第6話 運命の日 ~その1~
20日の朝、私は大きな失敗に気がついて飛び起きた。
「事故っていつ起きるの!?」
昨日の私に言ってやりたい。映画なんか見ていないで、轢き逃げ事故の情報を集めろって。
「ヤバいヤバいヤバい」
顔も洗わず、歯も磨かず、化粧もせず、着替えだけすませて私は家を飛び出していた。山下公園に着いて、スマホの時計を見たときは自分の馬鹿さ加減に頭を抱えたものだ。朝の七時半に親子が遊んでいるわけがない。
「はあ、焦りすぎよ」
まだ朝の潮風が身に染みる11月の山下公園は、健康のために散歩をしている人たちが数人いるくらいだった。
朝日が水面に反射して、私の寝起きの眼球に突き刺さるのはこたえた。これから出勤なのだろうスーツ姿の人々も同じ気持ちだろうか、なんて思ったりもしていた。
「はあ、どうしよう」
一度帰ることも考えたが、事故がいつ起きるかわからないという不安が私の足に根を張らせた。
とにかく寒かった。例年よりも暖かいとはいえ、朝の温度は昼とは比べ物にならないくらいに冷える。
「はあー。うー、寒い」
スマホの時計は8時を回っていて、日差しも徐々に高くなっていった。それと比例するように、私のお腹も唸り声をあげ始める。
「お腹空いたなぁ」
ここからが長く苦しい戦いの始まりだったが、あまりにも不毛なので割愛する。代わりといってはなんだが、少し山下公園のことを紹介しておこう。
山下公園は横浜市中区にある海沿いの公園で、とにかく横に長いのが特徴である。噴水を中心に、横浜マリンタワー側に庭園やおまつり広場、そして大さん橋側に海を眺めることができる芝生の広場と散歩道がある。
私はあまり利用したことはないが、休日は多くの人が集う横浜の憩いの場だ。と思う。
山下公園で子供と遊ぶならやっぱり広場だろう。だから、私は山下公園の広場を行ったり来たりしていた。文字通り、行ったり来たりしていたのだ。
「なんで両側に広場があるの」
山下公園は芝生の広場とおまつり広場というものがあるのだが、それが噴水を隔てて向かい合うように離れていたのだ。だから、私は広く長い公園を何度も往復するハメになった。
朝から昼までこんなことをしていたのは、おそらく私だけだろう。それも、自分の愚かさのせいなのだから仕方がない。
休み休みやっていたとはいえ、やはり体力には限界がある。私はついに歩くのをやめて芝生に座り込んでしまった。足が棒になっていて感覚がないくらいだったし、座ったら立ち上がりたくなくなるほどにエネルギーが不足している。
「もー。なんだってこんなことになるの」
体育座りで呻く私を見たら声をかけなくていい。頼むから声だけはかけてくれるな。あなたが塩顔のイケメンで、身長170センチ以上の細マッチョだったら困るからだ。
「お腹空いたー」
泣きそうになるのを我慢してスマホを確認すると午後の1時を半分通りすぎていた。午前中、何組か親子を見かけたときはハラハラしたが、2日前の親子がいないとわかると安堵していた。
「いつになったら車が来るのよー」
山下公園をよく知る読者ならもうわかっているかもしれないが、わからない読者もいると思うので先に言っておこう。公園内に車は来ない。なぜなら、公園には車の入り口がないからだ。
「やっぱり平日だから少ないのかなぁ」
関係ない。公園の中に車は入ってこられないのだから。ちなみに駐車場はあるから、お車でお越しの方はご安心を。
「あー、もう、いつまで待てばいいの!」
いつまで経っても来ることはない。それがわからないほどに、このときの私は要領が悪かったのだ。
そして、疲れが徐々に私の気を緩ませ、スマホをポチポチと弄るだけの置物へと変えていった頃、やっと私はその事実を知ることになる。
「ねえ、ママ。車見たい」
「車はここには来ないのよ。あるのは船だけ。ほら見て、すっごい大きい船だよ」
芝生広場で手を繋ぐ親子が私の前を通りすぎたのだが、私はスマホに夢中でよく聞いていなかった。
「やだぁ、車のほうがいい!」
「そしたら、公園から出ないといけないよ? いいの? 公園で遊びたかったんでしょう?」
「いい! 公園もういい!」
「せっかく来たのに。じゃあ、公園の横から車見よっか」
「なんで? なんで車はここに来ない?」
「それはね、車が入れるおっきな入り口がないからだよ」
「ええ!?」
私の大声で親子を驚かせてしまったことをここで謝りたい。このときの私は、そういう大切なことを放ったらかして、一目散に走っていたからだ。
「ヤバいヤバいヤバい」
山下公園の良いところは、どこからでも公園沿いの車道へと行けることだ。垣根を越えればそこはもう歩道であり、その横は山下公園通りである。
ものの1分で歩道へ飛び出すと、長く横に走る歩道を目を細めて見回してみた。神様の思し召しか、それとも運命なのか。こんなにタイミングが良く、そして決断する時間の少ない切迫した状況というものがあるとは思わなかった。
歩道の先、山下公園の中央入り口付近で、2日前に会ったあの親子が歩いていたのだ。入り口には他にも親子が何組かいて、どうやら信号待ちをしながら世間話に花を咲かせているみたいだった。
「嘘でしょ!」
信じられなかった。これから事故が起こるというまさにその数秒前に間に合ったのだ。しかし、時間はあまりない。もし、このまま車が突っ込んでくるというなら、私がいる場所はあまりにも遠すぎる。
「ヤバい!」
身体が勝手に動いていた、なんて使い古された言葉だろうか? 私にはそれ以外の言葉が思いつかないから、語彙力がないのだろう。
とにかく、私が全力で走っていたのは事実だ。もっと早くに気づいていれば、こんなことにはならなかったといまでも後悔している。
数秒後、公園中央口前のT字路へブレーキもかけずに車が突っ込んでいた。私の目の前で、人がボウリングのピンみたいに弾け飛んでいった。
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