第3話

 死んでからお葬式をするまでにも段取りがあることを私は知らなかった。お葬式が行われるまでの数日間、ママは薄暗い死体安置所に一人寝かされていた。その妙に間延びした時間があったせいか、ママがいなくなって目覚めた最初の朝、今まであった物がぽっこり欠けてしまった空白の感じが上手く飲み込めなかった。私が今も呼吸をしている部屋は、ママが死んでしまう前と全く同じで、ベッドも天井も電気もカーテンもテーブルも椅子も何もかも、今までママとずっと一緒に過ごしてきた子供の頃から何も変わらなかった。それなのにママだけがそこからきれいさっぱり削除されてしまっていた。上手く状況が飲み込めなくて、だから私は子供の頃から使っているベッドの上で首を傾げたまましばし膝を抱えていた。

 けれども習慣というのは恐ろしいもので、どんなに悲しくても心が不在でも、いつもの時間がやって来ると空腹を感じた。朝ご飯を食べる事にして、私はベッドを抜け出した。

月、火、水はパンで、木、金、土がごはん。日曜の朝はどっちでも良い。これがママの決めたルール。今日は日曜だからどちらでも良い日。いつもはママの気分で決める。でも今はママがいないから、うーん、どうしたらいいのかな。少し分からない。冷凍しておいたごはんがある事を思い出してレンジで温める。おにぎりにしようと思って、ママが市販の袋から中身を出して綺麗にパックし直した海苔やら昆布やらを冷蔵庫から取り出す。

 ママはおにぎりを作る時、いつも海苔をコンロで軽く炙った。そうすると香ばしい良い匂いがして、食感もパリッといくのだって。何でも白黒パッキリ付けるママだから、パリパリの海苔はとってもママらしい。ママがしていたのと同じように、コンロで海苔をあぶりながらごはんが温まるのを待った。手を濡らして塩をして、温まったごはんを乗せて昆布を入れて、そうして熱々のうちにギュッギュっとにぎった。ごはんが熱すぎて掌に火傷を負いそうになって、目尻に涙を浮かべながら何とか耐えた。ママが握ったおにぎりはいつも綺麗な三角おにぎりだったけれど、今出来上がったのはただお米を一つにまとめただけの、形の歪な塊だった。

 私はママの塩だけのおにぎりが一番好き。ママはいつも小さいのを作ってくれるから何個でも食べられた。塩だけなのにどうしてか、ママのおにぎりはちゃんと美味しい味がして、それはまるで魔法みたいだった。私は形の歪なおにぎりを四つ作った所ではたと手をとめた。自分で作ったおにぎりじゃ、一人で四つも食べられないねと自分に呟く。本当は私は、時間が経ってしっとりとお米の湯気で湿った海苔も好き。ママの好きな様に、もうわざわざコンロで海苔を炙らなくても良いのに、手を抜いた事がママにばれたら怒られる気がして出来なかった。

 形の歪なおにぎりを二つだけ食べてから部屋の掃除をした。床はちゃんと硬く絞った雑巾で拭く。部屋の空気を入れ変えるのに窓を開けて換気をする。柔軟剤も入れて出来上がった洗濯物はぴっちり皺を伸ばして等間隔で竿に干した。あっという間にお昼になった。いつもならママがお昼ごはんを用意してくれているけれど、今日からママはいない。私の掃除の甘さを指摘される事もない。お昼に何を食べたら良いのか分からない。

 ふらりと外に出た。どこに向かって歩いているのか自分でも分かっていない。知っているはずの近所のスーパーまでの道が、知らない道に思えて仕方ない。ママと一緒にこれまで何度も歩いてきたスーパーまでの道。小さな頃、ママの歩調についていくのが大変だった。ちょこちょこ走ってはママに置いていかれないように、ママを見失わないように、遅いと怒られないように、それでいて頑張って歩いていることをママに悟られないように、気を遣わせないように、私はいつでもママの斜め後ろを一生懸命に歩いた。大人になって、もうママの歩調を速いと感じなくなっても、私はいつでもママの斜め後ろを歩いた。私は幾つになってもいつでも黙ってママの斜め後ろを歩いた。生きている時は怖くて重かったママの存在が、急にいなくなって、私はあまりに身軽になってしまって、ぽっかり空いたママの穴が不思議で不明で仕方がない。スーパーの前まで歩いて行って、けれども何を買えば良いのか分からず、結局中には入らないまま家に帰った。小さな頃から変わらず使っている子供部屋で一人膝を抱える。

 そんな妙に現実味のないふわふわした数日が過ぎてから行われたママのお葬式は、とても順調に淡々と進んだ。真っ黒な喪服を着てお葬式会場に立っているだけで、ママのお葬式はお坊さんのお経と共につらつらと滞りなく進んだ。こんなにも何もしない喪主は初めてだと誰かが私に言ったけれど、私には何の事だかよく分からなかった。

 お葬式という、ママの死が形となって私の目の前に現れてようやく、私はママが本当に死んでしまった事を現実の事として受け止めざる得なくなった。そうして悲しくて悲しくてママの棺にしがみ付いていたら、どこからともなく私の前にモコが現れた。私はモコを全然知らないのに、涙で滲む視界の中、聞こえてきた優しい声の方へ縋るように思わず手を伸ばした。そうしてモコを抱きしめた瞬間、ずっと昔からモコを知っていたような、安心した気持ちになった。くるくる巻き毛が羊みたいにモコモコしていたモコ。そうやって、ママに永いさよならを告げたその日、モコがふわりと私の元に舞い降りてきた。

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