第5話
最近、気が付くとモコはママの服やらアクセサリーやらを、勝手に引っ張り出してきて身につけている。ママのクローゼットを勝手に開けてぐちゃぐちゃにして、飽きるとそこら辺に放り出して知らん顔でいる。
「もう、モコぉ」
私が怒っても、モコはツンとした澄まし顔で全然反省していない。モコを縛れる物はこの世に一つもない。
今日は久しぶりにお出かけをする。会社の親睦会で、バーベキューをする事になったのだ。
「モコ、行って来るね」
そう言って私はモコに手を振る。モコはつまらなさそうな顔でチラっとだけ私を見て、それからヒラヒラと私に手を振り返した。
当日は事前にくじ引きで決められた物をそれぞれ持ち寄って、バーベキューをすることになっていた。私は野菜の係で、大きなキャベツやタマネギ、ニンジン、ピーマン、さつまいもにかぼちゃといった沢山の食材を近所の八百屋さんで沢山買い揃え、重いそれらを大きなリュックと両手にぶら下げて、集合会場である会社から一番近い公園まで向かった。
ママが死んでしまってから、こうして外に出て誰かと何かをするというのは初めての事だった。ううん、ママが生きていた頃だって、誰かと外で何かをするなんて事は、私の生活の中では滅多になかった。
ママが死んでしまってから初めて参加する外での集まりに、私は少しだけ胸が高鳴っていた。だってママがいない今、帰る時間の心配をしなくて良いし、何かにつけて小言を言われる事もない。ママは私が外の人たちと遊ぶと必ず小言を言った。呑気に遊んでなんかいないで、もっと他にやるべき事をしなさいって。だから私はいつでも、家の外の人と遊ぶ事に対して、何だかとても悪いことをしているような後ろめたい気持ちがあった。だからこれまでは例え滅多にないお誘いに参加しても、楽しむ余裕などほとんど心になく、どこか絶えずチクチクと心の隅で罪悪感さえ感じながら遊んでいた。出かける前にいつもママと約束する帰る時間を一分でも一秒でも過ぎてしまわないように時計が気になって、変なタイミングでいきなり帰ったりもした。けれど今はもうママはいない。だから今日は、どんな心配もする必要はどこにもない。
集合場所の公園には背の高い木々が沢山生えていて、時折木々の間を爽やかな風が通り抜けていった。自然の中で一人深呼吸をすると、体中の細胞という細胞に酸素が行き渡って、脱皮でもしたような、新鮮な気分になった。
集合時間はもうじきなのに、まだ誰も公園には来ていなかった。場所を間違えたのかなと思って、プリントアウトしてきた会社のメールの文章の書かれた用紙をポケットから出して確認するけれど、時間も場所も合っていた。背中のリュックと両手にのしかかる野菜たちが重いけれど、荷物を直に地面に置くとママが汚いと怒るような気がして出来なかった。ついに集合時間が過ぎても、私は一人ぽつんと畑のかかしのように公園に立っていた。
誰も来ないまま、それでも誰か来ないかと黙って一人立ち尽くしていると、不意に木々の向こうから賑やかな子供の笑い声が聞こえてきた。楽しそうなその声に、思わず視線を向けると、ベビーカーを押す母親と、小さな女の子の手を取って歩く父親の四人家族の姿が目に映った。
「あんまり走ると危ないよ」
父親が女の子に優しく言う。すると父親の心配する声に甘えるような女の子の笑い声が、静かな公園の中にキャラキャラと響き渡った。お姉ちゃんの楽しそうな笑い声に驚いたのか、ベビーカーの中で赤ん坊が泣き声を上げ始め、母親がすぐさま抱き上げて泣き止むようにあやし出す。
「……」
私は黙って家族連れから視線を逸らした。ふと近くにあった公園の看板を見ると、火気厳禁と大きく書かれた赤い文字が目に入った。ポケットに入っているメールのプリントアウを取り出して、再度集合場所を確認する。やっぱり合っている。そこには確かに集合場所はこの公園だと記載されていた。
「……」
これはきっと不慮の事故だ。さっきの家族連れの小さな女の子の笑い声が、まだしつこく公園にこだまして聞こえている。女の子は父親に甘えるように手を伸ばしてはしゃいでいる。覚えていないだけで私もママに、あんな風に甘えていた頃があったのだろうか。あんな風に、ママが私を希望に満ちた眼差しで見つめた瞬間があったのだろうか。
