……」


 ベッタベタだなあ。

 私は呆れた目でうっとりしている母親のことを見た。この人は何かの主人公なのか。

 そう思いつつも私はため息を吐きながら椅子に腰掛ける。


「あら、舞子ちゃん? そんな私の話が面白かった? それとも憧れた?」

「一ミリも憧れる要素がないと思うし面白くもないしというか何度も聞いたので耳タコ」

「もー☆ そんな長い文章には句読点をつけなきゃだ、め、よ?」


 うぜー。

 うちの母うっぜー。


「いただきます」


 私はそんな母の話に耳を傾けず、手を合わせ箸を持つ。カレーの匂いが鼻腔を刺激した。どうやらこのハンバーグはカレーハンバーグらしい。カレーハンバーグともずく酢って何ですか?


「ねえ、何か悩み事でもあるの?」


 向かい側に座る母がそう尋ねてきた。顎に手を当てながら、まっすぐな瞳で。私は箸でカレーハンバーグを突くのを一瞬やめた。というか止めた。


「……………」

「んもー、三点リーダーはぐ、う、す、う」


 なんでこの人こんなに勘いいんだよ……。

 と、私は心の中でため息を吐いた。三点リーダーのくだりはともかくとして。


「で、どうしたの? 学校で何かあったの?」


 私は母のまっすぐな瞳に応え、まっすぐに母を見た。


「……実は、書道部に入ろうと思ってるんだけど」

「え、書道?」

「うん、書道」


 今打ち明けていいのか。

 そんな迷いもあったが、とりあえず話してみることにした。まあ、信濃先輩の部分は省きつつ。好きな人できたとか言えないに決まってるし。


「え、書道? 素晴らしいボーイ・ミーツガールにでも遭遇したわけ?」

「なんでお母さんはそんなテンプレ思考しかできないわけ? そのうち世間に乗り遅れるよ」

「大丈夫、異世界転生ものもハーレムものもスポ根ものもしっかり履修してるわ」


 今の流行りは知らないが、得意げに言うのでむしろ怪しく見える。本当にこの人知ってるのか。


「まあ、あながち間違いじゃないのかもね……。その、ボーイ・ミーツ・ガールも」


 私はマグカップを手に取り、麦茶を口にした。いつも通りの味だ。


「もう、・の数が違うわよ」

「いや、お母さんの方が間違ってるよ……」


 こっちは真面目な話してるってのに、お母さんはいつも通りのテンションだった。そしてボーイ・ミーツ・ガールはこっちが正しい。ウィキペディアが言ってた。というか・の位置なんてどうでも良すぎる。


「とにかく、書道部に入ろうと思ったんだけどさ」

「ちょっと待って、書道って舞子ちゃん昔から……」

「その話だよ。私、書道が苦手すぎて書道部に入れるかどうかもわからないんだよ」


 少し雰囲気が緩んだので、私は湯気の出ている味噌汁を飲んだ。いつものかつおだしの味だ。


「そういう話なの? 部活ってそういうものだったかしら……」

「それがそういうものなんだよね」

「でも入部試験を乗り越えるというのも、なかなか素晴らしいものじゃないの。ボーイミーツガール!」

「・忘れてない?」


 少なくともあれは入部試験ではないだろうが、信濃先輩が言っていたのだから。苦手な人は入って欲しくないって。


「ふーん、それで書道を得意になりたいってこと? それが悩み?」


 私は無言で頷いた。


「そういえば、舞子ちゃんは昔書道教室に通ってたわよね」

「え、何それ?」


 私はまた箸を止めた。

 母は私の声に首を傾げ、当然のように言う。


「え、小さい頃書道教室通ってたじゃない。忘れたの?」


 小さい頃……?

