第2話 アンチコメントへの攻撃は許可されていない
アンチコメント(犬)は喉をゴロゴロ鳴らしながら威嚇していた。
その口元は嘲笑を浮かべるように、異様なまでに口角が上がっている。
僕の胸の内から、喉から手が出るような衝動が湧き上がる。それは目の前の卑しい概念を叩き潰したいという、抑えきれない怒りだった。
(こいつを叩きのめしたい……!)
僕の激情が足を動かし、アンチコメントのこめかみに拳を振り下ろす。
その瞬間、ガラスが割れるような音が響いた。だが僕の拳はアンチコメントには届かず、ノイズのような見えない壁に遮られていた。
「なんだ……これは!」
「ホコ、君はそいつに攻撃することはできない」
ツバサの声が響く。
「どういうことだ!」
「そうプログラムしてあるんだよ」
「なんでそんなことを!」
「君自身が提案したプログラムだからさ」
ツバサの言葉に僕の記憶が蘇る。そうだ、はるのここのリスナーには一つの大切な約束があった。
――アンチコメントには反応しないこと。
彼女の理念に基づき、アンチコメントを拾うのは逆効果だ。それが彼女の楽しくリスナーと時間を過ごしたいという願いを損ねるからだ。
「でも、これじゃ僕は何もできない!矛なんて意味がないじゃないか!」
僕の視界の端に小型モニターが映し出された。そこにはツバサが映し出されいる。
「君自身は攻撃できない。でも、それを使えばアンチコメントを弾き返すことはできる」
そう言い終わると、僕の足元に一本の槍が投影された。
同時にアンチコメントが僕の背後に回り込む。その狙いは、はるのここ――彼女だと直感する。
「ホコ、その槍だけがアンチコメントに届く。威力はのけぞらせる程度だが、それで彼女のもとにコメントが届かないようにするんだ」
ツバサの説明を聞く間もなく、僕は槍を手に取り、アンチコメントに向かって走った……いや、瞬間移動したかのように気づけばその目の前に立っていた。
「邪魔をするなぁ!」
掛け声と共に槍を振り抜く。その瞬間、重々しい音が空気を切り裂き、激しい金属音が鳴り響く。アンチコメントは白い部屋の奥へと吹き飛び、そして消えていった。
息を整えながら、消えたアンチコメントの行方を見つめていると、再び小型モニターが映し出された。
「ホコ、お疲れ様。初仕事は無事クリアだよ。さすがは私の作ったプログラム……いや、推しへの愛を賞賛すべきかな」
ツバサの言葉を聞きながら、僕は槍尻を床に立てた。甲高い音が響き、辺りは静けさを取り戻す。
「ツバサ、説明を頼む」
「どこから説明すればいい?」
「……すべてだ」
ツバサは鼻を鳴らし、明後日の方向を向く。その様子はまるで鼻腔の奥に猫でも飼っているかのようだった。考えをまとめたのか、彼の瞳が再び僕に向けられる。
「手短に、要点だけ伝える。質問は後で受け付けるから、それまではいい子にして黙って聞いて」
ツバサらしい独特の言い回しに、なぜか懐かしさを覚える。軽くうなずいて彼に促す。
「まず、ここは“はるのここ”の配信のコメント欄だ」
「なにぃ!」
自分でも驚くほど低く力強い声が出た。
「どういうことだ? バーチャル世界の研究は――」
僕が言いかけると、ツバサは人差し指を口元に当て、小さく吐息を漏らす。その仕草には可愛げがあったが、明らかに「黙れ」という意図が含まれていた。
「頭上を見上げてごらん。多くのコメントが流れているだろう? それらの向かう先には、当然その言葉を伝えたい相手がいる。私はこの空間を“3Dコメント欄”と名付けた」
僕は改めて周囲を見回す。確かにこの白い空間は、コメント欄の余白に似ている。その向こうには“はるのここ”の配信背景と思われる景色が広がっていた。
「このシステムは、アンチコメントを一時的に3D空間の最下層に落とすものなんだ。そこに落ちたコメントは、一時的にコメント欄から除外される。だが、長くは持たない。3分がリミットだ。頭上のコメント欄にまで登れば通常どおり表示されてしまう。君がいるこの層の最奥に送れば、そのコメントは過去のログに移される。配信者がログを遡らない限り、目にすることはない仕組みさ」
自慢げに説明するツバサ。
「これが私の考えたホログラムを使ったアンチコメント除去プログラムだ。名前は“ホコ”。いろいろ略称を考えた結果、この名前に落ち着いたよ」
沈黙が場を包む。僕はツバサの次の言葉を待った。
「君は“推し”を守るプログラム、ホコになった。以上が現状の説明だ。質問はあるかい?」
僕の背筋に冷たい感覚が走る。それはこの部屋で目覚める前の記憶が影響していた。
「……現実の僕は、今どうしている?」
ツバサは目を逸らさず、慎重に言葉を選びながら答えた。
「病院にいる。寝たきりで、目を覚まさない。もう3か月になる」
僕は視線を“はるのここ”へと向けた。彼女は体をのけぞらせ、両手で顔を覆っている。どうやらホラーゲームの実況中らしい。怖がる仕草さえ愛おしい。その瞬間を目にしたリスナーたちも、きっと推し活冥利に尽きる思いを抱いているだろう。
胸がざわつく。清濁が入り混じった水を飲み込んだような感覚が、胃のあたりで渦を巻く。
彼女の声が、なぜか僕には届かない。それでも心には、ある後悔が突き刺さる。親にもう一度「愛している」と伝えられなかったことが、胸に重くのしかかるのだ。
濁流のように押し寄せる感情に呑まれながらも、ふと“はるのここ”の切り抜き動画を思い出した。僕が彼女を推すきっかけになったあの動画だ。
そこでは、彼女が配信者になった理由を語っていた。
【ここはねぇ、ずぅっっと、何かを残さなきゃと思って生きてたんだ。だから、できることは何でもして、やっと見つけられたの。ここが残せそうな、みんなが楽しんでくれそうなこと】
その言葉に、僕は胸を打たれた。ただの笑顔や声ではない。彼女の生き様そのものから紡ぎ出された言葉が、僕の心を掴んだのだ。
自然と頬を伝う感触を思い出す。その滴が顎先にたまり、胸を熱くする記憶。
「ツバサ、まだ僕には残せることがある」
そう言うと、ツバサは幼馴染としての優しさをたたえた目で僕を見た。
「推しの笑顔を守る。それも推し活冥利に尽きるんだぜ」
僕は槍を握りしめた。
“はるのここ”の言葉は、いつだって僕を奮い立たせてくれる。
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