閑話 女官長 リフィージー

 ブライアン坊ちゃまが中庭で意識を失って倒れている。


 息を切らした屋敷勤めのトウィーニーの一人が、部屋に飛び込んでそう叫んだ。


 彼女の無礼を責めるまでもなく、女官長の私は事態の重さに血の気が引いた。一刻の猶予もない。浴室の清掃完了報告を中断させ、私は報告してきたトウィーニーと共に現場へと駆け出した。


 一体何があった。


 スカートの端を摘まみながら、殆ど全速力で回廊を走りつつ私は自問自答を繰り返す。


 ブライアン坊ちゃまは四歳。私のお仕えするシャイルー伯爵家のご次男さま。生来より体がご不自由というより、ご気性が内に籠るお方で、あまり外に出られるお方ではない。同い年の時には所領にある羊の牧場の柵に大声上げて突撃し、膝をスッパリ切るようなご長男のハイド坊ちゃまとは、同じお血筋なのに全くご気性が異なる。


 だが現場にたどり着いてみれば、屋敷の男衆に囲まれた意識の無いブライアン坊ちゃまと、屋敷の外壁に体を震わせ腰を抜かしているナースメイドの姿がある。失禁しているのだろうか、不快な臭いが現場を包んでいるが、そんなことを気にする余裕がある人間などここにはいない。


 屋敷の衛士長は自分の服を脱いで地面に敷きその上に坊ちゃまを横たえ、当家の専属医師が坊ちゃまの首筋に手を当てながら呪文を唱え必死に治療している。だが坊ちゃまの顔は青白く、一向に意識が回復する様子は見られない。


 医師や魔術師でもない私が治療の邪魔をしてはいけない。とにかくそう判断すると、腰を抜かしているナースメイドに近寄っていく。叱責されると思ったのか、そのナースメイドは悲鳴をあげながら手で後ずさりをするが、そんなことをしても屋敷の外壁を抜けることなどできない。たしか名前はケリーだったか。


「ナースメイド・ケリー」


 私は腰を落として彼女と視線の位置を合わせて睨みつけた。


「説明を。どうしてブライアン坊ちゃまが倒れたのです?」

「ヒッ……ヒッ……」

「今日はお部屋から出る日ではなかったはずです。何故、ブライアン坊ちゃまはお庭に出ておられるのですか?」

「あ、そ、その……お坊ちゃまがお出になりたいと……」

「わかりました。それで何故お倒れになったのです」

「そ、それは、わかりません」

「わからない?」


 私の声が強かったのか、ケリーは頭を両手で覆い再び悲鳴を上げる。だが、容赦するつもりは全くない。


 私がお仕えするシャイルー伯爵家はこの国の商務次官のお家柄。ご当主ロベルト様はまだ三二歳ではあるが、お世継の重要性は大貴族に勝るとも劣らない。他国との公務商取引だけでなく、各ギルドや自由都市との調整業務を為される御役目があり……上司である商務卿はお飾りで、実務を担う三人の次官の中でも最も秀でていると国王陛下もお認めになっておられる方だ。


 お家の跡継ぎは長子後継の律に従えばご長男のハイド坊ちゃまがなられるだろう。しかしもしハイド坊ちゃまに何かあった時……お家を支えるのはブライアン坊ちゃまなのだ。王国に仕えること九代一五〇年余。シャイルー伯爵家は一族寄騎郎党全て合わせて一千余。ご領地の民草を合わせれば二万余の命運がかかっている。


「何者かに襲われたのですか?」


 旦那様はお仕事柄、意見の相違から敵対者も多い。財務卿や軍務卿、工務卿といった直接的な利権のあるお仕事ではないが、各ギルドの利害関係の調整などで不利益を受けた側が恨みを持つこともある。恨みを晴らす為、暗殺者を送り込んでくる可能性もないわけではない。まして幼いブライアン坊ちゃまは、誘拐のいい標的になりうる。

 だがケリーは首を振ってそれを否定する。


「では何かにお躓きになったのですか?」


 ブライアン坊ちゃまはあまり外をお歩きにならない。足元が弱いことは常々心配されており、早いうちから衛士長による教練が必要なのではないかと言われていた。ハウスメイドと庭師により隙なく整備された中庭だが、幼いブライアン坊ちゃまが僅かな段差に躓いて、石畳に頭を打ち付けることもありうる。


 そもそもそういう事態を阻止するためにナースメイドが外出時には片時も離れず付いているのだ。もし付いていてそういうことがあれば……ケリーを解雇し罰を与えなくてはならない。

 だがそれもケリーはわかっているのだろう。必死に首を振って否定する。その表情は真剣そのものだ。


「では、一体どういうことなのです。突然、坊ちゃまが意識を失われたとでも、貴女はいうのですか?」

「どうやら、本当にそうみたいだ、女官長どの」


 その声は治療している医師のものだった。喜んで肯定するケリーを他所に私は、大汗をかき肩で息をするナモア医師の傍に移動した。無言で隣の衛士長のリボットに視線を向けると、歴戦の戦士である彼も頷く。


