抱きしめても抱きしめてもきっと足りない

くもはばき

一、

 生まれて来なきゃよかった。どうせ地獄に堕ちるなら、生まれて来なきゃよかったんだ。毎日そう思う。昼休みに教室の床の上へはっ倒され、両脚を押さえつけられて、今もそう思っている。 おれの机の中から、二つ後ろの席のやつのマフラーが出てきた。


 おれには盗った覚えがない。けれどもきっと、やったんだと思う。一昨日くらいからたまに、そういうことがある。腹の奥、腰に近いあたりがぎゅうっと痛くなって、目がちかちかしてよく見えなくなってきて、頭がぼうっとすることがある。


 それがあるとおれは大体そいつのものに手をつけていて、いつもはそれがあってもばれない内にちゃんともとの場所へ戻しておくんだけど、今日はなんだか失敗した。給食の時に目がちかちかしてきて、あ、やばいな。と思った次の瞬間にはもう、気付いたらマウントを取られてた。


「お前、オメガだろ」


 おれが手を出しちゃうのは大抵、こいつ──今、おれの学生服のボタンを力任せにむしり取った、でかくて偉そうな前田とかいうこいつ──の物で、そしておれは、どうして自分にそういうことが起こるのか、なんとなく分かっている。


「なんで暴れんだよ。俺にこうされたかったんじゃないのかよ。だから盗ったんだろ? 孕ませて欲しくてやったんだろ!」


 されたかったっていうのはそうなんだとは思うけど、でもそれは絶対に、こいつになんかじゃない。だから、血走った目をしたそいつの横っ面に唾を吐く。


 前田は盛りのついた犬みたいな低い唸り声を上げて、おれは正面から顔を殴られた。噴水みたいに勢いよく鼻血が吹き出して、それまで遠巻きにおれのことを見ていた女子たちが悲鳴を上げて、その内の誰かが走って教室を出て行った。


 その間もおれは相変わらず殴られ続けていたわけだけれど、あんまりたくさん鼻血が出るのが鬱陶しくて、一度手のひらでそれを拭って、その手で相手の顔を掴んだ。


「……知らないみたいだけど」


 おれの手は、すぐに振り払われた。やつの顔にはおれの手形がべっとり付いている。


「オメガって、感染るんだぜ。血とか、体液で──」


 言い終わる前に、また殴られる。おれはなるべく痛いと思わないようにして、表情を動かさないようにして、黙って殴られ続ける。


「適当なこと言ってんじゃねえよ! オメガが感染るわけないだろ!」


 そう叫びながら、けれどもやつは自分の顔に付いているおれの鼻血をごしごし拭う。


 おれがもう一度唾を吐くと、やつはびびったのか「やめろ!」と声を上げてそれを拭い、おれの両脚を押さえていた取り巻きの連中もおどおどと手を離した。今度は逆に、おれがやつのシャツを掴んで引き寄せる。


「殖やすなら、セックスみたいな面倒な手順踏むよりそっちの方が早いだろ」


 廊下から「青木!」と大きな声で名前を呼ばれて、振り向く間も無く羽交い締めにされておれはやつから引っぺがされた。


「祝祭だ! 血を以って地に満ちよ永遠の子よ!!」


 誰に呼ばれたんだか知らないけれどやって来た先生に担ぎ上げられて、それでもおれは叫んだ。


 せいぜい怯えて震え上がればいい。大丈夫。オメガが感染るだなんて嘘八百だ。


 それに、万が一オメガになったって、別に死にゃあしない。


 生まれて来なきゃよかったって思うくらいに、毎日毎日しんどいだけで。


   *   *   *


 ほうれん草の赤いところも残さず食べてね。と父さんはよく言っていた。白菜の黒いつぶつぶは栄養なんだよ。とも言っていた。


 有機栽培の野菜はどれもあまくて、みんなでご飯を食べる部屋は広くてあったかかった。


 おれと同じ緑色の目をした父さんは、いつもその目を幸せそうに細めて、赤ちゃんで大きくなったお腹を撫でながら、理人、りひと。と優しい声でおれの名前を呼んでくれた。


 目を開けたらあの〝家〟に、あの〝家〟にいた頃のおれに戻れてるんじゃないかって、そうであれと強く思ってゆっくり瞼を上げてみる。でも、天井が少し似ているだけで全然知らない部屋にいる。たぶん、病院。


