第4話 親子に会った日

「最悪……」

 途方に暮れるなんて言葉はいままで使ったことがなかったが、まるでこの日のためにできたみたいにしっくりくると思った。

「どうしたらいいの」

 私は神に祈る想いで神に会いに行った。いつもの教会は日曜の礼拝以外では行ったことがなく、開放しているか不安だったが金曜日も開いていると知ると天啓を受けたような気持ちになった。

「神様、これは私への試練ですか? それとも、ただのイタズラですか?」

 神業というならそれに意味があるのだろうが、これが罰ならいささか誤解が過ぎる。なにせ私は神の教えをしっかりと守ってきた。

 別に悪いことをしていない、とは言わない。ちょっと陰口に付き合ったこともあったし、嫌いな男子の上履きを隠したこともある。でも、そんな小さな罪でこんな報いを受けるなんて受け入れがたいにもほどがある。

 ひとしきり祈り、どうか明日が23日の土曜日でありますようにと願った。それでも不安は拭えず、私はふらりと横浜をさ迷っていた。

 教会から歩くこと数十分。歩き疲れた私は誘われるように赤レンガ倉庫にあるカフェへ向かっていた。頭が働かなくとも、身体は無意識に動くのだろう。砂糖たっぷりのカフェオレが胃に入ると、なんだか元気が沸いてきたような気がする。

「あ、あのー……」

 風の強い日で、マフラーが必要だったなと後悔するくらいには回復すると、なぜか私に見ず知らずの女性が声をかけてきて驚いた。そして、しまったとも思った。

 そう、ここ赤レンガ倉庫は轢き逃げのあった山下公園の目と鼻の先なのだ。別に象の鼻パークにかけたわけではないと先に言っておこう。

 とにかく、私は指名手配に近い立場にあるということをすっかり忘れていた。なのに、事件現場のすぐそこまで、のこのことやってくるなんて馬鹿だった。そうだ、忘れていた。私は馬鹿になっていたんだった。

「すみません、ちょっとお聞きしたいんですが。先日、山下公園で……」

「いいえ、山下公園には行ってませんので。それでは」

 急いで帰らなければ。残ったカフェオレに未練を残しつつ、私は立ち上がりカフェを出た。なのに、女性が私を追ってくるではないか。しかも子連れだ。

 いよいよ正体がバレたと思い、私は走ってその場を去った。なにもしてないのに、こんなことで捕まってたまるか。それがいけなかった。

 赤レンガ倉庫の中は狭いのだ。行ったことのない人はぜひ行って体感して欲しい。外観とは裏腹に、中身は飲食店やショップでぎゅうぎゅう詰めだから、通路が狭いったらない。三十路も半ばを越えた私の身体では、人をすり抜けて逃げるのは難しかった。だから、早々に足がもつれて転んでしまった。

「あいたっ!」

 派手に転んだから人目を引いた気がしてならなかったが、そんなことよりも「あいたっ!」なんておばさん臭いし、恥ずかしいと思った。

「だ、大丈夫ですか?」

 もちろん声をかけてきたのは、あの女性だ。しっかり子供も連れている。若いっていいな。

「大丈夫、大丈夫ですからお構い無く」

 そそくさと立ち上がるも、足が痛くて歩けなかった。仕方ないから、なるべく顔を見られないようそっぽを向いた。なのに、女性は私のことを知っているようで、突然頭を下げたしたのだ。

「あの、先日はどうもありがとうございました。おかげで、息子もこの通り元気にやってます」

「え? いや、人違いだと思いますよ」

 また身に覚えのない話に、私の嫌な予感センサーが警鐘をガンガン鳴らし始めた。これも3日前の警察のせいだろう。

「え? いえ、確かにあなたでした。あなたは山下公園で私たちを走ってくる車から救ってくれたんですから。その恩人の顔を忘れるはずありません」

 この人が何を言っているのか、すぐにわかった。2日後の私が彼女たちを救ったのだ。いや、2日前の私が、というべきだろうか。

 よく見ると子供の足に大きな絆創膏が貼ってある。まだ傷が癒えていないのか、ボリボリと絆創膏を掻いているところを見るに、かさぶたが痒いのだろう。

「やっぱり人違いですよ。それでは」

 これ以上は私の心臓が持たないと思い、痛む足を引きずってなんとか赤レンガ倉庫から脱出しようとした。しかし、彼女に腕を掴まれそれも失敗に終わる。

「お礼だけでも言わせてください。本当にありがとうございました」

 腕を掴みながら、深々と頭を下げる母親とそれを嫌々受ける私。端から見れば注目の的なのは間違いない。

「いえいえ、お顔をあげてください。人違いですから」

 今度は心が痛んだ気がした。真摯な礼に向き合いたいが、いまはそれどころではないのだ。私は強引に腕を振り払い、やっとのことで赤レンガ倉庫をあとにした。

 家に帰るまでは戦々恐々だった。誰かがまた声をかけてくるかもしれない。警察に見つかれば、そのまま逮捕されるかもしれない。そんな不安にかられた帰路はいつもより遠く、果てしなく長い道のりに感じた。

「もう嫌っ!」

 ようやく帰れたときは、いつもの3倍は疲れていた気がした。こんなことでは、おちおち買い物にも行けない。

「いや、買い物はしなくていいか。明日には冷蔵庫に食材が戻ってるんだし」

 心なしか独り言も増えた気がした。まあ、いつものことかもしれないが。

 しかし、今日の出来事は決定的だ。轢き逃げの起きた日に私は現場にいたのだ。それも、人の命を助けるために。

「ああ、神様。これが私の役目ですか?」

 もしもそうだと言うのなら、お願いですからもうやめてください。私には荷が勝ちすぎます。

 それでも神様はやめてくれなかった。

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