 初耳なんですけど。

 よし、ググるか。

 私は頭の中をひっくり返して中身を確認する。そして『書道』をキーワードにして絞り込んだ。

 でも、私の頭の中には信濃先輩以外存在していない。書道に関する記憶は、苦手とかそういう感情が以外は本当に信濃先輩だけだ。幼少期の年代が表示されているものは全くない。


「通ってた……? 全然わかんない。全く覚えてないよ。本当に行ってた? それ、私じゃなくてお母さんの話じゃないの?」

「そんなわけないじゃない。私、書道教室なんて通ったことないわよ」

「じゃあなんで……」

「でも、小一くらいの時一ヶ月くらいしか通ってなかったし、覚えてなくても仕方ないかもね。私はしっかり覚えてるんだけど」

「一ヶ月……。それだったら、覚えてないかも……」

「だけど、一ヶ月たった頃に辞めたい辞めたい騒ぎ出してねえ。なんだっけ、『先生に怒鳴られた、あの先生怖い』みたいな理由だったわ」


 私は母親の言葉にある意味納得する。まあ、幼少期なのだから、辞める理由なんてそんなものだろう。でも、身に覚えのない話だ。自分のことだとは思えない。


「書道教室かあ……」

「あ、でもあるわよ」

「何が?」

「書道セットなら、確かあるはず。またやってみたら?」


 あ、そっか。

 とりあえずやってみればいいんだ。

 得意になれるように、好きになれるように、書道をもう一回。

 

 

「で? なんで小鳥の特訓に私は付き合わされてるわけ」

「いいでしょ別に。優って結構字綺麗だったじゃん。だから教えてもらえればいいかなって。私、基本すらもなってないから」


 翌日。

 放課後、我が家の畳に私は正座していた。向かい側には優が女の子座りをしている。


「そもそも準備からできる?」


 目の前には少し古ぼけた書道セットが。少しどころか、かなり古ぼけており、埃がところどころ積もっている。


「流石に準備くらいはできるよ……バカにすんなし」


 私は下敷きを引き、硯を右側に置いた。ずっと使っていないので、硯の陸も海もどっちもパサパサ&カチカチである。あまりにも冷えているので、自分のやっていることを怪訝な目で彼らは見つめているのではないかと思い、一人じゃなかったら少し怖気付いていたかもしれない。


「愛しの信濃先輩に教えてもらえればいいのに」

「愛しって……。間違いじゃないけどさ」


 私はなんだかんだ優の言葉に恥じらっていた。冷やかしというのはいつまでも慣れないものである。全くだ。


「というか、小鳥。半紙とか墨汁とかあるわけ?」

「流石にあるよ。私、そこまでアホじゃない」


 ここまでするのだ、半紙と墨汁くらいはもうすでに買っている。そもそも、書道部に入る予定なんだから、買っても使わないということはないだろう。初期投資初期投資。そう思えば安いもんよ。つか安いし。


「まあ、間違って書き初め用の買ってきちゃったんだけども」


 買ってきた半紙は長かった。書き初めってこんな時期にやるものじゃないと思うが、まあまあまあ。今、初夏だけど。


「好きになるためにやるって……あんたも単純だよねえ。やっぱり信濃先輩に教えて貰えばいいのに」


 めんどくさそうにしながらも、優は準備を手伝ってくれた。こういうのをツンデレって言うんだっけ?