「気分はどうだ? 青木」


 その声を聞いて、そのマスクに覆われた顔を見て、おれは自分がどうしてここにいるのかをはっきり思い出した。


「……漆間先生」


 スクールカウンセラーの漆間法介先生は、どっかの大学から毎日学校に来ている人で、生徒や親の相談に乗ったりする仕事をしている。らしい。三学期が始まる前、おれが今の学校に通い始める前に、先生はおれが〝家〟から連れて来られた施設に来てそんなようなことをおれと施設の指導員さんに説明した。十日くらい前のことだ。


 若くて、背が高くて、かっこよくて優しい先生。でもおれはこの人が苦手。この人はみんなの人気者だしなんだかきらきらしてるから、そばに寄っちゃいけない感じがする。


「どこか、痛いところとかないか」


 漆間先生はただの監視の人なのに、病院の先生みたいな顔でおれにそう尋ねた。痛いところって聞かれたら、そりゃあ殴られた顔が痛いけれども。


「……気持ち悪い」


 そんな怪我の痛みより、腕に繋がった点滴から流し込まれてる薬が気持ち悪い。


「気持ち悪いって、吐きそうな感じか?」


「違う。なんか、なんですか。これ。嫌だ」


 点滴の針を抜こうとしたら、先生に「我慢しなさい」とそれを止められた。


「さっきみたいにまた、乱暴されるの嫌だろう。すぐに終わるから」


「なに。おれが悪いの? 殴られたのはおれなのに?」


「お前が悪いっていうことじゃない。でも、こうするしかないんだ。残念だけど」


 先生はおれの手を掴んだままそう言って、じっとおれの目を見ていた。おれも、ごねはしたけど先生の言ってることが分からないわけじゃなかったから、仕方なしに点滴から手を離してもう一度天井を見た。


 視界の端に薄紫色の透明な薬が入った袋がちらつく。


 得体の知れない薬。体によくない化学物質。


 ひとの〝おとうさん〟になる力や〝おかあさん〟になる力が弱くなるから化学物質は体に入れちゃだめだって、生き物を殺したり苦しめたりしないで、自分の手で愛情をかけて育てた自然にある植物ときれいな水しか絶対に体に入れちゃだめだって、おれは〝家〟ではずっとそう教わっていた。


 だけど〝家〟の外の世界には、それをしなきゃいけない決まりがあるらしい。力を弱める予防接種だかなんだかをしていないと〝おきざし〟が来たオメガはさっきのおれみたいに体調が悪くなったり、わけの分からない内に人の物を盗んでいたり人をおかしくさせたりして普通に生活できないから、みんな薬を打っているみたいだ。


 予防接種は幼稚園で三回と、小学校の四年生から六年生で三回と、中学校で三回。どんな人でも一年に一回ずつ絶対にするって決まっていて、でもおれは一回もしたことがないから、〝家〟から連れ出されたあとはその帳尻を合わせるために毎日たくさん薬を飲まされていて、今日みたいに特別調子が悪くなったりすると、点滴を打たれることもある。


 でもオメガはみんな尊師さまから祝福を受けて赤ちゃんをお腹にもらえれば〝おきざし〟はなくなって苦しかったり痛かったりすることから救われるわけだから、やっぱり化学物質なんか体に入れたりせずにきれいな水や野菜を食べてその時を待っていれば、なんにも心配なんかないんじゃないだろうか。


 そう思っていた時がおれにはあって、というか〝家〟から無理やり連れ出されたあと、そうじゃないってことを「分かりました」と言えるようになるまで一歩も外に出してもらえなかったから、それでおれはようやく、自分が地獄に堕ちたんだってことを理解した。


 でも、何が悪かったのかは、何をしたからこうなったのかは、分からない。ただ、〝おきざし〟が続いて痛い。苦しい。寂しい。あとどのくらいこんなのが続くんだろうか。分からない。怖い。しんどい。


「……生まれてこなきゃよかったんだ」


 つい、そう口に出していた。先生、嫌な顔をするかな。と思ったけど、全然気にしてないような感じでまた口を開いた。


「どうしてそう思う?」


 どうして。って言われると、うまく説明できない。痛かったり、苦しかったりするのは確かなんだけど、きっとそのせいだけじゃなくて、うまく言えない。


「たぶん、しんどいから」


「体調が?」


「ぜんぶ。全部しんどい。……〝家〟に帰りたい」


 怒られるかと思ったけど、先生は一言「そうか」とだけ言って仰向けに寝ているおれのみぞおちのあたりを、布団の上から手のひらでとんとんした。なんだかひどく居心地が悪くて、おれは先生に背中を向けて「大丈夫」と言った。


