1-1-B 「Libido」

アイツが帰ってきた。名前を言うのもおぞましいアイツ。魔法が使えるわけでも特別強い訳でもない、腕っぷしで言ったらオレの方がきっと有利なヤツだ。それでもこの恐ろしい感覚に身を震わせないわけにはいかなかった。


「なぁ、アイツから何か聞いてないか?テメェも一応アイツの兄貴だろ」


『いや、オレはレンと違ってヴァリーとはもう随分疎遠だからお互い連絡取り合ってないんだよ。でもいきなりだな。レン、ヴァリーの話はあんましたがらないのに』


一縷の望みを信じて電話したは良いものの、収穫は無しだった。アイツがオレ以外に興味が無いのは知っていたが、せめて兄弟と連絡を取りあったっていいだろうに。


「アイツ……帰ってきやがった」

『帰ってきた?里帰り出産?』

「バカ、ンなわけねーだろ」

『ごめんごめん、冗談だって』


そんなことがあったとしたらMKLの仕業だよな、と笑うジュディの言葉の意味がオレは掴めずそのまま話を本題に戻した。


「何でもいいんだけど、何か風の噂で聞いたこととかねェか?アイツ結婚するってった時から5、6年ほぼ連絡無かったくせに突然帰ってきやがってこっちに住むとか言うからよォ……」


『あーないなぁ。でもいいじゃん、レンも収入厳しくてアパートに引っ越すことになりそうって言ってたよな?ヴァリーがいれば収入心配無いぜ』


それ以外の全部が心配なんだよ……と返しそうになるのをグッとこらえる。ダメだ、ジュディには事情は話せないんだ。


「そろそろ兄離れしてほしいんだけどな」


『仕方ないよ。ヴァリーは物心ついた時からヒヨコみたいにレンのケツばっか追いかけてたもんな。あ、ごめん看護師に呼ばれてるからそろそろ行くわ』


「あぁ、仕事中に突然電話して悪かったな」

『いや、レンの声聞けて元気出た。26連勤目、まだまだ頑張れるわ』


図らずとも医者という職業の闇を知ったところで通話が終わる。医者なんて職業に就いたら引っ張りだこなのは当たり前だ。アイツと言わずとも、連絡する暇も無いのだから誰とでも疎遠になるだろう。


ジュディ。ジュディオール・ベリンジャー。レンが唯一誇りを持って自分の弟だと自慢できる最高の男だった。幼い頃は小さいポヤポヤだったのに、いつの間にかレンの身長を追い越してレンより遥か高く大空を飛んでいる。


その姿を見る度に、思い出す度に、レンは自分の境遇を恥じて頭を抱えるのだ。


「あぁクソッダメだダメだ。弟羨んでナンになるってんだ。オレが育てた自慢の弟がみんなの役に立ってんだ。ヒーローになってんだ。誇らしいだろうがよ」


今はそれよりアイツのことだ。そうレンは思い直す。

アイツと一緒に暮らすだ?やっと解放されたと思ったのにまたあの地獄に逆戻りなんて金輪際ゴメンだ。


「うっし、大丈夫。オレは強い。オレはヒーローだ。今日こそ、ガツンと言ってやる」


オレは荒波のように騒がしくパニックを起こしている心を鎮めるために、棚の奥で見つけた最後の薬を飲んだ。

鏡を見ると、荒んだブロンド色の髪と碧眼が映る。相変わらず犯罪者然とした職質御用達の人相だが悪くない。もう、さっきみたいな怯えた表情の子犬はいない。


「兄さん」


思わず肩が震える。心臓がキュッと縮んで全身の血管が収縮する。どんなに暗示をかけようとしても、本能が恐怖を訴えているのには逆らえなかった。

オレが振り向くとアイツは艶かしく笑った。だらしなく伸びた黒髪に、濡れた碧い瞳。身体に巻かれたタオルがピンク色に滲んでいる。


「風呂上がりは脱衣所で髪しっかり拭けよ、水滴が落ちるだろ」

「兄さんごめん。でも早く兄さんに入って欲しくて。私は気にしないけど、兄さんは気にするだろうから」


夜一緒に寝るのが楽しみで仕方ないとでも言うように笑う。そんなアイツの立ち居振る舞いが昔から大嫌いだった。


男を誘うようなエロい仕草をことごとくオレにだけ向けて全て実践してくる。並の男ならころっといってしまいそうなその艶かしさが、アイツの正体を知るオレには気持ち悪く映った。


「話がある」


今日言ってしまわなければいけない。今日言ってしまわなければ、きっともう後戻りはできない。まだアイツが帰ってきたばかりだから反抗する勇気も出るけど、場の空気に流されてしまえばもう二度と逆らえない。


