第二話 「多様性」の時代
先輩とは二年前まで同じ部署で、僕の直属の上司だった。部署異動で彼女とはそれっきりになっていて、こうして噂で耳にして久しぶりに思い出したくらいだ。すっかり疎遠になってしまったから、報告がないのもまぁ無理はないだろう。
「妹島さん、結婚したらしいっすね」
その報せを僕に伝えてくれたのは、ひとつ後輩の
「あれ、もしかしてまだ聞いてないっすか」
と彼は申し訳無さそうに言った。
「いいんだよ、別に」
「結構噂になってるから、速水さんもてっきり知っているものかと」
残念ながら、僕の耳には全く届いていなかった。が、そんなことはどうでもいい。
「おめでたい話だねー、それは」
資料の作成中なので、当たり障りのないことを言って会話を終わらせようとする。しかし、話はそこで終わらず、彼は身を乗り出してきた。それから声を潜めて、
「ここからが衝撃的なんですよ」
と言う。
「そのお相手がなんと、女性なんですって」
ほう、と思わず声が出た。驚かなかったといえば嘘になるが、衝撃というほどではない。ああそうか、あの人もそうだったのかというのが最初の感想だった。でも、そうでない古城くんのような人からしたらとんでもなくセンセーショナルなニュースなのだろう。彼は興奮気味に話を続ける。
「妹島さんが珍しく指輪をしていたらしくって。同じ部署の人が彼女に聞いてみたら、婚約したんだって」
それは結婚じゃなくてパートナーシップのことじゃないのか、とは言わない。変に詳しいと勘ぐられるかもしれないから。へぇ、と適当に相槌を打つと、
「ちょっと
と彼が不服そうな顔をするので、そんなことないよ、と慌てて弁明する。彼はどんな反応を期待していたのだろうか、というのが気になったが、深入りしたくはない。
「先輩が幸せなら僕は嬉しいよ」
と当たり障りのないことを言っておいた。彼はその返答に満足していないみたいだったが、それ以上僕が何も言わないでいると、
「まぁ、今は『多様性』の時代ですもんねぇ」
と苦笑いを浮かべて言った。
その言い草が気に障った。仕方なく時代に合わせているだけで自分は認めてない、暗にそう言っているようなものじゃないか。言い訳できるようにコーティングしているだけで、ただの嫌味でしかない。そもそも「多様性」の時代って何だよという話だ。最近何かにつけて話題になっているだけでずっと昔からいるんだよ
……とかなんとか、言いたいことは色々あったが、喉の奥までせり上がってきた言葉を飲み込む。説教を垂れたところで人間はそう簡単に変わらないから。溜息が出そうになる。せめてもの慰めとすれば、身近にもそういう考えの人間がいるということを知れて気が引き締まったことか。それだけでよしと思うことにしよう。
下手に話してボロを出さないためにも話を切り上げたほうがいいだろう。
「それはそうと、今日までの報告書を早く出してくれよ」
と話を変えようとする。しかし、古城くんはまだ話を続けたいようだった。
「速水さんは、いい相手いないんですか?」
にやけた顔で彼は聞いてくる。今度は僕がターゲットか。
「合コンとか、自分セッティングしましょうか」
間に合ってると言いたいところだけど、それを探られるのも嫌だった。もういっそカミングアウトしてやろうかと思った。彼はどんな反応をするのか。言わないだけで思ったよりも身近にいるんだよね、それもすっごく近くに、ということを教えてあげたい気もしたが、それはそれで性格が悪いのでやめにした。
「考えておくよ」
彼の申し出はやんわり断った。デスクに戻って、手元のカップに口をつける。ぬるくなったコーヒーの嫌な酸味が舌を刺した。
*
明かりを消して横になっても、結婚という二文字が頭から離れなかった。
子どもの頃はいつかはするものだろうと漠然と思っていた。自分ができないなんて疑いもしなかった。現状、同性同士での婚姻は認められていない。だから、同性愛者の僕が好きな人と結婚することはできない。これから先、それが覆る可能性はゼロではない。でも、まだ時間がかかるだろう。来るかどうか不確かな「いつか」に、僕は期待して待つことしかできない。「結婚だけが正解じゃない」、そういう考え方もある。でも、その考え自体も一つの解でしかなくて、世の中には無数の解がある。僕は、僕らを受け入れてくれる人だけでいいから、誰かから祝福されたい。誰かにこの関係を認められたい。それを僕の解にしちゃ駄目だろうか。自分勝手すぎるだろうか。身勝手な願いだということは重々承知で、それでも僕は、「いつか」に期待していたかった。
橙智と付き合い始めて5年が経つ。普通のカップルだったら、そろそろ結婚を考えるんだろうか。指輪を渡すプロポーズは少し憧れる。でも、結婚できない僕らにはその先がない。何をしたって結局ままごとにしかならないのだ。それが、僕に突きつけられた残酷な現実だった。
隣から彼の寝息が聞こえてくる。寝返りを打つと、彼は思ったよりも近くで眠っていた。こうして改めて見ると、幼い顔だなぁと思う。何にも考えていなさそうで、幸せそうな寝顔だ。思わず、頭を撫でてやりたくなる。
パートナーシップのことは、実は少し前から考えていた。幸い僕らの住んでいる市でも導入されている。だから今日の夕飯のとき、それとなく妹島先輩の話を出そうとした。そこからあわよくば制度の話に持っていって……と考えていたのだが、できなかった。そもそも先輩のことすら言い損ねた。僕はビビったのだ、橙智に拒絶されることを。
以前、リビングでくつろいでいたとき、ちょうどテレビで同性婚の話が出てきた。確か同性婚訴訟にまつわるあれこれを特集した番組だったと思う。少し興味があって見ようとしたのだが、橙智がチャンネルを変えてしまった。
「好きじゃないんだよね、こういうの」
心臓がひゅっとするような、冷たい声で彼がそう言ったのだ。いつもは当たり障りない返答でのらりくらりと交わすくせに、あのときだけはやけにはっきりと拒絶した。それがなんだか異様で、橙智のことを初めて怖いと思った。同性愛者の中にも色んな考え方の人がいるのは至極当然なことだ。難しいことを考えたくない、とか、政治的な話は好きじゃない、とか。彼が具体的に何が好きじゃないのかは分からなかったけれど、そういう話題自体がタブーなんじゃないかという気がした。とりあえず触れないほうがいいかも、と後回しにして、ここまできてしまった。同じ屋根の下で暮らしながら未だに彼の心に触れられていないことが、悔しいし寂しい。でも、ここで焦って下手に出て取り返しのつかないことになるのは避けたい。結局現状維持。思考は堂々巡りだ。兎に角、明日もまた、いつも通りの朝が来てくれたら、それでいい。それだけでいいから。目を瞑って、長い夜が明けるのを待つ。
【続】
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