「わかってる。〝家〟は、もうない。おれは、肉や魚も残さず食べて、薬を飲む」


「うん。そうだな。……青木はえらいなあ」


「バカにしてる」


「そんなことない。青木は本当に偉いよ。よく頑張ってると思う」


 そんなことを言いながら、先生は赤ちゃんにするみたいにおれのかぶってる布団をとんとんする。


「今日は給食、カレーだったろ」


「うん。それが?」


「先生、にんじん嫌いだからさ。残しちゃったもんな」


「ださいね」


 おれがもう一度寝返りを打って先生の方を向くと、先生は少し気まずそうに頭をかきながら「だよなあ」とまた口を開いた。


「だからさ。先生は青木に、なんでも残さず食べろなんて言えないよ。それが絶対に必要なことじゃないなら、嫌だと思うことは無理にしなくてもいい」


 いたずらを隠してる猫みたいに背中を丸めて、小さな声で先生は言う。


「じゃあ、薬はいやだ。これ、外してもいいですか」


 お言葉に甘えて、もう一度聞いてみる。


「それはしなくちゃダメだ」


「なんで」


「青木や、学校のほかのみんなのことを守るためのものだから」


 先生はさっき言ったことを忘れたみたいに手のひらを返して、少し怖い顔をした。


「それじゃあ、やっぱりいらないですね」


「どうして?」


「だって、どっちもどうでもいい」


「……先生は、どうでもよくないなあ」


 そう言って先生は、点滴が繋がってない方のおれの手をぎゅっと握る。


「どうして」


 今度は、おれの方が先生に聞き返す。


「青木の元気な顔が見たいし、楽しく学校に通って欲しいから」


 先生は、道徳の教科書みたいなことを真顔で言う。笑っちゃう。


「ねえ先生。スクールカウンセラーの先生にも、先生をするための教科書ってあったりするんですか?」


「まあ……あると言えば、あるかな」


「じゃあその教科書に書いてたんですか? 元気な顔を見せてねって言いましょうって」


「ははは。それは流石に書いてないよ」


 おれは先生をバカにしたつもりで言ったのに、先生はすごく面白いことを聞いた時みたいに、ニコニコ笑っている。


「書かなくたって、学校とか、青木が今いるみたいな施設で働こうって人はみんなそう思ってるよ」


「嘘くさい」


「嘘じゃないさ。だってそれが仕事だから」


「ああ。そっか」


 それなら納得がいく。施設の指導員さんとか見てると、仕事ならきつくても面倒でも、ちゃんと役目を果たさなくちゃいけないっていうのは分かる。けど。


「それじゃあ先生、貧乏くじ引いたね」


「貧乏くじ?」


「おれみたいなのが学校にいると、何かと大変でしょ。余計な仕事がたくさん増えて」


「なんだ。そんなこと」


 先生はおれの手を握ったまま、にやっと口の端を上げて見せた。


「はっきり言って、どうってことないかな。結構ざらだよ」


「ほんとに?」


「ああ。地域によるけど、特に公立はな。私立だとほとんどオメガの子はいないみたいだけど、先生が行くのは公立の中学校だから」


 そこで先生は一度言葉を切って、ええと。と少し何か考えてからまた口を開いた。


「ちょっと前まで予防接種を受けてない子っていうのはオメガとかベータとか関係なく学校へ来ちゃいけないことになってたけど、こことかほかのいくつかの市では、そういう子もなるべく学校で勉強できるようにしていこうって変わって来てるんだ。だから先生の仕事は、そのために学校でいろんな人の相談に乗ることなんだよ」


「ふうん……」


 言われてみれば確かに〝家〟から連れ出された子はおれのほかにもいて、みんなバラバラのところに連れてかれたけど同じように予防接種を受けたことがないわけだから、別な理由で同じような子がよそにいてもおかしいことじゃないのかもしれない。


「実を言うと先生も、幼稚園の時の予防接種を受けられなかったしな。それで小学校と中学校には行けなかった」


「先生も?」


「ああ。だから先生は、青木みたいな子たちも無理のない範囲で学校に通えるようにこの仕事をしてる。やっぱり学校、通えたらよかったなって思うからさ」


 先生がそう言ったすぐあと、看護婦さんが先生を呼びに来た。先生はずっと握っていたおれの手を離すと「点滴、外すなよ」と厳しい感じの声で言って、病室を出ていく。


 先生が手を離しても、ぎゅっと握られていた手はどうしてかほかほかしてあったかいままだった。その手を握ったり開いたりすると少し汗をかいている自分の手のひらの感触で、去年の今頃に父さんがポケットに入れてくれたカイロを思い出した。