アイツはそういう遅効性の毒だ。目の前の毒蜘蛛はジワジワ俺の中を侵食して、蜘蛛の巣から逃れる気力をなくさせる。


「今すぐ帰れ」


必死に喉の奥から声を絞り出した。するとヤツは不思議そうな顔で首を傾げる。その仕草は幼女のように可愛らしく、その端正な顔立ちとはアンバランスで気持ち悪い。


「兄さん?」

「何があったのかは知らねェよ。聞く気もねェ。もし何かあったンなら、良い相談相手を紹介する。スゲェスペシャリストだ。オレに聞いて欲しいってンなら聞くし、だから……」


ヤツがオレに向かって歩き始めると、嫌でも声が出なくなる。


「だから、何?」


一歩一歩が大きく、ほんの数歩で互いの呼吸音が聞こえる距離まで詰められた。


「帰って、くれ」

「何故?」


張り詰めた空気に手汗をかく。コイツに一瞬で呑まれた空気の居心地が悪い。


「オレが……心の準備してェからだ」


ほんの少しの沈黙さえも今のオレには痛かった。早く終わってくれ、早く安心して寝かせてくれ、頼む。頼む。頼むから、どうかそのまま何も言わず帰ってくれ。

そんなことは絶対に起こりえないことなどわかっていながら、それでもオレは望まずにはいられない。末路なんてわかってる。コイツの機嫌を取り損ねたら終わりだ。


それこそ夜が明けるまで、コイツの機嫌が治るまで拷問される。


「……心の準備」


おもむろに復唱したかと思えば、次の瞬間両手で両頬を掴まれて唇を奪われた。その勢いで背中が壁にぶつかり、オレは壁とヤツの間に挟まる。口の中に無理矢理侵入してきた熱が口蓋をなぞる。


「んッ……!!」


押し退けようと相手の肩を掴んで力を込めるも、同じ物量の力で相殺される。そうだ、コイツは頭のネジが外れた異常者だからこういう時だけ異常に力が強いんだ。


頭の中が恐怖で支配されると同時に次々と昔の記憶が蘇り胃の底がひっくり返った心地がした。嘔吐中枢が警告を響かせて、オレはなんとかヤツを押し退けその場にうずくまる。


「ふっ……ぉ゙えっ……!」


吐き気が体の中枢を巡るが、オレはなんとかそれを抑え込んで呼吸を取り戻した。一度吐き癖がつくと少しの刺激ですぐ嘔吐する。今回はギリギリ無事だったが、この状況が続けばそうはいかない。


「兄さん」


目の前の毒蜘蛛はしゃがんでオレと目線を合わせながら俺の肩に両手をかける。

また顔が近付いた。再び唇が触れる感覚に思い出す。


そうだ。無駄な抵抗を諦めて心を無にして従えば、苦しい思いをしなくて済む。ずっとそうだった。抵抗すればするだけそれ相応の罰があった。拒否反応を示せば示すほど拒否反応を示さなくなるまで良いように使われた。


大人しく手を差し出し、腕を差し出し、唇を差し出し、身体を差し出し、寝転がっていれば。

後は勝手にヤツは一人で楽しそうにオレを道具のように扱って、満足したら寝るのだ。


なるべく低燃費で、苦痛を考えないようにしていきたい。早くも意思を砕かれたが、もうそうするしか方法が無い。恐怖で雁字搦めにされていては、何もできない。

ヌチョチュパと汚い唾液音を立てて数分、貪るようにオレの唇を食んでいた口が離れた。


「兄さん、ベッド」


恍惚とした表情を浮かべた毒蜘蛛は吐息多めの舐るような声で言った。


「一緒に行こう」


愛する男を貪るような女の顔をしても、伸びた髪や中性的な顔立ちが必然的にマッチしてそれっぽく見えてしまうのだから不思議だ。


ひかれた手に合わせて立ち上がると嫌でも思い知らされる。指はコイツの方が長いし、目線だって。いつもオレは少しだけコイツを見上げるのが嫌だった。名前を思い出すのもおぞましい。脳裏に焼き付いて離れないトラウマがオレを縮み上がらせる。


「兄さん、愛してる」

「くたばれ、クソ野郎」


ベッドに連れていかれるまま、反抗できるのはもう口でだけだった。


「今日こそ兄さんと私の赤ちゃんができちゃうね♡」


オレら三兄弟の末っ子。オレが自慢できない方の、頭のおかしい弟。オレがこの長い長い人生の中で唯一、殺したいと思ったことのあるトラウマとの再会は最悪だった。

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