第2話
亜子ちゃんは泣き虫だ。僕はこれまで飽きる程沢山、人間界にうようよと生きる人間達を天界から見下ろしてきたけれど、その中でも亜子ちゃんは特に泣き虫で弱虫だ。僕は亜子ちゃんを生まれたばかりの小さな頃から知っている。だって、亜子ちゃんをあの恐ろしいママのお腹の中の子供に選んだのはこの僕なんだから。亜子ちゃんは勿論、人間界に生きる誰も、僕たち天使のその仕事を知らないけれど。
天界は人間界からは遠く離れた場所にある。天界から人間界は隅々までよく見えるけれど、人間界から天界は一ミリだって見る事はできない。天界は無限に広く、それに比べて人間界の小さい事といったらない。きっと天界の玄関程の広さもないのではないだろうか。こんなにも堂々広々と存在する天界に、人間達は少しも気が付かないで、それで人間界の狭い土地を巡って仲間同士で殺し合っている。人間って本当に馬鹿で愚かで哀れな生き物だと思う。
「そんな風に人間たちを見下してはいけないよ」
どこまでも無能な人間たちを創造するゴットのお手伝いに嫌気がさして、僕がすっかり仕事をほっぽり出してフカフカな雲のベッドでゴロリとふて寝をしていると、仲間の天使がやって来て僕に偉に説教をした。
「うるさいなぁ。僕は人間なんて大嫌いだ。すぐに悪さをするし、怠けるし、そのくせ少しの困難に大袈裟に悲嘆に暮れてみたり、都合の良い時だけゴットに祈りを捧げたりしてさ、利己的で現金で下品で頭も悪い。僕はもう人間にはうんざりだ。僕はもう人間を創造する手伝いなんてしない」
耳障りな事を言う仲間に、僕は八つ当たりをするように言った。
「そんなの駄目だよ、ゴットが悲しむ」
仲間は少し慌てた様子で、けれども僕を窘めるように言った。
「ゴットが何だっていうのさ」
僕は寝転んだまま仲間に言い返した。むしゃくしゃして、正論ばかり言う仲間が心底鬱陶しかった。
「だってゴットは僕たちの全てじゃないか」
僕はもうあっくりきて、僕を諌める仲間のその言葉を全部無視した。
「ほらご覧よ。あそこで輝く湖の美しい事、果実のたわわに実った豊かな様子を。あれもこれも全部ゴットが愛する人間たちの為にお創りになったものなんだよ。君も感じるでしょう?人間たちの限りある命の可愛らしい震えを。人間たちはみなゴットの愛の結晶なんだ。人間を創り出す事のお手伝いをさせて貰える事に、僕たちは感謝をしなければならない程だよ」
仲間はそう言って僕に微笑んだ。僕は仲間のふにゃけた笑顔に反吐が出そうになった。
「僕は人間なんて大嫌いだ。だから僕の嫌いな人間を好きな君の事も大嫌い。そんなに人間が好きならさ、こんな所でくっちゃべっていないでさっさと仕事に戻れよ。せいぜい頑張って働いて、ゴットのお気に入りなってさ、ついでに大天使様にでもなってもっと大事な仕事を任せてもらえよ」
そう言って僕は思いきり仲間にベーと舌を出して見せた。仲間は何も言わず、しょんぼりと肩を落としながら背中から生えた羽をパタパタさせて僕の前から遠ざかって行った。
「ほんと、やってられないよ」
そう言いながら、僕はゴロンと雲の上で寝返りを打った。
僕の嫌いな人間の筆頭株は間違いなく亜子ちゃんだ。だって僕がいつ雲の間から人間界を見下ろしても、亜子ちゃんはどんくさい事ばかりしている。とんでもなく要領の悪い亜子ちゃんの毎日は、他の人間にいじめられるか、怒られるか、泣いているかのほとんど三択だ。そしてこんなにも毎日が上手くいっていないのに、亜子ちゃんは自分がどんくさい事にさえ気が付いていなくて、自分の行いを顧みたり、改善しようとする気配もない。ごくたまに一人で楽しそうにしているかと思えば、空を眺めてぼんやりしていたりして、あまりにも亜子ちゃんが飽きもせずアホ面で空を眺め続けるものだから、僕は一瞬、亜子ちゃんには天界から人間界を見下ろす僕の姿が見えているのかと思った事もあったけれど、勿論そんな事はなくて、亜子ちゃんはぼけーっと何時間でもただ幸せそうに空を見上げていた。僕が毎日こんなにイライラして、仲間にもすっかり嫌われてしまっているのは、全部全部亜子ちゃんのせいだ。ゴットの事なんて僕はどうでも良い。天使の仕事も僕には関係ない。僕は兎に角、毎日毎日信じられないくらいどんくさい亜子ちゃんにイライラしてイライラして、僕があの恐ろしいママの元に運んでしまった、僕の小さな亜子ちゃんが、何かの拍子にうっかり戻れないところまで転げ落ちてしまわないかって気が気でなくて、毎日毎日人間界を覗き込まない事には心配で心配でいられない。
仲間に気分を害されたので、雲の上でふて寝しようとしたその時、僕は視界の端で見覚えのあるものを捉えた。
「ねぇ、君」
僕は体を起こして、それを運んで行く仲間の天使に近づいて行った。
「その魂、ちょっと見せてよ」