   *   *   *


 点滴が終わった頃に施設から迎えが来て、先生は「じゃあまた明日、学校でな」と言って学校へ戻っていった。


 迎えに来た指導員の河村さんは、そんな先生に何度もぺこぺこ頭を下げていた。


 河村さんは施設でおれたちの面倒を見てくれる親代わりみたいな人のひとりだけど、親って言ってもたぶん漆間先生と同じか少し年下くらいで、だから父親っていうよりは兄貴って感じだ。


 でも河村さんは別にそこまで頼り甲斐があるわけでも親しみが持てるわけでもない。河村さんはすごく神経質で几帳面で、いつもイライラして小言ばっかり言ってて、思い通りにならないとすぐヒスる。


 そんな河村さんは車に乗るなり、銀縁眼鏡の奥の目を糸こんにゃくぐらい細くして、仰々しい口調で説教を始めた。


「少しでも調子がおかしいと思ったらすぐ保健室に行きなさいって、今朝も言ったよな」


「そんなこと言ったって、おかしいと思わなかったんですもん」


「そんなはずはない」


「ほんとですって。急に目の前がちかちかして、気が付いたらマウント取られてて」


 車は赤信号に引っかかって、河村さんはブレーキを踏んでから、険しい顔で助手席にいるおれを見た。


「──すみません。気をつけます」


 こういう時は、素直に反省を見せておくに限る。


「……相手の子、前田くんって言ったか」


「確か、そうです。」


「高台の御殿の子だろ。……なんでアルファが公立にいるんだよ。難関私立でもどこでも行けるだろっていうの」


 信号が青に変わると、河村さんはイライラした感じで独り言みたいに言いながら、けれどもゆっくりアクセルを踏んだ。


 おれにはよく分かんなかったんだけど、オメガの〝おきざし〟はアルファを見つけて交尾をするために来るものなんだって聞いた。


 だからオメガに〝おきざし〟が来るとアルファにはそれが分かって、体が交尾の準備に入る。らしい。


 でも所構わずそんな風になられると都合が悪いから〝おきざし〟がほかの人にバレないように予防接種があるって、〝家〟から連れ出されたあと、最初に強く言い聞かされたのはそんな話だった。


 そういうのってきっと、人間がまだ動物だった頃の名残なんだろうなって思う。邪魔くさい名残だ。


 でもそういう名残がない人の方が世の中には多くて、ベータって言われて普通とか平凡とかみんな自虐風に話すけど、おれはそっちの方がよっぽどいいと思う。そっちの方がよっぽど人間らしくて、進んでる感じがする。


「──今は?」


 ぼーっとしてて、河村さんの話を聞いてなかった。おれがぽかんとして「え?」って聞き返したから、河村さんはますます機嫌が悪そうに繰り返した。


「体調は。今はどうなんだ」


「ああ。少し腹が痛くてだるいけど、大したことないです」


「そうか。……湯たんぽ出すから。今日は温かくしてなさい」


「大したことないって」


「発情期の間は免疫力が落ちるって、さっき病院で聞いたろ。インフルエンザにでも罹ってみろ。目も当てられない」


 相変わらずイライラしたような早口で言って、河村さんは施設の駐車場に車を停めた。車を降りてすぐ、海から吹いてくる冷たい空気をまともに吸い込んで思わず噎せる。ちゃんとジャンパーの前を閉めなさい。と河村さんは言う。河村さんは神経質でうるさい。


 年明けの少し前におれが〝家〟から連れて来られたこの施設は海っぺりにある二階建ての長屋で、三軒がひと続きの建物になっている。


 一階にお風呂や洗面所やトイレと、台所兼食堂と居間があって、二階に勉強部屋と物置がある。


 男子と女子と小学生以下の小さい子とで一軒ずつを使っていて、部屋の数や広さは全部一緒。住んでいるのはどこも大体四人から六人くらい。


 それぞれ一軒ずつに河村さんみたいな指導員さんが三人ずつ交代で誰かしらいて、おれのいる男子の施設には河村さんのほかに、おじさんの富岡さんと、おばさんの高橋さんが来ている。


「手洗ってうがいして。宿題あるなら先にやりなさい」


「はいはい」


「はいは一回」


「はーい」


 河村さんは糸こんにゃくぐらい細かった目をさらに春雨くらいまで細くしておれを睨んでいたけど、無視して洗面所へ行って手を洗ってうがいをした。


 男子の施設にはおれのほかに小学生が三人いるけど、今日はまだ時間が早くて小学生が帰って来てないから、今この施設にいるのはおれと河村さんだけだ。こういうのを「気詰まり」って言うんだと思う。


