1-8-B 「Welcome back to HeLL」

明け方、閉店間際の時間帯にバーに滑り込むと、そいつはカウンターで顔を突っ伏して寝ていた。


荒い呼吸を整える。尚もパンクしそうなくらい膨らみドクドクと動く脳味噌。


まだ腹の中で虫が蠢いているような感覚にオレは死にそうになる。


虫が残っているのか、それともただの残穢か。

オレにはもう判断能力はなく、頑張って見極めようという気さえ起きなかった。


「ん……あ」


入店時の扉の音で起きたのか、もじゃもじゃの赤毛がオレの方を振り向いて、一瞬の隙を挟んで笑う。


「来ると思ってたよ、いつかはね」


アイツが悪魔なのか、こいつが悪魔なのか。オレにはもうわからなかった。

或いはきっと、どちらもそうなのだろう。


「よく生きてたね。次再会するとしたら死体か墓だと思ってたけど」

「うるせェよ」

「チノは?」

「……疲れて寝た。その後は知らねェ」


何が面白いのか、メイは失笑気味に「だろうね」と呟いた。


口では綺麗事を言い、自分の感情を無理矢理抑えつけて無かったことにして。そうやって自分を大事にしないで、自分とちゃんと向き合わないで、現実見ても辛いからって理想ばっか妄想したって、希望を持ったって。結局何もかも無駄だった。

喉元過ぎて、熱さ忘れて。一人だけバカを見るんだ。


「それで?ご用件は?」

「もう……疲れた」


おどけた調子でメイが聞く。オレは完全に魂が抜けたように答える。


時間が経てば。カウンセリングをすれば。そうやって今までのらりくらりと責任から逃れ他の何かに責任を擦り付け何もやってこなかった結果がこれだ。


「どうすれば……いいんだ?」


数日家に帰っていない。アイツと顔を合わせるのが怖かった。

先生にも全く連絡していない。スマホの電源は切ってある。

とにかく、何も発信したくなかったし何も受信したくなかった。何も考えたくなかった。


「そんなこと言って、ここに来た時点でもう決まってるようなもんじゃない?あんなに意気揚々と、もう絶縁だ!みたいな感じで出ていったのに帰ってきたんだからさ。おれに最後のもう一押し、して欲しくて来たんでしょ?」


まるでオレの全てを把握しているかのようにメイはオレを誘惑する。


「人は無意識に動かされて生きてる。ヴァーニも無意識のうちに責任を分散させようとおれのところに来たんだ。一人で責任を負いたくないから。メイに言われて殺したんだって、自分の中だけでもそう思っていたいから状況証拠を集めに来た」


もう難しいことはわからない。元々緻密に考えることは苦手だ。

とにかくオレは……オレは何でここに来たんだ?何を求めて?ここに来たって、何も変わらないのに。


「ヴァーニは初めてチノを殺したいって思った瞬間のこと覚えてる?」


初めてアイツを殺したいと思った瞬間?


「今のヴァーニ、2年前と同じ顔してる。全部恨んで、燃やし尽くしそうな顔。その顔に免じて、ヴァーニの期待通り背中を押してあげる」


ニヤニヤと、これ以上ないくらい満足そうに笑うメイが身を乗り出した。その顔は2年前オレのトラウマの話を聞いていた時よりずっと笑顔で。


「チノとの関係が拗れたきっかけは?ねぇ、忘れてない?人間はあまりに辛い記憶に蓋をしちゃいがちだけど、忘れちゃいけないよね?ヴァーニが初めてチノを殺したいほど憎んだのはいつ?どんなことがあった?それとも今が一番辛いの?今が初めて?」


脳味噌が記憶を辿るのを拒んでいる。頭が痛い。心臓が波打っている。呼吸が荒くなる。

アイツを殺したい?ああそうだ、あんなヤツに生きている価値なんてあるものか。それでもまだ、あと一押しが足りない。


今が初めてじゃない。今が一番辛いわけでもない。掘り返せばいくらでも辛い記憶はある。


アイツがちゃっかり彼女を連れてきた時だってそうだ。オレのセフレは殺されかけたのにアイツは女と幸せになって。その時だって気が狂いそうだった。ようやく手に入れられるであろう自由な生活を手放してでも、何の恨みもない彼方を、アイツの彼女をアイツの目の前で殺してしまいたかった。


人間は、自分を傷つけられるよりずっと、大切な人を傷つけられる方がダメージが大きいんだ。


「ぁ」


経験則だ。


「ぁあぁぁあ……」


ずっと思い出さないようにしていた。オレは養護施設育ちだ。アイツらと同じ孤児だ。アイツらと同じ、家族のいない環境で育って、血の繋がらない3人で家族になった。兄弟になろうと言った。アイツも、ジュディも、オレも。家族なんて、親なんていない。そう思いたかった。


思い出せばきっと、壊れてしまうから。思い出せばきっと、あの日の選択をまた後悔するから。思い出せばきっと、きっと。


あの日生きるためにアイツに迎合した自分の責任を認めざるを得ないから。


だからずっと、考えないように記憶に蓋をしていた。

忘れようとできることは何でもした。アイツとの日々に耐えているうちに何もかもがどうでもよくなっていた。


「ぁああぁ……あぁあああぁああぁ……ああぁあぁあぁああぁぁああぁあああああああぁぁぁあぁあ!!」


アイツに出会わなければ。あの日アイツと一緒に死んでいれば。

アイツを殺したいと初めて思った日。アイツとの関係が歪んでいった初めての日。


記憶に蓋をしていた全てが濁流のように流れ出す。

協会、施設、アイツ、ゴキブリ、生殖、家族、動画、血、血、血、血、血、血、死。大量の血。


オレには確かに、かつて愛した人がいた。

オレには確かに、かつて愛された記憶があった。


アイツにはない、アイツが知ることはない家族の記憶。

アイツに殺されて、記憶の底に閉じ込められた、家族の記憶だ。





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