僕の天使
いちご
第1話
ママが死んでしまった。あんなに怖かったママが。私のママ。
小学四年生の時の授業参観の日、隣の席だったエミちゃんは思いきり教室の後ろを振り返って、自分のママに笑顔で手を振っていた。エミちゃんのママは線が細くてどこかか弱い雰囲気で、肌に日焼けなんかどこにも一切しておらず、お化粧はばっちりで、顔は死人みたいに白くて、髪はふわふわして長く、上品な花柄のスカートを履いていた。そして教壇の前で話している先生の授業も聞かずに手を振る自分の娘に、優しそうな笑顔を浮かべて手を振り返していた。授業中に堂々と私の真横で繰り広げられたそれは、私にはとても信じられない光景だった。もうほとんど正気の沙汰ではなかった。だって、もしも私がエミちゃんと同じ奇行を私のママにやろうものなら、すぐさま冷たい一瞥と厳しい叱責が飛んで来ることは、いくら私が間抜けでも想像に難くなかったから。けれどもエミちゃんはヘラヘラと笑いながら、私なら決してやらない恐るべき所業を簡単にやってのけた。様々な家の親たちのずらっと並んだ教室の後方から、決して目立ちはしないのに、けれどもどの家の親よりも厳しく鋭く私を監視するママの視線は、絶えずビシビシと私の背中に突き刺さっていた。エミちゃんがヘラヘラしている隣で、私は授業参観中ずっと、視線を黒板一点に固定したまま、少しでも動けば死刑になるような心地で、先生の話など一文字も頭に入らないまま、石になったかのように椅子の上に座っていた。
そんな風に私のママは、昔から他の家のママと違ったように思う。私のママは特別強い。強いというのは筋力が発達しているとか、信じられない程の権力を握っているとか、そういった事じゃない。実際、私のママはパッと見は地味で小柄で少しも目立たない。一見すると、どこにでもいそうなただの主婦だ。けれどもママは、学校のどんな怖い先生なんかより、どんな屈強な肉体を誇るスポーツ選手より、きっとずっと強かった。約束は守らなくてはならない、決めた事は最後までやり抜かねばならない、食事は好き嫌いぜす食べなくてはならない、勉強は出来なければならない、身の周りは清潔にしておかなければならない。ママの中にはいくつもの絶対にこうあらねばならぬ、という鉄の掟があり、それを破る者は人にあらず、いつでも容赦のない叱責が飛んできた。ママはいつでも私の世界のピラミッドの頂点に君臨していて、その王座が陥落する事はどんな天変地異が起きたとしても、決してあり得なかった。ゾウより、クジラより、雷より、火事より、ママは私にとって地球で最強の、いや最恐の生き物だった。
そんな何よりも恐ろしいママだから、記憶のある限り、私はママとそれほど多くを会話した記憶がない。私がママと言葉を交わしたほとんどは叱責の時で、それも会話と言うよりはほとんど私が一方的にママの言葉になぶられるだけの一方的なものだった。私のママへの恐怖の刷り込みは繰り返され、歳を重ねるごとに強固になっていった。それでも時々、私はママと何か会話をしたくて、だけどいつも身体の条件反射的に刷り込まれた恐怖で食道が狭まってしまって、結局言葉を発する隙間など私の喉のどこにもなかった。結果的に私はいつもほとんどママとは沈黙でしか会話することが出来なかった。そんな私にママは、口が無いのかと言ってまた怒った。増々私は沈黙した。沈黙が、私のママとの会話だった。
さっきから私は、こんなに恐ろしい自分の母親を、ママ、ママと随分と馴れ馴れしく呼んでいるけれど、実際、私はママをお母さんとしか呼んだ事がない。お母さんとすら、とんでもなく勇気を振り絞って蚊の鳴くような声で、一年に数回呼ぶだけだった。けれども今、棺の中で静かに瞼を閉じているこの人の呼称はお母さんではなく、なぜだろう、すごくママだという感じがした。
ママ。
