普通になれない僕らの「これから」について
見咲影弥
第一話 目を瞑れば済むこと
冬になると、鍵を開ける動作にさえ手間取る。ただでさえ不器用な手先を、この寒さは一層不器用にさせてくるのだ。ったく、とさっき掴み損ねた鍵を拾おうと床に手を伸ばす。その瞬間、腰に激痛が走った。そういや、この前痛めたばかりだっけ。でも1週間は経ってるしな、なんてことを考えながら、鍵を手にとって気づく。そういや、もうアラサーなんだ。
なんとかドアを開けて玄関に上がると、チーズの香ばしい匂いが鼻腔を擽った。玄関のドア一枚隔てても分かる、絶対美味い匂い。夕飯が何なのかは既に分かっている。今晩はグラタンだ。いつもと同じように、彼は僕のリクエスト通りのものを作るはずだから。それを単純に喜べるほど僕は素直じゃなくて、少し複雑な気分になる。
ドアを開けてただいまと言うと、キッチンの方から
「おかえりー」
と
「遅くまでご苦労さま」
顔を綻ばせた彼が言う。その目尻にできた皺が愛おしい。まぁね、と返してネクタイを緩める。彼はいつも通り、ワイシャツにエプロンという格好だ。仕事から帰ってすぐ夕飯の準備を始めたのだろう。一応当番制でやっているのだが、仕事の都合上彼が早く帰ることが多いので、任せてしまう日が多い。その分他の家事を担うことでトントンになっているはずだが……。
「何か手伝うよ」
「じゃあご飯よそってくれる?」
任しとき、そう言ってシャツをたくし上げると、彼の表情は更に緩む。その顔が堪らなく好きだ。
*
向かい合って食卓を囲む。用事がない限りこうして二人で夕飯を食べるのが、同居を始めてから続いている僕らのささやかな習慣だった。
今晩のメインはやはりグラタンだった。たいてい昼過ぎに、彼からメッセージがくるのだ。今日の晩ごはん、何がいい?――別に勝手に決めてくれていい、そう何度も言っているのだが、なぜか彼はそうしない。今日もそうだった。温かい、とろけるようなものを食べたい気分だったから、グラタンがいいな、と返すと、一分もしないうちに
『俺もそう思ってた!』
と返事が来た。ほんとかよ、と内心呆れ気味にぼやいてしまって、そういう自分にも嫌気が差す。ともあれ、彼にそんな素振りは見せない。それが、長続きの秘訣だから。これまで大きな揉め事もなく、円満にやってこれたのも、そのためだ。目を瞑れば済むことは事を荒立てないほうがいい。このままでいいのだ、そう自分に言い聞かせる。
グラタンの具材はカボチャだった。熱々の陶器からスプーンで掬い取って口に運ぶ。
「熱いから気をつけてね」
と橙智が言うが、猫舌じゃないので平気だった。濃い甘味のあるカボチャと芳醇なチーズとが絡み合って、濃厚な味をしていた。
「美味いよ、橙智」
そう褒めると彼はいじらしく笑う。それから、照れ隠しか、俺も、と急いでグラタンを口に運ぶ。案の定、舌を火傷して「あっちー」と舌を出している。気をつけるのはお前のほうじゃないかと思わず笑みが溢れる。
「おい笑ったな―」
こういう、なんでもないやり取りにも幸せを感じてしまう。無邪気で、健気で、少しドジ。そんな橙智とのなんでもない日常に、僕は満たされていた。
そう、僕はこの生活に満足しているのだ。僕らの日常が脅かされることがない、ということはそれだけで幸せなことで、素晴らしいことだ――そんなことはよく分かっている。分かっていても、胸の奥で燻る感情が時折顔を出す。これ以上を欲しがるのは僕の我が儘でしかないのだとそう言い聞かせる。穏やかな笑顔を保って、感情に蓋をする。
*
「今週末どこか行く?」
食後、二人で食器を片付けているときに、そういえばと思い出して聞いた。確か橙智も土日が空いていた筈だ。どこか遠出でもしようか。たまにはドライブもいいだろう、と思ったのだ。
「えー、どこでもいいよー」
案の定。橙智はお決まりの文句を言った。どこでもいい、なんでもいい、彼がよく使う言葉だ。
「家でゆっくりしたい?」
「まぁそれでもいいし」
のらくらと返事する橙智に苛立ちを覚えるが、諦めずに会話を続ける。
「折角だし、行ったことないところに行こうよ」
「いいじゃん」
「橙智はどこか行きたいところとかある?」
「うーん、あんまり。
結局いつも通り、会話はそこに落ち着く。何だってそうだ。判断を僕に任せてくる。いちいち聞くのも馬鹿らしくなるほどだ。それならもうこっちが勝手に決めておけばいいじゃないか、と毎度思うのだが、それはそれで感じが悪い気がして一応聞いてみる。まぁ結局僕が決めることになるんだけど。
思い返せば昔から橙智はそういう人間だった。彼は自分がないのだ。付き合いたての頃は、まぁそんなものだろうと思っていた。僕がおすすめした音楽をよく聞いていて、僕が好きだと言った映画をレンタルして見ていた。僕の好きなものを彼も好きだと言ってくれて、嬉しかった。でも、彼の好きなものを聞いても、特にないんだよなぁと言って教えてくれなかった。そのときははぐらかされたのだと思っていたけど、今となっては、本当にただ好きなものがなかったんじゃないかと思う。
好きな人の好きなものを好きになるというのはよくあることだ。僕だって昔は恋人が好きなバンドにハマっていた。でも橙智の場合は、それがあまりにも激しい。僕の真似をしているみたいなのだ。何から何まで僕と同じにしたがる。趣味まで合わせてくるのだ。流されやすいのか知らないが、それにしては度を超えている。
外出だって彼がアイデアを出すことはほぼない。柚心の好きなところでいい、ばかり。彼との付き合いが長くなって、そういうところに正直うんざりしているのは確かだ。だからといって、別れたいというわけではない。これから先も橙智といたい。皿を拭く手に、力がかかる。うっかり落とさないようにしなきゃ、そう思えば思うほど余計に割ってしまいそうな気がして、それがどうしようもなく怖かった。
【続】
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