1-1-A 「Libido」

「ただいま」


もう随分と聞いていない声がしてオレは硬直する。


「……は?テメェ何しに来たの?」


また幻覚か?目を擦ってみても目の前の光景は変わらなかった。

そこには確かに伸び放題の黒髪に碧い瞳をした悪魔がいた。


「何しに来たのって、ここは私の家だ」


当たり前のようにキッチンに荷物を置いたヤツはオレの手元にあったコンビニ弁当に視線を向ける。


「兄さん、その弁当は何?」

「何って……ただのカレーだよ。ンだよ、てめぇに文句言われる筋合いはねぇよ……」


一体何連続目のコンビニ弁当なのか、と問いただしてきそうな顔をされ、オレは次の発言に身構える。


「そんなことだろうと思った。一応材料を買っておいたんだ。兄さん好きだったでしょ?ハヤシライス。今作るから待って」


そう言うとヤツは大きな荷物の中からビニール袋を取り出し、カウンターに材料を並べ始めた。


「んや、いいよ……別に、疲れてんだろ。」

「ふふっ、遠慮しないで。手作りの方が身体に良いんだよ?」


数年ぶりに見たヤツの雰囲気は何も変わっていない。艶美に笑いかける様も、纏う雰囲気も、褒めてとでも言うような仕草も何もかもがチグハグだった。


「これからは私が毎日兄さんのご飯作るから、安心していっぱい食べてね」


コイツの飯を食うくらいなら惣菜屋の不味い飯を食う方がまだマシだった。思わず苦い顔をしてオレは言う。


「数年ぶりに帰ってきやがったと思ったら、何の説明も無しにそれかよ……」

「だって兄さんの身体が心配なんだもん」

「ンだよ、夫婦喧嘩でもしたのか?だからいきなり帰ってきたんだろ」

「……その話、今はしたくない」


オレが咎めるとヤツはオレから顔を逸らして包丁を取り出す。ヤツに刃物を持たれるとどうしても身体が強ばる。いつでも逃げる準備をできるようにオレはヤツの一挙手一投足に注目する。恐怖に心臓が波打つ。


「良かったでしょ?兄さんは私がいないと何もできない。でも今日からはまた、私が兄さんの世話をできる」

「パートナーと子ども置いてきてどうすんだよ、オレよりそっちを優先し」


ダン!! まな板に包丁をぶつける音が響く。思わずビクンと肩が跳ねた。呼吸が荒くなる。発作だ。

薬を飲まなければまた症状が酷くなる。最近はもうずっと取りに行ってなかったからまた取りに行かなければ。


「兄さん、私のことが嫌い?」


据わった目で見つめられて思わず一歩後退あとずさる。そんなオレの反応を見てか、ヤツは顔だけこちらに向けていたのを向き直りオレを正面に畳み掛けてきた。


「私は兄さんが好き、大好き。……愛してる」


妖艶な声を響かせてヤツは包丁を自身の顎に突き付けた。リップ音が静かな部屋にこだまする。


「……わかってるよ」


早くこの場を切り抜けたい。逸る気持ちと緊張にバクバクと波打つ心臓が痛いくらいに感じられて。

まるで穴という穴から心臓が出てきそうな心地だった。


「兄さん、私のことが嫌い?」


艶やかな声の投げかけと共に、ヤツは歯の切っ先を右手で握り少しずつスライドさせ左手を切る。


「おいっ」


手首に流れ床に滴る血。あァクソ、血は拭き取るのが大変なのに。

ヤツが帰ってくると結局こうなるんだ。嫌気が差す。


「兄さん、また一緒に暮らすんだ。料理なら得意だし、洗濯も私に任せて。掃除は兄さんに任せるけど、私が稼いで兄さんに良い暮らしをさせるから」


言いながら包丁を右腕に突きつけたヤツはそのまま包丁を引き抜いた。一瞬のタイムラグの後にポッと小さな破裂音がしたかと思うと、切った腕から大量の血が溢れた。2回、3回とそれを繰り返しヤツは自傷行為を続けながらオレを見る。


「今夜は一緒に寝ようよ」


大量の血に塗れた右腕がオレの頬を撫でる。がっちりと視線をホールドされて、身体を動かすどころか目線を逸らすこともできない。

耳元の髪に触れられる。ヤツは愛おしそうにオレの耳を撫でた。


「約束」


ヤツは気持ちの悪い笑みを浮かべ、それから慣れた手付きでバッグから包帯を取り出し腕の処置を始めた。

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