 別にほかのやつらがいたからって面白いことなんかなんにもないんだけど、河村さんの小言が分散するから、いてくれると少しラク。


「薬、必ず食べる前に飲むんだぞ」


「今日のは、あとじゃなくて前?」


「ああ。空腹時の服用って書いてあるから。忘れるなよ」


 おやつにみかんを二つと、病院でもらった薬──小さな錠剤が二つ繋がったシートだ──と、ミネラルウォーターのペットボトルをもらって勉強部屋に行く。飲まなきゃいけない薬は毎日たくさんあって、施設にいる時は必ず指導員さんに出してもらって飲まなきゃいけないから面倒くさい。


 出されてる薬はおれの体に合わせて処方されてて、他の子が間違って飲んじゃうと毒になるから。ってことらしいけど、それってやっぱり化学物質って毒なんじゃん。って思う。


 勉強部屋は相部屋で、勉強部屋っていうか寝起きをする部屋なんだけど、おれは今は二つ下の小学生と一緒に使っていて、でも三年生になって受験勉強をするようになったら一人部屋にしてくれるらしい。


 受験勉強だって。高校受験。するのか? おれ。わかんないけど、宿題を忘れて悪目立ちするのは嫌だから、一応ちゃんとやる。〝家〟にいた時はあんまり勉強なんかしなかったから、授業をちゃんと聞いていてもけっこう難しい。


 ざーっと最後までプリントの問題を解いて、いくつか分からない問題があったから河村さんに聞こうと思って下に降りたら、夕飯の支度をしているはずの河村さんはいなくて、代わりに今日の夜から明日の朝までの当番の高橋さんが台所で夕飯を作っていた。


「あれ、高橋さん。早いね」


 チェックの割烹着を来て包丁を握っていた高橋さんは、おれが声をかけるとふっくらした肩を飛び上がらせて振り向いた。


「びっくりしたあ! そっか。今日はりっくん早かったんだっけ」


「うん。まあ──」


「あらら! まあまあ、派手にやらかしてきて!」


 高橋さんは腫れの引かないおれの顔を見て、自分が殴られでもしたような顔をする。


「このくらい、なんでもないです」


「あのね、りっくん。男の子はちょっとぐらいやんちゃでないと。なーんて、あたしたちの若い時の話だから。今時はやんないんだからね」


 高橋さんは呆れたようにそう言って、おれの着ているジャージのポケットにみかんを入れた。おやつはもうもらったし、神経質で几帳面な河村さんがそれを伝えなかったはずはないと思うんだけど、たぶん高橋さんは聞いてなかったんだと思う。


「……河村さんは?」


 でもおれも小腹が空いていたから、黙って三つめのみかんももらうことにする。立ったまま皮を剥いてむしゃむしゃやっても、高橋さんは怒らない。そういうところは気楽だからいいなと思う。


「ああ、そうそう。たっちゃん、クラブの途中で具合悪くなっちゃったんだって。迎えに行かなきゃいけないからって、早出と夕飯のお支度頼まれたの」


「へえ……」


 たっちゃんっていうのはおれと同じ勉強部屋を使ってる六年生の子で、達哉っていって、おれと同じオメガだ。


 親に育児放棄されて、予防接種を受けさせてもらってない。らしい。


 要するにここは親と一緒に暮らせない子たちの中でも予防接種をしていないオメガの子だけが入るところで、そういうところって少ないみたいだから追い出されると行くとこなくなるし大人しくしてなきゃいけないとは思うんだけど、なかなかうまくいかない。


「具合悪くなったって、風邪とかなんかじゃなくて?」


「分からないけど……もしかしたら、たっちゃんも来ちゃったのかもね」


 そうなんだとしたら、河村さんは一日に二回も同じような理由で学校から呼び出されたことになる。河村さん、イライラしすぎて頭の血管がぶち切れたりしなきゃいいけど。


 でも、しょうがないのかもしれない。オメガがほかのベータやアルファに感染るっていうのは嘘八百だけど、オメガ同士でいるとひとりの〝おきざし〟がほかのオメガにも感染るっていうし。


 あれ? じゃあ、おれのせいかな。


「りっくんは? どんな感じ?」


 高橋さんは、包丁を握り直してニラを刻みながらおれにそう尋ねた。調理台と食卓テーブルの上にはニラのほかに、白菜と、しょうがと、にんにくと、ひき肉がある。今晩はたぶんぎょうざ。ちょっと嫌だ。


