1-8-A 「Welcome back to HeLL」
「えっ……あ……は?」
おかしい。ヤツがオレの手を掴んでオレを転ばせたにしては、立ち上がるのが早すぎる。
「あ……ぁああぁ……ぁああぁああぁああ」
確かに感触があった。確かにオレの足首を掴む手首の感触があった。あったのだ。
じゃあ何だ?今のはオレの妄想か何かか?
何かが決壊する心地がしてオレは身体を
視界が震える手を映し出してオレは確信する。
怖いんだ。あまりに怖すぎて変になっている。怖いから幻覚を見て、一人ですっ転んだんだ。
かひゅーっ、かひゅーっと変な呼吸をしながらオレは薬を無理矢理口に放り込もうとすると、手の力が足りなかったのか薬が床に落ちた。
「あっ……あぁああああ」
「兄さん……?」
背中に人の温もりを感じて硬直する。
バッグハグのような形になってオレは思わず身を固くした。
「今日はたくさん働いてきて疲れたんでしょ。一緒にお風呂入ろう?」
ヤツがオレの顔を覗き込んできて視線と視線がバッチリと合う。身体が鉛のように重い。まるで自分のものではないかのような感覚に死を感じる。
まるで血管に合金を混ぜられたような、他人の死体を持ち上げるような、奇妙な感覚。
筋肉が完全に硬直したような感覚を溶かしたのは、ヤツの冷たい手だった。
頬、首、胸元、脇腹、腰、尻、足の付け根、太もも。ヤツの手が全身を撫でる感覚は虫が全身に這っているかのように気持ち悪い。
「兄さん、落ち着いて。大丈夫、大丈夫だからね」
ヤツが重くなったオレの腕を自分の肩に回してオレの腰を抱いて抱え上げる。
「はっ……はっ……待っ……まッ……」
「兄さん。やっぱりね、私……不安になったの。どうしてもね?兄さんが近くにいてくれないと不安で」
自分の荒れた呼吸音の合間に微かに聞こえる妖艶な声。
「また、また私の大事な人が死んでしまうかもしれないって考えたら、怖くて、怖くて……」
そのまま半ば引き摺られるようにベッドに連れていかれる。
「やめ……やめてくれ……頼む」
「大丈夫、兄さんの存在をちょっと確かめるだけ。ちょっとだけ、ちょっとだけだから」
人というのは、本物の恐怖に遭遇した時身体が硬直する。経験則だ。
ヤツに好きなように弄ばれる前はいくらでも身体が動いた。強面の容貌に難癖を付けられてアングラな輩複数人に絡まれた時も対抗できた。
死ぬ、そう思った瞬間に身体が硬直してしまうことなんて、想像もしなかった。
普通瞬発的に馬鹿力を出すものだろなんて思おうとしても、身体が死んだように動かない。刻みつけられた恐怖がオレを雁字搦めにしているんだ。
「ぁあ゙ッ……!いぁ゙ッ……!グェッ……!」
視界の片方が熱に蹂躙される。侵入者によって瞼の裏に泡立った唾液が閉じ込められる。
「い゙だッ……!あ゙ぅ゙ッ!ん゙ぎぃ゙ッ……!」
眼球を蹂躙される中で更に腹の中心に鋭い痛みを感じる。
ベッドに寝かせられたオレの上に覆い被さっているヤツの身体で上手く見えないが、腹のところに確かにヤツの手がある。
ガリッと皮膚が剥がれる音がしてすぐ、腹の中心にプスリと何かが刺さる感覚がした。
「ぐぁああ゙ぁ゙ぁ゙あ゙あ゙ッ……!!!」
ヘソだ。ヘソの穴を刺されている。
いつの間に取り出したのかヤツは片手にカッターを持ちオレのヘソに突き立てていた。
グリグリグリグリとカッターの刃を回され、それに合わせてヘソの穴が拡張される。
「い゙ッ……!じぬ゙ッ゙……!ぁああぁああぁ゙あ゙あ゙あ゙ッ゙!!!!!じぬ゙ッ゙!じぬ゙ッ゙!!ぎィッ……!ひぐッ……!!」
普段は皮膚の中にしまわれている肉まで掻き回される感覚に全身の臓器がひっくり返る心地がした。
「兄さん……!生きてる、生きてるね……♡」
糸を引きながら眼球から唇を離し舌
忘れていた。平和ボケしていた。全身が総毛立つような痛みを。全身の臓器がひっくり返るような気持ち悪さを。全身の液体が沸騰するような激情を。
「ゔぉ゙え゙ッ……!ォ゙ゲェ゙ェ゙エ゙!!げぇ゙ッ゙……!げぉ……ッ゙!」
帰路につく前に飲んだ水を全部吐き出してもまだ止まらない強烈な気持ち悪さ。
自分の喉から出ているのかと疑うような汚い音が響き、何度も何度も唾液と胃液を吐き出す。
刃が抜かれ、代わりに入ってきたのは指だ。刃よりも鋭くはないがその分長さと体積は圧倒的に指の方が優れていて、奥をグチュグチュと掻き回される。
「このまま穴を拡張して腕を入れたら、兄さんの内臓に触れるかな……?
