第6話

 亜子ちゃんが家を空けている間、僕は亜子ちゃんのママの部屋に入るのが最近のお気に入り。亜子ちゃんはいつまで経っても死んでしまったママの部屋を片付けようとしない。この前とうとう痺れを切らして、片付けないとママに怒られるぞと僕が言ったら、亜子ちゃんは今にも泣き出しそうな顔をしたので、僕は急につまらなくなって、ちぇっと言って亜子ちゃんに背中を向けると、もうすぐママの決めたごはんの時間なのを分かっていたけれど、冷凍庫の中のアイスクリームをたらふく食べてやった。でもママの決めたごはんの時間になっても亜子ちゃんはママの部屋に籠ったきり出て来なくて、心配になって僕がこっそり覗きに行くと、亜子ちゃんは呑気にママのベッドですやすや眠っていた。ママのベッドで眠る亜子ちゃんは、まるで赤ちゃんみたいに無防備な顔をしていて、そんな亜子ちゃんの間抜け面を見ていたら、僕は小さく一人笑ってしまって、亜子ちゃんの鼻を優しくつねった。すやすや眠る亜子ちゃんの頬には涙の跡があって、僕はそれを指先でそっとなぞった。

 そろそろ帰らないといけない事は分かっていた。僕のいるべき世界へ。天界の誰も、意地悪で嫌われ者な僕を待ってなんかいないけれど、戻らないといけない事はやっぱり僕はわかっていた。そもそも僕だってこんなに長く亜子ちゃんと一緒にいるつもりじゃなかったんだ。あのお葬式の日、ちょっとだけ亜子ちゃんに一言物申してやるだけのつもりで人間界へ降りて来ただけだったんだから。亜子ちゃんが泣きやんだら、僕は亜子ちゃんの記憶を消して、すぐに天界に帰るつもりだった。でも、だけど、あまりに亜子ちゃんが無防備に泣くから、僕はうっかり、すっかり、亜子ちゃんに捕まってしまった。亜子ちゃんの綺麗な瞳がまっすぐに僕を見つめるから、そして亜子ちゃんがあんまりにもドジで間抜けで泣き虫だから、僕は亜子ちゃんにすっかり捕まってしまったんだ。

 人間界に居ればいるほど、だんだんと少しずつ自分の力が失われいくのが分かっていて、このままだと天界に帰る体力が無くなってしまうかもしれない事も分かっていて、でもどうしてかな、僕はまだぐずぐずと亜子ちゃんの傍にいる。

 亜子ちゃんの部屋は子供の頃のまま、大人になった今も変わらない。子供用の木製のベッドと、お花の壁紙と、くまちゃん柄のカーテン。子供用の学習机と椅子。

亜子ちゃんが家に居ないとつまらない。僕は窓辺に座っていつも首から下げている笛でも吹いてみる。この笛は特別な笛だ。聞こえる人にしか聞こえない。天使の持つ笛の音は、人間にとってはさよならのファンファーレ。亜子ちゃんの部屋の子供じみた柄のカーテンを開けると月が見えた。窓辺に座って笛を吹きながら、僕は亜子ちゃんの帰りを待つ。

「ただいまぁ」

亜子ちゃんの声が聞こえて、僕は笛を吹くのをやめる。

「モコ、ただいまぁ」

玄関まで亜子ちゃんを出迎えに行くのが今日はなんだか億劫で、僕が窓辺に座ったままでいると、亜子ちゃんが僕を探しにやって来て、へにゃっと笑った。つぶれたおまんじゅうみたいな笑顔だ。亜子ちゃんの泣き顔はいつもすごく不細工だけれど、笑った顔も同じくらい不細工だ。僕はそんな可愛い亜子ちゃんの傍へ、窓辺を離れてふわりと隣に舞い降りる。