「うん。……今日は、ちょっと失敗したと思う」


 おれは食べ終わったみかんの皮を三角コーナーに放って、白いひげのこびりついた手を洗いながら答えた。


「そっか。難しいよねえ。環境変わって、落ち着かないもんね」


「おれのおきざし──」


「ん? なあに?」


 高橋さんはおれが言うのをかき消すようにして、わざとらしく髪を耳にかける。


「……発情期」


「うん」


 発情期っていう言い方、本当は嫌いだ。なんか、動物みたいで。


「もしかして、達哉に感染しちゃったかな」


「あはは! なあに? それ。そんなの迷信だって! 大丈夫大丈夫!」


 そんなことを話していると玄関のドアが開く乱暴な音が聞こえて、それからすぐに河村さんのヒスっぽい「達哉!」という声がした。


「びっくりしたあ……」


 そう言って高橋さんはまた肩を飛び上がらせた。ふたりの足音はそのままどすどすと階段を上がって行って、天井から微かに達哉と河村さんが怒鳴りあう声が聞こえてくる。高橋さんは少し心配そうに天井を見て、ため息交じりに口を開く。


「あーらら……ちょっと失敗しちゃった子が、もうひとりいるみたい」


 二階では二人の言い合いが続いていたけれど、部屋のドアがまた、さっきの玄関と同じように乱暴に閉じられる音がした。大人の重たい足音がひとつだけ降りてくるのが、階段から聞こえてくる。


「理人」


 河村さんはそのまま台所へ来て、落ち着いた声を出そうとしてるみたいだったけれどもそれには明らかに失敗していて、低いけどものすごくヒステリックな声で静かにおれを呼んだ。


「はい」


 単なる八つ当たりだとは思ったけど、わざわざ喧嘩を買うのも面倒臭かったから背筋を伸ばして返事をする。河村さんは、右手で食卓テーブルをばんっと強く叩く。


 テーブルを叩いた河村さんの手の下に、おれのおやつの前の薬があった。机の上に置きっ放しだったやつ。


「どうして飲んでないんだ」


「……忘れてました」


 これは本当。じゃなかったら、薬を見えるところに放って置いたりしない。


「忘れてましたじゃないだろう……どうして言った通りのことができないんだ!?」


 河村さんはところどころで声をひっくり返しながら叫んだ。高橋さんは黙ったまま夕飯の支度を続けている。すみませんでした。とおれが謝っても、河村さんは叫び続ける。


「お前ひとりだけの問題じゃないんだよ! お前がそうやって無自覚でいることで、いろんな人が危ない目にあったり迷惑したりするっていうのがどうして分からないんだ!」


「すみません。気をつけます」


「気をつけます? 気をつけますってお前、今まで何回言った? お前はいったい今まで、何に気をつけてたって言うんだ? え!?」


 そんなこと言ったって、気をつけてたって忘れる時は忘れるし、忘れちゃったらもう言われるまで思い出さないし、でも、気をつける以外にどうしろっていうんだ。


「お前はいつも口だけだよな! 人の話なんかなんにも聞いてない! 今だってそんな不貞腐れた顔して、面倒臭いとしか思ってないんだろう!」


 河村さんは顔を真っ赤にして、唾を飛ばして怒鳴り続ける。こうなるともう口を挟んでも仕方がないし、おれが悪いのも分かるし、黙ってるしかない。


「お前が何を信じてようが、どこで勝手に〝祝福〟されてこようが勝手だけどな! お前みたいなのがいるから達哉だって──」


「河村くん。もういい。あなた今日はもう帰りなさい」


 高橋さんに怒られて、河村さんのヒスがようやく止まる。河村さんは、ひどく決まりの悪そうな顔で高橋さんを見る。


「定時過ぎてるから。帰りなさい」


 静かに怒ってる高橋さんと黙ったままのおれの顔の間で目線を何度か往復させてから、河村さんは一度大きくため息をついて頭をかいて、高橋さんに「すみません。お先に失礼します」と言って頭を下げて、もう一度おれの方を見た。


「理人」


 顔と同じ、決まりの悪い声。気持ち悪い声。


「風呂から出たらすぐに髪を乾かして、温かくして寝なさい」


「……はい」


 おれが一応の返事をすると、河村さんはイライラしたままそそくさと台所を出て行った。何が言いたいのか全然分からなかったけど、とにかく、この人は絶対におれに謝ったりはしたくないんだってことだけは、よく分かった。


 河村さん、なんでこの仕事してるんだろう。思い通りにならないガキどもに、毎日毎日あんなにイライラしながら。全然意味が分からない。


「そっか。お薬飲み忘れちゃったか」


 高橋さんは少し呆れ混じりな感じで言いながら、薬のしまってある鍵付きの棚からおれの分厚いお薬手帳を出してきた。


「──ああ。なんだよかった。時間指定はないんだね」


 難しい顔で手帳を見ていた高橋さんは、顔をぱっと明るくしておれの方を見る。


「りっくん、今お腹空いてる?」


「まあ、わりと……」


「じゃあ、お薬飲もっか」


 高橋さんは幼稚園の子にでも話しかけるみたいな変に明るい声でそう言って、ニコニコしながらグラスに水を注いでおれに持たせてきた。水道水をじゃーっと入れただけなのに、グラスは冷凍庫から出してきたみたいに冷たい。


