第4話

 亜子ちゃんは毎朝早く決まった時間に起きて、決まった時間に眠りにつく。それは亜子ちゃんのママが亜子ちゃんに課したルールで、ママが死んだ今も、亜子ちゃんは一日だってその決まりを破る事なく、従順にママの言いつけを守り続けている。

「おはよう、モコ」

朝起きるなりカーテンを開けて亜子ちゃんが僕に言った。僕はまだ眠っていたいのに、亜子ちゃんがカーテンを開けるから眩しくて敵わない。

「もう、眩しいっていつも言ってるじゃないか」

そう言いながらベッドの中に逃げ込む僕の背中を、亜子ちゃんがごめんと言うようにそっと撫でる。それでも亜子ちゃんは毎日決まった時間に起きて、決まった時間に眠るのをやめない。僕が怒るたびに僕の背中をなでる亜子ちゃんの手は小さくて柔らかくて温かくて、僕は嫌いじゃない。

 亜子ちゃんはドジでのろまで、何をやっても上手くできない。ぼけっとしているし、すぐに泣くし、亜子ちゃんがここまで死なずに大きく育つ事ができたのは、あの恐ろしく口うるさいママのおかげかもしれない。なんて、僕は亜子ちゃんのママが嫌いなのにそう思う。

 嫌いと言えば、僕は食事も嫌いだ。何たって、あんな面倒な事を毎日三回も、それもママが決めた時間に決まった量を摂取しなくちゃいけないのか。はっきり言って正気の沙汰じゃない。食事の時、亜子ちゃんは僕に無理やり色々と食べさせようとして来る。ママは亜子ちゃんのママであって僕のママじゃないのに、亜子ちゃんは僕にまで亜子ちゃんのママの決めたルールを押し付けてくる。野菜を食べろ、魚を食べろ、ごはんだ、パンだって、全部ゲロまずい。でも食事嫌いな僕にも一つだけ大好物がある。冷たくて甘いアイスクリーム。口に入れるとさっと溶けて消えていくのが面白い。人間なんてみんな馬鹿だと思っていたけれど、こんなに素晴らしいものを作り出したことは感心だ。アイスクリームは僕が天界から眺めるだけでは知り得なかった物の一つだ。アイスクリームの中でも僕が一番好きなのはバニラ味。ずっとずっとバニラのアイスクリームだけ食べていたい。なのにケチな亜子ちゃんは不味い食事ばかりを僕に押し付けてきて、アイスクリームは時々しかくれない。今日も亜子ちゃんは僕にママの決めたルールを押し付けてきて本当にうるさい。だから僕は亜子ちゃんに気付かれないように、こっそり勝手に冷凍庫なる宝の扉を開けて、好きな時に好きなだけアイスクリームを食べている。この前なんて食事の直前に食べてやったのに、亜子ちゃんは間抜けだから僕の悪さにちっとも気が付かない。良い気味。でも、ママが決めたからではなくて、亜子ちゃんが本当に僕と食事をしたくてしてくれるなら、その時は例えどんなに不味い物でも、僕は大人しく食べてやっても良いのにな。

 亜子ちゃんの毎日は、家にいるか仕事に行くかの単調な繰り返し。亜子ちゃんの職場は家から自転車で十分程行った所にある。亜子ちゃんの職場はママが選んで決めた地元の小さな銀行で、僕はいつも家の中から亜子ちゃんの働く様子を覗き見ているのだけれど、僕は銀行が嫌い。

 銀行の亜子ちゃんは毎朝ネズミ色のちっとも似合っていない地味な制服に着替えて受付に立つ。順番待ちの整理券を発券する小さな機械の脇に立って、やって来たお客さんの交通整理をするのだ。

 亜子ちゃんは一日中、整理番号の発券機の隣に立っている。変な客にからまれて困った事になっても、馬鹿みたいにニコニコして、ニコニコし過ぎて不機嫌な客に何を笑っているのかと怒られたりするぐらいニコニコしながら立っている。亜子ちゃんがどんなに困っても同じネズミ色の制服を着た連中は亜子ちゃんを決して助けない。亜子ちゃんが困っている事に気付いていながらそれを遠巻きに眺めるだけで、心の中でクスクス笑っている。だから僕は亜子ちゃんを笑った奴ら全員にもれなく仕返しをする。ばっちりメイクを決めた女の鼻の穴に鼻糞をそよがせたり、その若い女に鼻の下を伸ばしているじじいの、太ってピチピチになったワイシャツに、これでもかという程ビンビンにした乳首のシルエットを浮き彫りにさせてみたり。いつも決まって影で亜子ちゃんの悪口を言っている狐目の奴には、持病のいぼ痔を悪化させてやり、ついでに脇の匂いもきつくしておいたりする。僕の目を誤魔化せる人間なんて、この狭い人間界には一人もいない。全ての意地悪が僕の仕業なんてことは、当然亜子ちゃんには秘密。