生きているうちには一度も呼んだ事のなかった呼び方なのに、死んでしまった今、もうすっかり動かなくなってしまって人畜無害になってしまった、こんなにもママがしっくりと来る。
「……」
ママの亡骸をそっと見つめる。棺の中で眠るママの顔は安らかで、薄くお化粧をしており、生きていた時より綺麗に見えた。生きている時のママは化粧っ気もなくて、いつも鋭い顔をしていた。いくら外面だけ飾っても意味は無いのだと、いつだったかママは私に言った。棺の中、穏やかに瞼を閉じているママ。死んでしまったけれど、今こうしてようやくママに安らぎが与えられたのだなと思うと、ほんの少しだけ胸を撫でおろすような安心した気持ちになった。けれどもそんな事を思いながら棺の中を覗き込んで、じっとママの顔を見つめていると、何だかママはまだ生きているようにも思えた。死んだと思ったら生きていたなんて、ママならありえそうな事だった。だって私のママはいつでも超現実主義で、合理的で、無駄が嫌いで、曲がった事が大嫌いで、殺しても死なないような、恐ろしく強い人なのだから。
「亜子ちゃん、」
誰かが私の名前を呼んだ。時々、ママは私を亜子ちゃんと呼んだ。いつもは亜子とか、あなたとかなのだけれど、三百回に一回くらいの割合で、ママは私を亜子ちゃんと呼んだ。私はママの、時々私を亜子ちゃんと呼ぶ声が好きだった。私をそう呼ぶ時のママは、いつもより少しだけ優しく、近くにいるように感じられたから。けれども不意に聞こえてきたその声はママのものではなかった。
「亜子ちゃん、もういい加減泣きやんでママから離れなよ」
知らない声がまた私を亜子ちゃんと呼んでそう言った。それはやっぱりママの声ではなかった。けれどもそう言われて、私は自分が今泣いていることに気が付いた。ママのお葬式会場はもうとっくに綺麗に片付けも済んでいて、死んでしまったママと私以外に、式場にはもう誰もいなかった。あとは私が棺で眠るママを置いてこの場から出て行くだけで、ママは火葬場で燃やされて、お葬式は完璧に終わる。知らない声は私にママから離れるように言ったけれど、つまり私がママから離れてしまったらママのお葬式は終わってしまうのだ。ママのお葬式が終わる。ママとさよなら。永遠に、さよなら。そう思った瞬間、それまで心の底でどこか他人事のような感覚でいたママの死が、津波が押し寄せて来るようにドバっと現実の厚みをもって、私の全身を強く打った。ママが死んだ。ママが死んでしまった。私はもうママに怒られる事はない。あんなに毎日ビクビク恐怖していたママの強い叱責はもうこのさき一生聞こえない。もう怒られない。だってもうどこにもママはいないのだから。どこにも、どこにも。心底ほっとしながら、心底悲しかった。
この広い広い銀河の中で、たった一人の、私のママ。
「知ってるよ」
呆然とする私の耳に、知らない声がまた話しかけてきた。知らない声なのに、すごく遠い昔に知っているような気のする不思議な声だった。
「亜子ちゃんはちゃんとママが好きだった。ママもそれをちゃんと分かってたよ」
雨上がりの夕空みたいに、温かくて優しい声だった。
「だからほら、もう泣かないでママにさよならを言って」
不思議な声にそう促されて、私はもう一度、赤く腫れ上がった目でママをじっと見つめた。これからママは燃やされる。灰になって、骨はお墓の下で永遠の眠りにつく。
もう本当に。
さよならなんだね、ママ。
悲しくて、悲しくて、私はママの顔をもう見ていられなくなって、瞼を閉じて私を呼ぶ不思議と温かな声の方に手を伸ばした。手を伸ばして、瞼を閉じて何も見ないまま、その声をぎゅっと抱きしめた。悲しくて、悲しくて、そうする以外にどうしようもなかった。そうやって私が初めて触れたモコは、ママが私の胸に開けた深い穴を、暖かく優しく包み込んだ。
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