「えぐっ゙……!ぅぷッ……ォ゙エ゙ッ……!!ぎッ……!!やべッ……!やめ……ッ!!ぁああ゙ぁ゙ああぁあぁぁあああ゙あ゙ッ゙……!!」
脚をバタつかせても全く効果がない。完全に覆い被さられていて、オレの脚はシーツを乱すだけだった。
「ふふっ、兄さん。兄さん大好き、大好きだよ」
口の端の唾液と胃液が混ざって泡立った液体を、舐るようにヤツが貪る。そのままオレの口の中を掃除するように丁寧に舌を這わせる。
「はぁ……はぁ……ふふっ、兄さんっていつもオーバーリアクションで可愛いね」
何がオーバーリアクションだ。眼球を瞼の裏まで舐られたりヘソに本物の穴を開けられて中を掻き回されたりしたことなんて誰もないだろう。
本物の穴と化したヘソの穴からヤツは指を抜いた。とぷっと音がした後、じゅるじゅるとヤツが血塗れの指を舐める。
ヤツは頬を赤らめて、まるで大好きなスイーツを味わう純粋な少女のように嗤う。
「兄さん、もっと確かめさせて」
「やめ……て……くれ……」
これ以上は本当に死んでしまう。死ぬ。死ぬ。死
「あっ……ァああぁあぁあああ」
一体どこから持ち出してきたのか。ヤツは薄い箱を開けて中をオレに見せてくる。
「やだっ……やめ……っ、それやだっ……!!」
まるで蠱毒の箱のように大量の虫や幼虫が蠢き、今にも開いた箱から落ちてきそうだった。
「兄さんの養分を吸って生きられるかな?兄さんが生きてる限りは生きられるよね」
思わず手を伸ばしてヤツを阻もうとすると、ヤツは容赦なくオレの指を3本掴んで勢いよく反対側に折り曲げた。
「ぁああぁぁああぁあぁあああぁああぁああぁあぁあぁああぁぁああぁあぁあ!!!!!!!!!!」
「抵抗しないでよ、兄さんをたくさん傷つけることになっちゃう。それにどうせ最後は何されても抵抗できなくなっちゃうんだから」
3本の指が手の甲とくっつき、痛みに手を引いてその手をもう片方で包み込む。その隙にヤツは幼虫をオレのヘソの中に捩じ込む。
それを止めようとして手を伸ばしかけるが、腕が震えて上手く動かない。怖い。怖い。怖いんだ。
これ以上痛めつけられるのが怖くて何も抵抗できない。
抵抗するには勇気と根気がいる。だがそのどちらももうオレには残っていなかった。
抵抗したってしなくたって結局アイツのやりたいように弄ばれ貪られる。抵抗するだけ無駄なんだ。
「あぁ……ああぁ……ああぁああぁあぁあ……虫っ……虫ぃッ……!!!!」
ぐずぐずと腹の中で這いずり回る虫が増えていく。
「ほら見て!美味しそうに兄さんの生き血を吸ってもぞもぞしてる……可愛いね♡」
ヘソの中に放り込まれた複数の虫が上に下にともぞもぞ身体の中を這う。
腕の皮膚の下に這われるよりずっと取りづらいんじゃないか?後でちゃんと虫を捕まえることができるだろうか?もしそのまま腹の中に残ってしまったら?腹の中で卵が産み付けられたら?