「信濃先輩に私のことで迷惑かけたくない。だから、私は今のうちにもう少し上手くなっておけばいいと思ってね」

「まあ、小鳥の文字は般若心経だもんね」

「般若心経はもうやめるよ」


 というか、やめなければ書道部には絶対入れない。マジで。

 私は下敷きに半紙を文鎮で止めた。文鎮も冷たい。クーデレなのだと信じよう。


「で、何を書くの?」

「それを優に決めてもらうんだよ」

「ええ……そゆこと? あんたそゆことで私を呼んだの? まあ嫌じゃないけど」


 硯に墨汁を入れ、筆をその中に浸す。元から黒い筆が、さらに黒に染まる。信濃先輩の髪みたいだ。前から思っていたことだが、先輩の長髪は筆先によく似ている。


「で、何書けばいいと思う?」


 私は筆を硯の陸で整え、優にそう尋ねる。


「じゃあ、『五反田優大好き』で」

「……あんたってもしかして私のこと大好きなの? そうなの?」

「バカ言うな、愛してるに変えられたいの?」


 めっちゃ鋭い目つきで睨まれた。そして、言うことがめっちゃツンデレ。


「まあ、せいぜい頑張ってね。『五反田優超愛してる』って心込めて書いてよね」


 超がくっついていた。いつのまに。


「どんなふうに書けばいいか教えてくれないの?」

「教えるわけないじゃん。そもそも何を教えるのさ。教科書ならあるよ」


 やっぱりこいつはツンデレの極みだ。ツンデレ妹とかって。その辺でよく聞く属性だ。しかも美少女。


「教科書……まあ、とにかく書いてみればいいかな」

「ちょっと待って。ほら、見本の代わり」


 優はスマホの画面をこちらに見せてきた。そこには五反田優超愛してるが達筆で書かれている。


「これ見ながら書いて」

「優、ありがと。そういえば見本のことすっかり忘れてた」


 私は優のスマホに表示される五反田優超愛してるという文字を……なんだこの文字スーパー恥ずかしいな。世の中には文字を打ち込めばそれを習字のお手本にしてくれるサイトがあるらしい。便利な世界になったものだ。

 誰だよこの文字書けって言ったやつ。これ半分くらい告白じゃない? 私が欲しいのは信濃先輩からの告白が欲しいんですけど。幼馴染からはいらないんですけど。

 とにかくそんなスーパー恥ずかしい文字を書くために、筆を真っ白な半紙の上に置く。

 漆黒がその場から広がり、白い繊維に染み込んでゆく。一目惚れした時みたいに、真っ直ぐに、じんわりと半紙を黒色に染める。あ


「えっと、トン、スー、トン」

「よく覚えてるねそれ」


 私はそんな優の言葉を横目に、五反田優超愛してるの五部分の一画目を半紙に記す。


「…………短くね? しかも太いし」

「ま、まあまだ挽回できる……はず?」


 やっべ。

 とても短い。

 すごく短い。

 五反田の五の一画目がすごく短い。ま、まあまあ。まあまあこれくらいはね?


「小鳥、早く次の書く。一画目はまあ仕方ない」


 えっと、斜め、斜め、斜め、筆先は斜め、お腹、お腹、お腹、お腹から離れる。

 ここは長め?

 うん? ここは斜めで、ひらがなは……。

 あれ、絶対これ入らないじゃん。私アホ?

 まあ仕方ない、続けよう。

 愛? 愛してる? ここは、こうして……。

 うんうん。ここはこうだ。間違いない。私の勘がそう言ってるはず。あ、かすれた。まあこれも味ってことで……。


「…………」

「………………」


 …………。


「……流石、般若心経の使い手。もはや全く読めないね」


 なんだこれ、一体誰がこんな酷い文字を。

 あ、私だ。


「うわっ……私の文字、汚すぎ?」

「汚すぎ……」


 般若心経も納得の汚さ。もはや自虐ネタしか出てこないレベルだよはははは。


「ねえ小鳥……本当にこれ私のこと超愛してるって書いたの? 私のことが好きならもっと綺麗に書けないの?」

「優のことは嫌いじゃないけど、超愛してはいない!」

「だとしてももっと綺麗に書いてよ」


 優は呆れた顔をしていた。私も自分の字に呆れた。いや、本当に私これ書いたの?

 五反田の五はなんか右に歪んでるし、五反田の反はなんかもう読めないし、田は間がなくて潰れてる。他の字も同じようなものだ。それに、墨が多いのか様々なところが滲んでいる。


「小鳥さあ……多分、力みすぎなんだよ。もう少し落ち着いて書けばいいと思う。鉛筆の時もそうだけど、小鳥は落ち着きがなさすぎる。もっかい書いてみなよ」

「うん……」


 優は案外真面目にアドバイスしてくれた。こいつこんなにいいやつだったっけ……。やはりツンデレなのか?


