第8話 終わりの日

 顎の痛みで目が覚めると、思った通り自宅の寝室だった。身体は気だるさを残し、昨日の疲れが癒えぬまま戻ってきたのはまちがいないと思えた。

「まだ……続くの?」

 殴られた顎をさすると、鈍い痛みが血流に合わせて音頭をとる。これでわかった。私は歳を取りながら過去へ戻り続けるのだ。

「ああ、神様」

 これ以上、なにを求めるのですか? もう、いいじゃないか。私は頑張ったほうだ。変わらぬ過去を、変わらぬままになし終えた。それだけでは不満だというのか?

「それとも……」

 もしかしたら、あの親子を助けるのではなく、事故をなかったことにしろというのか。ならば、せめて説明くらいして欲しかった。答えを教えて欲しかった。

 この日の私は、過去へ戻っていく7日間を振り返っては答えのない問答に時間を費やした。

 始まりは逮捕された日だった。あそこから意味のわからない出来事が続いている。次の日はニュースを見て現実を疑った。次は熱海に行ったし、その次は親子に会って、そして昨日は事故の当日だ。この6日の中で、なにか見落としでもしたのだろうか?

 あるとすれば、やはり事故を起こした男に関係のあることだろう。それならば、私はこれから男を調べなければならない気がした。過去の過ちを繰り返さず、過去へと戻るというちぐはぐな現実から脱出するためには、あの男が鍵を握っている気がしたのだ。

「でも、どうやって見ず知らずの人間を探せばいいんだろう」

 昨日の男は私と会っているみたいな口振りだったから、今日の私は男を見つけているのだろう。でも、その方法がさっぱりわからなかった。

「とにかく足で探すしかない、か……」

 考えても仕方がないと思った私は闇雲に横浜を歩き回った。とくに関内駅周辺を重点的に歩いた。なぜなら、襲われた親子が住んでいるとすればその辺りだろうと考えたからだ。そして、男が親子を狙うなら、やはりその周辺にいる可能性が高い。 

 賢いと始めは思った。これならすぐにでも男を見つけることができると、甘い考えに自分で称賛の拍手を送ったものだ。日も落ち、空が朱色に変わると手のひらを返してその考えを蹴飛ばしてやった。

「疲れた……」

 象の鼻パークにあるカフェで腰をおろすと、昨日から歩き続けた両足がやんややんやと歓声をあげた。

 今日は火曜日だ。もしも男が仕事をしているなら、私の行動は徒労に終わることになるかもしれない。

「無理、もう無理」

 時間は午後5時過ぎ、人気ひとけの少なくなったカフェに私以外のお客さんは1人しかいない。店員がひそひそと話すのが聞こえると、どうもお客さんのことを話しているみたいだった。

「ねえ、あの人だよね」

「うん、多分ね」

「でも、今日はなにも言ってこないね」

「やっぱフラれたんだよ」

「やだー、クスクス」

 きっと私のことじゃない。そうに決まってる。嫌がる両足をなんとか動かし、注文をしようと店員さんに近づくと好奇の目がギラギラと私に向けられているのが見てとれた。

「カフェオレのスモールを一つ」

「はい、カフェオレのスモールですね」

 ガチャガチャと準備をする店員さんたちは、チラチラと私を見ながら注文の品を作り始めた。その視線がこそばゆくて、私は聞かなくてもいいのに理由を訪ねてしまった。

「あのー、私なにか……」

 キラリと店員の瞳が光った気がした。そして、待ってましたとばかりに満面の笑みを私に向けて話し始める。

「ええ、お客様を待ってました。昨日はあんなにしつこくお願いしてきたのに、今日はやけに静かだったのが気になりまして」

 心臓が回転数をあげていくのを感じながら店員さんの話を聞くと、私はなんて頭がいいんだろうと目から鱗が落ちた。

「デートの待ち合わせにここを選んで頂いたうえに、サプライズまで考えているなんて素敵ですよね。ちゃんと用意してありますよ。それで、そのお相手はいつ頃ここにくる予定ですか?」