「ぁああぁ……出して……っ、出してくれェッ……!」
「もう、兄さんったら仕方ないなぁ」
「ゔぅ゙ゔぅ゙ううぁあああぁ゙あ゙あ゙ッ!!お゙ェ゙ッ、え゙ェ゙ッ……!」
ヤツがヘソに開いた穴に唇を当てて中身を吸い上げた。血が吸われる。虫が中で逃げ惑う。頭が冷える。血が足りない。
何で、ここまでの痛みを。何で、ここまでの苦しみを。何で、ここまでの屈辱を。
「んふふっ♡」
今まで忘れていられた?
「ん……はっ……食べて」
ヤツは吸い上げた幼虫を口で咥えたままオレの口にそれを押し付ける。侵入した舌が虫の腹とオレの舌の裏側を舐りながら口の中でそれを転がす。
上手く息ができない。涙と鼻水でグチャグチャで、口を塞がれた状態では呼吸困難になるのは自明の理だった。
「たーべて」
オレの口の端に唇をくっつけながらヤツが言う。口を塞がれた状態では呼吸困難になることを知っていながら、オレに選択を迫っているのだ。
こんな仕打ちができるなんて人間じゃない。
口の中に腐った土の臭いが広がる。とても食べられるような味をしていない。
口馴染みのないシャリシャリとした食感と共にポロポロと喉の奥に細かいフンが落ちていく。
「うッ……ぐっ……ひぐっ……ん゙ぅうぅうゔゔぅ゙ゔゔゔっ!……ゔぇ゙ッ……げぇ゙……ッ」
これ以上は無理だ。とんでもなく気持ち悪い感覚が口の中に広がり絶望感を助長する。こんなに不味い昆虫食ってあるのか?気持ち悪すぎて何度も吐きそうになるのをヤツの口が物理的に塞ぐ。ヤツもオレの口の中から虫の欠片を舌で拾い上げ噛み砕いて唾液と共に落とす。
何度もえずきながら少しずつ噛み砕き飲み込む。
「まずいね……こんな味を共有できるなんて兄さんと一つになった気がする」
何でこんなことをしなきゃいけない?何でこんなことをされなきゃいけない?何で、何で、何で。
頭の中が疑問と憎悪でいっぱいになって、時間感覚がおかしくなって、ひたすら色々な体液で顔をぐちゃぐちゃにする頃には。
オレの心の中で完全に憎悪が形を成していた。
一度完成しかけて、しかしそのまま放っておかれて劣化し土に還ったはずの憎悪が、再び形を成していたーーーーーーーー
***
「がっ……い゛……ぎぃっ……!……いぎぃっ!?……はっ……かっ……」
『人によって、愛の形は色々なんだよ』
何が、何で、何のために、何によって。
『こういう愛の形もあるってことさ』
古びた小さなテレビから流れるドラマの主人公のセリフに、今の状況は妙に合っている。
目の前のヤツはそんな風に思っているんだろうなと、ぼーっと思う。思考を放棄した頭が、それでもパンクしそうなくらい膨らんでいるのは何でだろう。
バギッ!!と骨の折れるような、嫌な音が鳴る。もう悲鳴さえ上げ疲れ、枯れた喉からは息を漏らすしかできない。
疲れ果ててもう動かなくなったオレに、ヤツが疲れた顔で悲しそうに話しかける。
「……おかえり、兄さん」
必死に悲鳴を堪え涙を流す。
「チッ……一生帰ってこなくて良かったのによォ……ただいま、事故でテメェも死んどきゃ良かったのに……」
カーテンの隙間から陽の光が漏れる。
明るい景色が暗くなって、そして。
長い夜が、明けたようだ。
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