「もっかいやるかあ……まだ一枚目だし。可能性は潰えてないし。中学生可能性の塊だし」


 私はさっきのクソみたいな字の書かれた半紙を下敷きの左側に置き、新しい半紙を敷く。今度こそ……。

 力まない、力まない、落ち着く、落ち着く、落ち着く、落ち着く、力まない。

 そう自分に言い聞かせながら、また私は筆を執った。

 集中……。集中しろ小鳥谷舞子。

 五反田優……超……。


「おお……。やればできるじゃん小鳥」


 よし、ここまでは上手く書けたかも。このままいくぞー!

 私は筆をまた硯の中の墨に浸した。

 えっと、次の文字は愛してる……。

 愛してる?

 いや待て、これって信濃先輩への浮気なんじゃ……。


「あっ」


 私は一瞬どころか五瞬くらい固まった。

 ……。

 筆から!

 見事に!

 墨が!

 垂れた!


「あああああああああ……」


 私は悲嘆の声を上げた。


「……小鳥よ、どんまい。どんとまいんど。そんなうんk……大便我慢してるみたいな顔なんてしないでよ」

「それがうら若き純情乙女のセリフかっ!」


 そしてうんk……大便我慢してるみたいな顔しとらんわ!

 私は勢いで文鎮を投げそうになる。文鎮は私を鎮めてはくれない。


「より一層大便我慢してる顔に……トイレ行く?」

「行かない! ていうかどこでそんな言葉覚えたし! 純情乙女がそんな言葉使うなっ!」

「……兄ぺディア?」


 あー誠のせいね理解した。完全理解。あいつ殴る。


「というか今のご時世インターネットがあるんだよ、今の小鳥の顔を見たら、みんな大便我慢してるみたいな顔って形容するよ」

「そんなことないよ! それを言ってる女子中学生優くらいだよ! というかみんなってどこのみんなだよ!」


 もういっそ文鎮投げてしまおうかしら……。そんな悪しき考えを、私は頭をぶんぶん振り振り払う。落ち着きなさい小鳥谷舞子。ヒッヒーフー。


「にしても、小鳥やっぱり何かついてるんじゃないの? さっきまで五千歩くらい譲れば上手く見えるように書けてたのに、垂れちゃうし」

「ねえ本当に私の作品上手だと思ってる?」


 五千歩て。


「今までのに比べればよく読める方だよ」


 私は半紙の方を見た。

 左側のさっき書いた方と比べれば、確かに綺麗だ。左側のと比べれば。

 ただ、真ん中あたりに見事に真っ黒な染みできている。完全に文字の邪魔になっていた。

 私はもうため息を吐くことしかできない。やっぱり何かついてるよ。ギャグの神様かな。お祓い行くべきかな。


「ねえ優ー……。私の代わりに一回書いてみてよ」


 私は頼みの綱と言わんばかりに、というかもはや自分の字に絶望したので優にそう頼み込んでみた。


「ええ……自分大好きみたいで嫌だ」

「誰だよこの文字書けって言ったやつ。じゃあ小鳥谷舞子超絶愛してるでいいよ」

 これ言う方も恥ずかしいな……。すると、優は口を広げて大袈裟に、

「恥ずくね……?」

「どの口が言ってんじゃーい」


 私は強制的に優に筆を持たせた。

 そして書かせた。嫌々ながらだったが、案外抵抗せずに優は筆を執った。


「……はい、できたよ。舞子の舞が究極にめんどくさかった」

「お前の優も同じようなもんだぞ?」


『小鳥谷舞子超絶愛してる』

 そんな軽口を叩きながら渡された優の作品は、私の百倍上手かった。

 でも、信濃先輩の文字とは違う。

 確かにメリハリはあるものの、信濃先輩と比べてしまえば天と地ほどの差がある。私と優でも天と地ほどの差があるのだから、私と信濃先輩では宇宙とマントルくらいなのだろう。

 私は優の作品とさっきの作品を新聞紙の上に並べた。

『五反田優超愛してる』

『小鳥谷舞子超絶愛してる』

 ……。


「こう比べると……うん」

「……バカップルみたいだね」


 私と優は呆れた目でその作品たちを見た。

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