 すぐにピンときた。デートの相手とはつまり事故を起こした男のことだろう。そして、こうなったのは明日からの私が男を見つけ出せたからだ。そして、過去の私が未来の私へパスを送った結果がいまここで試される。

「そうそう! もうすぐ来ると思うんだけど、ちょっと遅れてるみたいで」

「わかりました。わたしたちもドキドキしてます。逆プロポーズが成功するよう、全力で取り組みますから、安心してください」

 未来の私はとんでもない嘘をついたものだ。だが、そのおかげで男と会うことができるなら安いものだったのだろう。

「来たら合図するから、よろしくね」

「はい。頑張ってくださいね!」

 ニコニコの店員さんは世紀のイベントを見逃すまいとギンギンに目を光らせていた。すまないけれど、これからあなたたちが見るのはロマンチックの欠片もない大捕物だ。昨日の事故を防ぐために、私は男の足を折ってでもここで捕まえてみせるつもりだ。

「ふふふ、私もなかなかやるじゃない」

 6日も過去へ戻って、ようやくそれらしい成果をあげた私を褒めてあげた。まだ、成功してもいないのにだ。

 そう、このときの私は有頂天になっていて気づかなかったのだ。勘のいい読者はもうわかっているはず。この企みは失敗に終わる。なぜなら、昨日の私がそれを目の当たりにしているのだから。

「遅いな」

 30分待っても男は現れなかった。店員さんたちも閉店を間近にしてそわそわしているというのに、なかなか男が現れる兆しがない。

 これはおかしい。昨日男はたしかに言っていた。「昨日も一昨日も」そう言っていた。だから、今日は絶対に会えるはずなのだ。それがここでないと言うなら、一体どこで会えると言うのか。

「あの……」

 痺れを切らした店員さんが声をかける頃、外は遥か先の工場の明かりが美しく瞬く夜へと変わっていた。時計はもう午後6時を過ぎている。

「ごめんなさい、仕事が押してるみたい。また、次の機会でもいい?」

 我ながら二枚舌ペラのよく回るものだ。嘘つきの才能が開花しているのかもしれない。

「いえいえ、良いんですよ。まだチャンスがありますから」

「ありがとうございます。こんな時間までごめんなさい」

 ガッカリした顔だったのだろう。店員さんが何度も励ましてくれた。別にそれはいい。問題は男と会えないなんてことになった場合だ。それはつまり、過去が変わっているということなのだから。

 過去が変わると未来はどうなってしまうのか、このときの私にはわからなかった。

 こんなはずでは、という気持ちのなかで、真っ暗闇の象の鼻パークを歩いていると、なんだか心細くなってくる。

 私のやっていることは、ものすごく大変なことなのでは? そう思うと足取りも重く感じた。もしかしたら、大変なミスをおかしたかもしれない。それが未来でどういう結果になるのか、すぐにわかることになる。

 自宅に帰り、布団に潜ると疲れのせいかすぐに寝てしまった。目覚めるとまた1日過去へと向かうだけ。なら、今日のことを深く悩んでも仕方がない。それが私の大変なミスだった。

 寒さで目覚めるとそこは鉄格子の内側だった。薄い布団の中、見知らぬ天井が地獄の釜の蓋に思えた。

「え?」

 起き上がるとやはり留置場のなかだった。絶対に戻りたくない場所ナンバーワンの座を現在も更新し続けている、あの留置場だ。

「え? え? え?」

「起きたら布団を畳んで食事の用意を」

 青服の女性警官が私に声をかけてきて、ますます私は混乱した。

「あ、あの!」

「なんですか?」

「今日は……何月何日ですか?」

 思わず聞いていた。なにせ、ここには時間を報せるものも、日付を伝えるものもなにもないからだ。

「今日は11月26日の火曜日ですよ」

「!?」

 私は戻ってきたのだ。あの悪夢のような警察署に。それも逮捕された次の日に。

 

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