僕が声をかけると、仲間は翼をはばたかせるのをやめて立ち止まった。それから僕の顔を見ると恐れるような目になって、おずおずと両手に抱えていた人間の魂を見せてくれた。善で満ちたこの天界で、ゴットを罵り、仕事をさぼり、そんな僕を窘める仲間の言うことにも一切耳を貸さない僕は、すっかり素行不良の荒くれ者で、みんなの嫌われ者だ。
「この魂、今人間界から運んできたばっかりだよね?」
僕は仲間のビクビクした様子を気にせず問うた。
「はい、そうです」
仲間は直に答えた。
「ふーん、そう」
僕はそうとだけ言って仲間の天使に背を向けた。それは亜子ちゃんのママの魂だった。
勿論、僕は亜子ちゃんのママが命を終えたことを知っていた。だって僕は天界から亜子ちゃんのママが終わる様子をずっと眺めていたんだから。そして今、僕は亜子ちゃんのママが命を終えた後、無事に天界までその魂が運ばれて来たことを確認して、ようやく少し安心した。だってこれで亜子ちゃんをいじめる人間が一人減ったんだから。
けれれどもそれから少しして迎えたママのお葬式の日、亜子ちゃんはいつもに増して泣いていた。よくもまぁ涙が枯れないものだと、僕は亜子ちゃんの泣き虫具合に呆れる事を通り越して、もはや少し感心してしまっていた程だ。ママの死がそんなに悲しい物なのか、僕にはよく分からなかった。例えば親を失った雛鳥は餌が断たれて死んでしまうけれど、亜子ちゃんの場合はママが死んでも亜子ちゃん自身は死んだりしない。むしろあの恐ろしいママから解放されて、亜子ちゃんは喜ぶべきだとさえ僕は思った。だって、亜子ちゃんだって人間の歳で言えばもういい大人なんだ。いつまでもママ、ママって、そんな弱っちいことじゃ、いつまで経っても亜子ちゃんは泣き虫のままだ。
ママの死はとても急だった。亜子ちゃんのママは、一人娘の亜子ちゃんに別れの言葉を述べる暇もなく死んでしまった。けれどもその代わり、苦しむ時間もほとんどなかった。死に方としては良い死に方だったと僕は思う。
僕は今まで亜子ちゃんに直接話しかけた事はなかった。亜子ちゃんはどんくさくて、間抜けの、阿呆だった。僕はそんな亜子ちゃんをいつでも天界から眺めていた。けれどもあの日、あまりにも亜子ちゃんが泣きやまないから、僕はとうとう天界を降りた。亜子ちゃんがあまりにもずっとずっと泣くから、もうそんなに泣くなって亜子ちゃんに一言物申してやるつもりで、ついに天界を降りたんだ。天使が勝手に人間界に降りる事は禁止されていたけれど、僕が怠惰だって悪評はすっかり天界に轟いていたから、仲間の誰も僕を止めなかった。ゴットも沢山いる天使の一匹が掟を破ったとて痛くもかゆくもない様子で、人間界に急降下して行く僕に何も言わなかった。
僕はあっと言う間に人間界に到達して、そのまままっすぐ亜子ちゃんの元まで舞い降りた。ママが死んだくらいの事でいつまでもうじうじ泣いているなと、亜子ちゃんにガツンと一発怒ってやる気満々で。けれどもいざ亜子ちゃんを目の前にしたら、亜子ちゃんの目が、すっかり泣き腫らした目が、あまりにもどこまでも深く悲しみに沈んでいて、だから僕はすっかり勢いを失くしてしまった。僕はしばらく言葉が見つからずに黙っていた。亜子ちゃんは死んだママの棺にしがみ付いて泣いていた。亜子ちゃんは年齢の割にいつまでも幼い所があって、泣きじゃくっていた亜子ちゃんは本当に駄々をこねる小さな子供みたいだった。いつもなら僕はそんな亜子ちゃんに心底イライラして怒るはずだった。でも、泣き続ける亜子ちゃんにかけた僕の声は、僕の声とは思えないくらいなぜだかすごく優しかった。僕はあんなに善で満ちている天界の誰にも嫌われる程の、大の意地悪っ子のはずなのに。
図らずも僕が優しく声をかけると、泣き腫らした赤い目で、亜子ちゃんは僕の目をまっすぐに見た。亜子ちゃんは泣き虫だけれど瞳はとても綺麗だ。子供の頃からちっとも変わらない綺麗な瞳。僕は亜子ちゃんの瞳が好きだ。亜子ちゃんは不細工に泣きながら僕に手を伸ばすと、僕を力任せにぎゅっと抱きしめた。そして亜子ちゃんはまたサブンと大粒の涙を幾つもとめどなく零した。亜子ちゃんに思い切り強く抱きしめられて、すっかり窒息しそうになりながら、僕はぎこちなく亜子ちゃんを抱きしめ返した。亜子ちゃんの体は柔らかくて温かくて、天使の僕にはとても得体が知れなかった。亜子ちゃんは天界にはない生き物の手触りを持っていた。そして亜子ちゃんは僕を思いきり抱きしめたまま泣き続けた。僕はすっかり困ってしまって、そっと亜子ちゃんの頭を撫でてみた。
どうして亜子ちゃん、ママが死んだくらいでそんなに泣くことないのに。お馬鹿な亜子ちゃん。
僕は亜子ちゃんの頭をぎこちなく撫でながら、心の中で亜子ちゃんに言った。僕の心の声が聞こえないのか、亜子ちゃんは不細工な顔で泣きに泣き続けた。飽きるくらいあまりにも亜子ちゃんが泣くので、僕も亜子ちゃんと一緒に泣いてみたくなったけれど、絞められた首に息が苦しくなっていくばかりで、一滴の涙も出なかった。
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