第7話

 モコが窓辺に座っている。夕日に照らされたモコは綺麗だ。モコの背中から生えた真っ白な翼が夕焼けに染まって、まるでモコが夕日の中に溶けていくみたいに見える。あんまり綺麗だから触りたくなって、私はそっとモコの翼に手を伸ばした。モコは私に気付かずに、首から下げた不思議な形をした笛で、私の聴いた事のない、けれどもとても綺麗な音色を奏でていた。ママにもモコのこの美しい笛の音色を聴かせてあげたいなと思ったけれど、なんとなく、ママはモコの吹くこの不思議で美しい音色を知っているような気がした。だって、私が知っていてママが知らないことなんて、これまで一つもなかったのだから。

「亜子ちゃん?」

夕日に染まったモコにそっと触れると、モコが私に気が付いた。私はモコに頬をすりすり摺り寄せて、ぎゅっと抱きしめた。モコはモコの大きくて美しい翼で私を体ごとすっぽり包み込んで温めてくれた。モコの翼は、干したてのお布団の匂いに似ていた。柔らかくて気持ちが良い。このまま、瞼を閉じたまま、モコとくっついてずっと一緒に眠っていたい。


 いつもの朝、いつもの様にいつまでも眠っているモコを起こす為に、私はカーテンを開けた。肩を揺すってモコを起こす。いつもなら文句を言いながら起きるのに、けれども今日は私が何をしてもモコは起きなかった。窓から差し込む眩しい太陽の日差しから逃げるようにノロノロ、モゾモゾお布団の中に潜っていったきり文句も言わないで静かにしている。私はモコを起こすのを諦めて、一人でいつも通りの時間に朝食を食べた。一人きりの朝ご飯は、いつも通りのはずなのに、何だかあんまりいつも通りではなくて、私はいつもの半分も食べずに朝食を終えた。

 朝食を済ませて、掃除に洗濯、空気の入れ替えを終えて、スーパーに買い物に出かけた。冷凍コーナーでモコの大好きなバニラのアイスクリームを沢山買った。いつもモコが私に隠れてこっそり沢山食べているのを私はちゃんと知っている。

「モコ、まだ眠いの?」

お昼を過ぎてもモコがまだ起きて来ないので、私はもう一度モコの元に向かった。何度もお鍋から吹きこぼれを起こしたから、出来上がりは想定の半分程の量にまで減ってしまったけれど、生まれて初めて作ったほんのり甘いホットミルクをお盆に載せて、モコの眠るベッドの傍らに座り込む。モコは具合が悪そうに、お布団を頭から被ったまま姿を見せず、小さく丸くなっている。

「モコ、大丈夫?」

心配になってベッドの隅に腰かけて聞くけれど返事は無い。

「モコ?どこか痛いの?」

小さな声で問いかけて、私はそっと布団の丸みに触れた。布団の向こうに、ちゃんとモコの感触があって、その手触りに私は少しだけ安心した。

「ホットミルク作ったの、飲む?」

作りたてのホットミルクは、ベットの傍に置いたお盆の上、マグの中でまだ湯気を立てている。

「初めて作ったから美味しくないかもしれないけど」

具合の悪い時、ママは私を叱った。風邪を引くのは気の緩みで、お腹が痛いのは仮病なのだとママは言った。怒られるのが怖くて、だから私は具合が悪くなるといつも黙って一人で耐えた。だからこんな時、どうしてあげたら良いのか分からない。できるだけ体に優しい物を考えて、思いついたのがホットミルク。それはママがよく使ったお皿に書かれた英語の短い文章で、子ウサギが風邪を引いたので、母ウサギがホットミクルを作ってあげましたという物語が、可愛いウサギのキャラクターと共に書かれていた。食事の時にママの叱責を浴びながら、俯いた時に見えていたそのお皿に書かれたこの短い英語の文章を私は覚えていた。ママの長い叱責の間中ずっと顔を俯けて、繰り返し、繰り返し読んでいたから。

「僕に作ってくれたの?」

ちょこっと布団から顔を出してモコが私に問うた。モコの顔は白くて、モコの顔はいつも白いけれど、いっそう白くて、

「うん、」

と、私はできるだけ優しくモコに頷き返した。

「飲む」

短くそう言ってモコはモゾモゾと布団から出て来た。モコの手にマグをそっと手渡す。

「あんまり熱くないようにしたんだけど」

モコは極度の猫舌だ。ふーふーしながら、モコは一口、真っ白なホットミルクを口に含んだ。

「おいしい」

一言そう言って、モコは今度は続けてコクコクとホットミルクを飲んだ。モコはあっという間にマグに入っていた全部飲み干した。ホットミルクがよほど気に入ったのか、飲み終わったモコはお風呂上りみたいにさっぱりした、ほくほくと柔らかい顔をしていた。

「モコ、大丈夫?」

「うん」

「無理してない?」

私の問いに、モコはニコニコ笑顔で答えた。そして急にうっと口元を抑えたかと思うと、ゲボっと何やら口から吐き出した。

「消化できなかったんだ。なかなか吐き出せなくて苦しかった」

そう言ってモコは自分がベッドの上に吐き出したゲロを前に、気持ちよさそうにふぅと一息ついた。

「分かったでしょう?これに懲りたら亜子ちゃん、もう僕に無理やりごはんを食べさせるのはやめてよね」

そう言ってモコは自分の吐いたゲロを見てケラケラ笑った。ごはんをしっかり食べる事が健康でいる事の第一条件であると、ママから教わったその事を、私は少しも疑うことなく信じていた。それなのに、それなのに、モコはその教えを私の目の前で覆してしまった。ママが間違っていたなんて。すっかり元気になったモコを目の前に、私はゲロを見て、モコを見て、ただ目を白黒させる以外にどうして良いやら分からなかった。

「でも亜子ちゃん、ホットミルクはまた飲みたいな。とってもおいしかった」

一人混乱する私を他所に、モコはなぜだかとても嬉しそうに、そして得意気に鼻を鳴らしながら言った。

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