「どうしたの?」


「わかってる」


「りっくんがちゃんとお薬飲むまで、ずーっと見てるからね」


「今飲むって!」


 プラスチックとアルミ箔でできた、小さな薬のシート。 小さくて、硬くて鋭い。どうかすると爪と指の肉の間に刺さりそうで、怖くて、こんな危なくて不気味なもの地球上の一体どこからきたんだって、おれはいつもいつも考える。


 それでも飲まなきゃしょうがないから、高橋さんがずっと見てるから、五ミリくらいの小さな白い錠剤を二つ、ぱき、ぱき。と手のひらの上に出して、息を止めて口の中へ放り込んで、冷たい水と一緒に飲み込む。


 冷たい水と一緒に腹の底に落ちていく小さな白いつぶつぶ。あんなに小さいつぶつぶなのに、どうしてこんなに喉に引っかかるんだ。


「わあっ、りっくんすごい! 上手に飲めたねえ!」


 高橋さんは、大げさに手を叩いておれを煽る。


「……バカにしてる」


「そう? 大人が見てなきゃお薬飲めないなんて、お隣のちっちゃい子たちと一緒だけど」


 そう言って高橋さんはおれのお薬手帳を棚にしまうと、「ちょっとそこ座って」と食卓テーブルの椅子を見た。椅子を引いて、腰掛ける。差し向かいに高橋さんも腰掛ける。


「河村くんがなんであんなに怒ってたか、分かるよね」


「おれが思い通りにならないからでしょ」


「ほんとにそう思う? 違うよね?」


 そうとしか思えないんだけど、少なくとも、高橋さんがおれに言わせたいのはそうじゃないんだろう。


 でも、だからって、おればっかり聞き分けよくそっちの方を向いてやる義理なんかない。だって河村さんは謝らなかった。言っちゃいけないことを言ったのに謝らなかった。おれは少なくとも、薬を飲み忘れてたことは謝ったのに。


「黙ってちゃ分かんないなあ」


 だって別に、なんにも言うことなんてない。薬を飲み忘れてたおれが悪いっていうのはもう分かってるし、おれは謝ったし、薬だって飲んだし、これ以上どうしろって言うんだよって思う。


 強いて言うなら、河村さんはこの仕事が向いてないからやめた方がいいと思う。でも、高橋さんはそんなことが聞きたいんじゃないんだろうっていうのは分かるし、っていうか高橋さんに言ったって仕方がないし、なんなんだよ。マジで意味がわからない。


「──そっか。もういいわ」


 おれがずっと黙っているのに痺れを切らしてか、高橋さんはこれみよがしに大きなため息をついた。


「明日から、発情期が終わるまで学校休みなさいね」


「なんで」


「りっくんにはもうお薬任せられないから」


 高橋さんは裁判官みたいにそう言って、テーブルの上で手を組んで身を乗り出す。


「河村くんも言ってたよね。あなた一人だけの問題じゃないの。下の子たちはどうしたって年上のりっくんのことを見てるんだから、りっくんがいい加減なことしてると、下の子たちも『それでいいんだ』って思っちゃうでしょ? それに、あなたがこれ以上今日みたいに何か学校で問題を起こしたら、四月から中学生になるたっちゃんとか、ほかの子たちが学校に入学させてもらえなくなるかもしれない」


 つまりおれは人柱ってことらしい。きちんと薬を飲まなきゃいけないのはおれが元気でいるためとか、殴られたり襲われたりしないためじゃなくて、小学生に示しがつかないからとか人に迷惑かけるからってことらしい。


「理人はもうそういうことが分かるはずだからって、自分が最大限フォローするから任せてやれないかって河村くん頑張ってたけど、やっぱりまだ早かったみたい」


 勝ち誇ったみたいに高橋さんは言う。


 高橋さんはきっとそれを聞いたおれがごめんなさいって泣いて喚いて、薬ちゃんと飲みます学校行かせてくださいお願いしますって頭下げておでこをテーブルにでも引っ付ければ喜ぶんだろう。それがきっと、大人の思う「反省の態度」ってやつなんだろう。