「やぁ、しばらく天界で姿を見ないと思ったら、こんなところで随分と楽しそうにやってるね」

僕が亜子ちゃんを笑う人間に遠隔操作でちょいちょいと仕返しをしていると、急に天界にいる仲間の声が頭の中に響いてきた。

「何だい君、僕は今とても忙しいんだよ」

僕はつっけんどんに仲間に言葉を返した。

「人間に罰を与えるなんて、君はゴットにでもなったつもりかい?」

「君に関係ないだろう。さっさと仕事に戻れよ」

「それは君だけには言われたくないセリフだね。けれどもいくら君が堕天使になり下がったと言っても、理由なく人間を弄ぶとは考えにくい。君は何を隠しているの?」

「何も隠してなんかないよ。僕はただここで暇つぶしの遊びをしているだけさ」

そう言って僕はフンと鼻を鳴らした。

「ゴットはどうして、君みたいな天使を許しているんだろう」

仲間は心底残念そうな、悲しそうな声で言った。

「気になるなら直接本人にでも聞いてみれば?」

僕がケラケラ笑いながらそう言い返すと、ようやく諦めたのか、仲間の気配は煙の様にすばやく霧散して消えた。

「モコ、ただいまぁ」

今度は頭の中ではなくて家の玄関の方から、亜子ちゃんの間延びした声が聞こえて来て、その瞬間、僕は弾かれたようにひゅーんと亜子ちゃんの元まで飛んだ。

「お帰り、亜子ちゃん」

僕はいつも何てことない顔で亜子ちゃんを出迎える。でも本当は、亜子ちゃんが家に帰ってくると嬉しい。家からもママが消えた今、家にいれば亜子ちゃんをもう誰も傷付けることはないのだって、だから僕は亜子ちゃんの間抜けなただいまの声を聞く瞬間が嬉しい。もうあんな意地悪な銀行なんて辞めちゃえば良いのにと、僕がいくら言っても亜子ちゃんは銀行を辞めない。亜子ちゃんが銀行に就職することが決まった時、初めてお母さんが喜んでくれたんだって、だから何が何でも銀行は続けるのだって、亜子ちゃんは言う。

 夜になるといつも、僕と亜子ちゃんはそれまで亜子ちゃんが一人で使っていた小さなベッドに身を寄せ合って共に眠りにつく。

「どうぞ、私とモコをお守りください」

眠りにつく前、亜子ちゃんは毎回、胸の前で両手を組んで、目を見開いたまま、はっきり声に出してそう祈りを捧げる。亜子ちゃんが毎夜祈りを捧げているのはママだ。死んだママを、どうやら亜子ちゃんは人ならざる者、つまり人間たちの信仰の最高位である神様まで昇華させたようで、今やママは亜子ちゃんにとって神様に等しい。いや、もはや神様より上の存在になっていると言えるかもしれない。亜子ちゃんにとって、ママの教えは絶対だ。ママが死んでもそれは変わらない。亜子ちゃんは今でも唯一神であるママの定めた全てのルールを守り続けている。亜子ちゃんは素晴らしく敬虔なママの教徒である。

「おやすみ、モコ」

ママに祈り終わると、そう言って亜子ちゃんは低い団子鼻をすりすり僕に寄せて来る。そしてそのまま僕をぎゅっと抱きしめる。亜子ちゃんのベッドは狭くて、加えて天界の雲よりずっと硬くて、お世辞にも寝心地が良いとは言えない。おまけに亜子ちゃんは相変わらず自分の力の配分を分かっていないから、毎回僕は首を絞められて、だからいっそ床で寝た方がずっと楽なのだけれど、僕はいつも亜子ちゃんの隣で眠りにつく。触れ合った肌に亜子ちゃんの体温を感じながら、僕は亜子ちゃんがちゃんと眠るまで見守って、すっかり呑気な寝息をたてはじめた亜子ちゃんにそっと一回キスをしてから、それからようやく瞼を閉じる。口に出しては絶対に言わないけれど、気持ちよさそうに眠る亜子ちゃんの安らかな寝顔を見ていると、僕は何だか嬉しい。おやすみ亜子ちゃん、良い夢を。

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