「おかえり、亜子ちゃん」

そう言って僕は亜子ちゃんの頬に触れる。亜子ちゃんは最近風邪気味で、鼻水を啜りながら嬉しそうにえへへと笑った。

 ママの言いつけ通り、亜子ちゃんはいつも外から帰ったらすぐに手を洗ってうがいをする。今日もほら、洗面所から亜子ちゃんがうがいをする音が聞こえて来る。洗面所から出て来た亜子ちゃんはそれから、僕が点々と床に散らかしたママの洋服やら髪飾りやら本やらを一つ一つ拾って行く。僕は亜子ちゃんのママが嫌い。死んでもなお亜子ちゃんを縛って離さないから。だけど僕が本当に嫌いなのは亜子ちゃんだ。死んだママのことなんか綺麗さっぱり忘れてしまえば良いのに、いつまでもママの言いつけを守ったりなんかして、そうやっていつまでもママにしがみついて、お馬鹿な亜子ちゃん。僕はぷいっと頬を膨らませながら、亜子ちゃんの頭上を飛び越えて、一つ一つ床に落ちたママの物を丁寧に回収していく亜子ちゃんの先回りをする。ママの部屋に入って、手当たり次第に部屋の中の物を辺りに投げる。

「モコ、やだ、やめて」

物が床に当たる音を聞きつけて、亜子ちゃんが慌てて僕が暴れるママの部屋に駆け込んで来る。僕は亜子ちゃんの言葉を無視してできるだけ部屋を滅茶苦茶にする。何かがガシャンとぶつかる大きな音がして、その拍子に宝石を弾いたような透き通った音色がどこからともなく聞こえて来た。

「ママのオルゴール、」

亜子ちゃんが叫んで、音の聞こえる方へ走る。亜子ちゃんは僕よりよっぽど立派にママの部屋を荒らしながら、ようやく音色の根源であるオルゴールまで辿り着いて大事そうにそれを両手で抱き上げた。亜子ちゃんはまるでオルゴールに意識を吸い取られたみたいに、能面みたいな無表情になって、キラキラと流れ続けるオルゴールの音色に耳を傾けていた。

「これね、ママのすごく大事にしてたオルゴールなの」

しばらくしてポツリと亜子ちゃんが言った。

「時々ね、私に隠れてママがこのオルゴールをこっそり聴いてたの、私、知ってたよ」

亜子ちゃんは小さな声で話した。まるでママにそっと話しかけるみたいに。ママの生きていた頃に言えなかった言葉を、そっとオルゴールに向かって話し始める。

「オルゴールを聴いている時のママはね、いつもより弱く見えたよ。いつもと目が全然違うの。ママ、どうしちゃったんだろうって、私は少し心配になったけれど、でも私、その時ね、ママはこのオルゴールの中に、ママの柔らかだった心を全部切り離して閉じ込めちゃったんだなって、なんでかそう思ったの。ねぇモコ、私は恋を知らないけれど、きっと恋は人を弱くするんだね。ママはすっかりこのオルゴールに、自分の中の誰かを愛する優しい心を全部閉じ込めてしまったから、だから私に凄く厳しかったんじゃないかなぁ」

亜子ちゃんはそう言って口をつぐんでから、ぽろりと涙を零した。

「もう、泣くなんて卑怯だよ」

頬を膨らませて地団太を踏みながら僕は言った。言いながら、僕は亜子ちゃんの頭をよしよしと優しく撫でた。すると亜子ちゃんはボロボロ泣きながら不細工に笑って、僕をぎゅっと抱きしめた。亜子ちゃんはやっぱり自分の力の加減が全然分かっていないから、僕はいつもの通りすっかり亜子ちゃんに首を締め上げられて息が苦しくなった。でもそれで亜子ちゃんが泣きやむなら、僕の息が少し止まる事くらい我慢してあげる。亜子ちゃんは僕の意地悪をいつも綺麗さっぱり消してしまうね。

 ねぇ亜子ちゃん、弱いって優しいに似てるよね。亜子ちゃんが泣き虫なのはさ、亜子ちゃんが優しいからなんだよね。ねぇ亜子ちゃん、僕は泣いた事がないんだ。だって僕は全然優しくないから。僕はすっごく意地悪だから。でもきっと、僕がこんなに意地悪に生まれたのはさ、泣き虫で優しい亜子ちゃんを僕が守る為なんだと思うよ。だから亜子ちゃん、安心してもういくらでも泣いて良いよ。僕がずっとずっと亜子ちゃんの傍にいるからさ。


 

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