 最悪だ。くそみたいだ。なんなんだよ。その後出し。


 おれだって、最初に「お前を信用して薬を預けるから、絶対に忘れるなよ」って言われたら、きっと忘れなかったよ。なんでそういうことするかな。はっきり言って、卑怯だ。


「何か言いたいことがあるなら、はっきり言いなさい」


 おれは今、きっと、ぶん殴りたくなるくらい生意気な顔をしているんだろうと思う。高橋さんの声でそれが分かる。


 高橋さんはおれをぶん殴って謝らせたいのを、ぐっと堪えて静かに静かに話そうとしてる。


 別に言いたいことなんかなんにもない。でも、なんでかよく分かんないけど、膝の上に置いた手の中がカイロを握ってるみたいに温かい感じがして、そういえば病院で、漆間先生とは「また明日、学校で」って言ってバイバイしたのを思い出した。


「明日、学校──」


「だめ。外出禁止」


 高橋さんはおれが喋ってるのを遮って、これ見よがしに台所に置いてある電話の子機を手に取る。


「──学校の、カウンセラーの先生にも休むってちゃんと伝えてください。病院連れてってくれたの漆間先生だから、心配かけたら悪いんで」


 受話器を耳に当てている高橋さんにもちゃんと聞こえるように、大きな声でそれだけ言って部屋に戻った。部屋はもう薄暗くて、達哉はその薄暗い部屋のすみっこで布団に包まってマンガを読んでいた。


「電気点けろよ。暗いじゃん」


「まぶしい!」


「よくこんな暗いとこで読めるよな」


「別に、読んでないし」


「じゃあなんなの」


「なんだろ。なんとなく? することないから」


 ふーん。としか言いようがないような全然意味のないやりとりをして、結局解答が埋まらなかったプリントを鞄に仕舞う。


 自分の机に向かって、出しっ放しだったシャーペンと消しゴムも仕舞って、そうすると確かに全然することがない。


 この施設には暇つぶしになるような物なんてなんにもなくて、共用の本棚に少しだけ古い小説の文庫本とか伝記マンガとかがあるけど、マンガは全部読んじゃったし、小説はたぶん、読んでも意味とか分かんない。


「りっくんも、あれ?」


 達哉は開いてた伝記マンガを閉じると、ごろんと寝返りを打ってうつ伏せでおれの方を見た。


「なんで?」


「なんか変な匂いする」


 そう言われてちょっと嫌な気分になったけど、気になって服の中をくんくんやってみる。別に、たぶん無臭。でも自分の匂いって分からないのかも。


「自分もなると、なんていうの? フェロモン? なんか、アルファとかオメガとかの匂い、分かるようになるんだって」


「ふうん」


「予防接種終わったら、また分かんなくなるみたいだけどね」


 病院で聞いて来たらしいおきざしのことを、達哉は少し早口で喋り続ける。


「りっくんはなんか酸っぱい匂いすんね。みかんみたいなさ」


「なんだそれ。フェロモン関係ないよ。さっき食べたんだよ。みかん」


「そうなの?」


「そうだよ。っていうか、お前の匂いとか別に分かんないし」


「それはさあ、きっと、オレがまだちょっとしかフェロモン出してないからだよ。だって河村さんとかやばかったもん。なんか、胃薬みたいな匂いして。鼻曲りそうだったよ」


 おれには、その匂いとやらが全然分からない。


 もしかしたら達哉は特別鼻が利く方なのかも知れないけど、どっちかっていうと単なるあてこすりみたいな気もする。オメガはアルファの匂いが分かるっていうのは〝家〟でも同じようなことが言われてたけど、オメガ同士でも分かるっていうのは聞いたことない。


「河村さんも今、そうなんじゃない? だからあんなピリピリしてんだよ」


 達哉は人を小馬鹿にするみたいにして鼻で笑って、また漫画を開いた。さっきからずっと同じページばっかり行ったり来たりして見てる。


 気持ちは分かる。おきざしがある間って、何してたってずっと少し変な気分で落ち着かないから。


 おれも今日は点滴をしてさっき薬も飲んだけど、やっぱり今も少し腹が痛くて頭がぼーっとしてる。


 おきざし、前の時よりは全然軽くていいんだけど、それでもやっぱりしんどいものはしんどい。早く終わればいいな。


 病院で先生がぎゅっとしてた手のひらだけがなんだか温かくて、その手で腹をさすると、温かいからちょっと楽。だからお礼、言った方がいいんだろうなって思う。


 仕事でもなんでも、おれの元気な顔が見たいって言ってくれる人、漆間先生だけだった。

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2025年1月12日 21:00
2025年1月19日 21:00
2025年1月26日 21:00

抱きしめても抱きしめてもきっと足りない くもはばき @kumo_baki

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