第三話 カミングアウト

 眠たい目を擦りながら向かった資料室で妹島先輩に遭遇した。肩までの黒髪にシャープな顔立ち、服は紺のセットアップ、あの頃と何も変わっていない。


「よっ、久しぶり」

いつも聞いていたフランクな口調に懐かしさを覚えたのだが、どう返していたか忘れてしまって

「あ……お久しぶりです」

とそっけない返事をした。


「こんなところで会うなんて珍しいよね」

「そもそも会うこと自体、少なくなりましたよね」

「確かに。今日は資料集めなの?」

「えぇ、プレゼン自体はまだ先なんですけど」

「へぇ、頑張ってるんだ」

「まぁ、そこそこは」

「そこそこってなんだよ」

妹島先輩はそう言って笑う。


彼女は前と同じようにフランクに接してくれるのに、僕はといえばどういうわけか余所余所しい返答になってしまう。気恥ずかしくて目線を彷徨わせていると、彼女の左手に光る指輪が目にとまった。


「……結婚、されたんですね」

「うん、まぁ正確には結婚じゃないんだけどね」

彼女は苦笑いしてそう言う。結婚じゃなかったとしてもめでたいことには変わりない。僕は彼女たちを祝福したい。

「本当に、おめでとうございます」

と改まって言うと、彼女は慌てて

「なんか言わせちゃったみたいになってない?別に気を遣わなくてもいいからね。式とかもする予定ないし」

と捲し立てるように言った。

「いや、先輩なんかに気を遣ってるわけないじゃないですか。本当に思ってますよ。僕だって嬉しいです。幸せになってください」

僕も畳み込むように祝福の言葉をかける。ようやく昔の感覚が戻ってきた気がした。

「ありがとう、そういう風に言ってもらえるなんて嬉しい」

彼女は照れ笑いを浮かべる――、が続けて言う。


「でも、先輩なんかに、ってのはちょっと聞き捨てならないんですけどー」

あぁ確かこんな調子で妹島先輩と絡んでたっけ。懐かしいあの頃に、一気に戻ったみたいだった。


 それから少し雑談をしたのだが、流石にあまり長いこと道草食ってるのも駄目だから、と彼女は帰ろうとした。またね、と彼女は軽く手を振って、ドアに手をかける。またね――その「また」が次はいつになるのか分からなかった。この機会を逃してしまえば僕は二度ときっかけを掴めないかもしれない、そんな切迫した危機感を覚えた。折角、先輩と会えたのだ。彼女からもっと話を聞いてみたい、純粋にそう思った。どうして先輩がその形を選んだのか、知りたかった。


「あの、先輩」


すんでのところで、先輩を引き止めることができた。先輩は振り返った。資料室には幸い誰もいない。こういうとき、どうやって誘っていたっけ。途端に頭の中が真っ白になった。

「速水くん?」

先輩が不思議そうな顔で僕を見ている。えっと、僕は、僕は――。



「先輩のことをもっと知りたいです」


言い終えてから、まずいと思った。随分誤解を招く言い方ではないか。思った通り、先輩の顔は曇っている。こういう肝心な時に頓珍漢なことを言ってしまうのが僕という人間だ。テンパるとろくなことにならない。誤解を解こうと必死で、思わずでかい声で口にする。



「――ゲイなんです、僕!」




 *

「あれが初カミングアウトだったんだ」

「超不本意ですけどね」


彼女はまた思い出し笑いをしている。


「もう、いい加減やめてくださいよ」

と僕は呆れ気味に言う。

「ごめんごめん、茶化すつもりはなかったんだけどさ、あのタイミングで言う?ってのがすごく面白くって」

彼女は目頭を押さえながら、また声を押し殺して笑った。


 昼休憩、妹島先輩と会社の傍にあるカフェレストランで昼食をとった。ここなら同じ会社の人は少ないと思うし、気兼ねなくゆっくり話せるよ、と彼女が教えてくれたのだ。スーツ姿の男女はちらほらいたが、会社の食堂よりはマシだろうと思った。


 彼女は健康定食をぺろりと平らげて、食後のコーヒーにケーキまでつけていた。

「テンパったときおかしなこと言っちゃうの、変わってないんだ」

チーズケーキをちまちまと食べる彼女の顔はニヤケっぱなしだ。もうどうとでも言ってくれ。


「そろそろ本題に入ります?」

熱いコーヒーで乾いた舌を潤してから聞く。

「先輩はどうして、パートナーシップを結んだんですか」

彼女は腕組みをして、うーんと少し考えてから言った。


「私達の関係に区切りをつけるためかも」

「区切り、ですか」

「そう、ここからがネクストステージ、みたいな感じ。結婚だって同じだと思うんだよね。付き合って三年経ったから、良い区切りかなと思って。私達にとって、一生添い遂げるか決めるのに、三年は充分な時間だったから。そこは人それぞれだと思うけど」


彼女は一拍間を取ってから、続けた。


「私達だって、色々考えたんだよ。ほら、養子縁組して家族になるっていうやり方聞いたことない?」

「知ってます。養子縁組すると法的に親族だって言えるんですよね。同じ苗字を名乗れるとか相続とかもできるって」

「そうそう。でも、あれだと歳上が母で歳下が娘ってなっちゃうじゃない?戸籍の上とはいえ、対等じゃなくなっちゃうっていうのが、なんだか私にはしっくり来なくって。それならパートナーシップだよねって話になったの」

「なるほど」

「まぁどっちを選ぶかも人それぞれだし、選ばないっていう選択肢もあるから、君らもじっくり話し合って決めなよ」

彼女は微笑む。


それから、彼女は「あーあ」と大袈裟に言って、ソファの背もたれに思いっきり身体を託した。

「おかしな話じゃない?私達がたかだかこんなことで悩まなきゃいけないって」


さっきとは打って変わって、彼女は自嘲じみた冷ややかな笑みをしていた。


「別に、特別扱いされたいわけじゃないのにね。ただ普通に、幸せになりたいだけなのにね。誰かに認めてほしいし、祝福されたい。それっておかしいことなの?誰だってそうでしょ。ただ普通に誰かを好きになって、好きになった人も私のことを好きで、結ばれる、たったそれだけのことなのに。どうして私達はそんなこともままならないんだろうって、もどかしさで時々苦しくなるの」


彼女の言っていることには共感する。僕らは特別じゃない。普通の、ごく普通の、ありふれた人間だ。普通の人が異性を好きになるのと同じように、同性を好きになったはずだ。ただそれだけなのに……それ以外はどこからどこまでも普通だったなのに、たったその一点が違っただけで、僕らを阻む壁は多くなる。それがただ不思議で仕方がなかった。理不尽だとも思った。


「普通でいたいだけなんですけどね」

それなのに、社会はなぜか僕らを普通から突き放したがる。僕までシニカルな笑いをしてしまう。


「ごめんね、こんな話するつもりじゃなかったけどさ、時々馬鹿馬鹿しくなるっていうか、そんなことない?」

「めっちゃ分かりますよ、その気持ち」

「分かり合える人がいるだけ、私達って幸せだよね」

完全同意だ。こんなに身近に話し相手がいるのだから、僕らは幸せすぎるほどだと思う。その相手が妹島先輩なのだから、僕は恵まれすぎている。


「彼氏の愚痴、聞いてくれます?」


この雰囲気のうちに総てぶちまけてしまいたかった。この五年間燻り続けていた感情の一切合切を話そうと思った。彼女に話したら楽になれるんじゃないか、甘い考えだとは分かっていても、そう信じたかった。


【続】



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