必死に育てたつもりだったけれど、私の育て方が間違ったのね。
ママはよく私にそう言って深いため息をついた。何をやっても何一つ人並みに満足にできない私を、失望の眼差しで一瞥した後に。ママが私に失望するたびに、私は申し訳ない気持ちでいっぱいで、いつも何も言えずに黙って俯くばかりだった。
一生懸命に生きるだけでは駄目だろうか。誰にも迷惑はかけない、誰にも頼ったりしない、何を言われても、何をされても黙って耐えて、みんな私の事などすっかり忘れてしまった頃に、きっところっとひっそり一人死んでしまうから。そうすればいつか、ママも私が生まれて来てしまった事を許してくれるだろうか。ママの元に生まれてしまった私を、何をやっても失敗ばかりのこんな出来損ないの私を、それでも見捨てないで育ててくれたママ。
ごめんなさい。
「亜子ちゃん、」
ふいに空からいたずらっ子のようなキラリとした声が聞こえて、私は俯いていた顔を上げた。空を見上げると、モコが大きな翼をはばたかせながら、ぴゅーと私の方へやって来るのが見えた。
「モコ、」
思わず嬉しくなって私が名前を呼ぶと、モコはにやっと少し意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「やぁ亜子ちゃん、意気揚々と出て行った割に暇そうだね、一人でそんな所に突っ立って楽しいかい?」
モコは私の傍に舞い降りて来るなり言った。
「モコぉ、野菜が重いよぉ」
背中と両腕にかかった野菜たちの重みを急に思い出して、情けない声で私は言った。
「馬鹿だなぁ、亜子ちゃん」
そう言ってモコはケタケタ笑った。モコが笑うと、周囲の空気も一緒に震えて、その空気の振動が太陽の日差しに反射して、チカチカと光の粒が弾けるように光って見えた。
「重いならそんな物、地面に置けばいいのに」
「でも汚れるよ」
「汚れたら拭けば良いじゃない」
「でも怒られるよ」
「だれに?」
モコの問いに、私は静かに口を噤んだ。
「意地悪言った、ごめん」
俯いた私にモコが謝った。
「亜子ちゃん、」
モコが私を呼ぶ。そして私が返事を返すより早く、モコは私の体をふわりと軽々宙に浮かした。
「わぁ、」
私は思わず声をあげた。ふわりと、まるで重力なんて少しも持たないみたいに浮かび上がる私の体。あんなに重かった野菜たちの重みもまるで感じない。怖くてか、興奮してか、宙に浮かぶ自分の体が少し震えているのが分かった。
「モコ、すごいね」
私が言うと、モコは何てことなさそうな顔で、でも得意そうに鼻をひくひくさせながらツンとそっぽを向いた。
「うふふ」
私はそんなモコを見て笑った。可愛いモコ。優しいモコ。ちょびっと口は悪いけれど、とっても優しい、いたずらっ子のモコ。
「モコ、大好きだよ」
私がそう言うと、モコは急に宙でバランスを崩し、右側に大きくよろけた。モコと一緒に、私の体も一緒にぐらりと右に揺れる。
「亜子ちゃん、そういうのは好きな男に言え」
「そんなのいないもん」
「自慢する事じゃないぞ」
「えへへ、良いんだ。私、モコがいれば良い」
笑ってそう言いながら、それでも私は少しだけ想像する。恋とは愛とは、それはどんなものだろうと。人並に振る舞う事もままならない私には、とてつもなく遠くに存在するそれは、きっと、きっと、きっと、私の頭の中で想像するよりずっと素敵なものに違いない。
「亜子ちゃん、帰ろう」
モコが言った。
「僕たちのお家に帰ろう」
モコの言葉に私は頷いた。
そうだ、早く帰ろう、私たちの家に。
誰も私たちを傷つけない場所に。
モコがばさっと大きく翼をはばたかせた。私の体もモコと一緒になってふわり宙を舞う。モコと一緒に空を飛びながら、声に出してあははと笑ってみると、すごく気持ちが良かった。モコの背中には大きな翼が生えている。真っ白で綺麗な綺麗な翼だ。真上を仰ぎ見れば、はばたくモコの翼の向こうに青い空が見えた。空は自由だ。どこまでも。
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