「最初は女官長のように躓いて頭を打ったと思って簡単な治癒魔法を使った。だが全く効果がない」

「……そうですか」

「女官長。ナモア先生はお若いが軍医も務めていたのは知っているだろう。治癒魔法が効いてないとか、先生の能力不足だとかいう疑いはないと思って聞いてくれ」


 私のこわばった声にリボットが即座に反応する。疑っているわけではないが、納得できる話でもない。それを感じ取ってリボットが注意をくれたのだろう。余計な気遣いだが、心が静まったのも確かだ。


「わかっています。先生、続きを」

「うむ。故に重症だと思いより強力な治癒魔法を使った。具体的に言えば戦場で両足を失い朦朧としている兵士が立ち上がろうとするくらい強力な奴だ。だがブライアン君は目を覚まさない」

「……もっと強力な治癒魔法が必要、と?」

「違う。そもそも怪我をしていないのだ。だからいくら治癒魔法をかけたところで意味がない。まったく私ともあろう者がとんだ茶番を演じたものだ」


 ナモア医師は大きく舌打ちしてこぶしを握り締める。そして左右を見回すと声を潜めて呟いた。


「天啓、の可能性がある」

「まさか……」


 天啓……それはお家にとってあまりにも重大な事案だ。王国国教会が言う、肉体は現世にありながら精神が天に捧げている状態。心臓は動き、呼吸をしているにもかかわらず、身動き一つしない『生きた屍』。食事は当然できない。吸い口を使って薄い流動食を口に流し込まれ、下は流しっぱなし。市井では家族親類だけで面倒を見ることが困難になり、教会に預けられ日をおかずして『天に召される』という。


「私も直接向き合うのは初めてだ。いろいろ調べてはみるが……女官長、衛士長。緘口令が必要だと思う。速やかに手配してくれ。私は衛士長とブライアン君を彼の自室に運ぶ」

「わかった。女官長、閣下がお戻りになられたら報告は俺と一緒に頼む。それと……」


 衛士長の視線が壁でまだ震えているケリーに向けられる。歴戦の戦士たる彼の仕事は命のやり取りだ。ナースメイドの細首など一瞬で刈り取れるだろう。部下である彼女の命を守るためには、十分に釘を刺さなければならない。私は溜息をつくと、再びケリーの下に向かっていき見下ろして言った。


「ケリー、貴女には約束してもらわねばならないことがあります」


 ※


 だが、その釘は僅か三日で抜かれることになった。


 いつものようにケリーが吸い口とタオルと下着を持ってブライアン坊ちゃまのお部屋に向かうと、坊ちゃまがベッドからでて窓の外から景色をぼんやりと見ていたという。そしてケリーの姿を認めると、手を挙げてあいさつしたと。


 天啓ではなかった。私は心底から安堵し、お休みだった伯爵閣下と奥様、ナモア医師や衛士長をおよびしてブライアン坊ちゃまの部屋に向かい……さらに驚愕した。旦那様や奥様の呼びかけに、ブライアン坊ちゃまは全く応えない。坊ちゃまに意識はあるのは間違いない。それは今までのブライアン坊ちゃまにはなかった深い知性を思わせる瞳の力強さからはっきりとわかる。


 だが言葉が通じないのはおかしい。ナモア医師はすぐに感づいたのであろう、ブライアン坊ちゃまをあっさりと呪文で眠らせた。


「ナモア先生。これはどういうことだろうか」

「先生」


 若いながらに卓越した辣腕商務官という仮面を脱ぎ捨てた父親と、貞淑で夫のいない領地をテキパキと切り盛りする気丈な貴婦人という評判などかなぐり捨てた母親の、戸惑いの視線を向けられたナモア医師の顔は、何か吹っ切れたように清々しかった。


「記憶を、無くされておいでです」


 私を含め、息を飲み戸惑う伯爵家家中を他所に、ナモア医師は淡々と言葉を続ける。


「ブライアン君は肉体的には全く正常です。私の睡眠術式に幼いながら抵抗しようすらしましたから、知覚にも問題はないでしょう。ですが明らかにこちらが誰かを理解していない。そして言葉を理解していない」

「……では、まるで赤子のような」

「そうです。戦場で若年兵が良く罹る『戦場症』によく見られる記憶障害に近い。戦場での負傷、恐怖と圧力に精神が圧迫され、自分の名前や家族、経歴何もかもを忘れてしまう……恐らくはその重度と見るべきでしょう」

「治るのでしょうか……その……」

「わかりません。記憶を取り戻した者もいるし、取り戻せず別人として生きる者もいました。ブライアン君がどうなるか、この非才では判断が付きません」


 ナモア医師の言葉に旦那様も奥様も言葉につまった。内向きのご気性とはいえ、ご家族にとってみればこれまでのすべてが忘れ去られるかもしれないのだ。私とて、これまでお世話した身。坊ちゃまから忘れ去られると言われれば、納得しがたいし、胸が締め付けられる。


 重い沈黙が部屋の中を覆う中、小さな影がナモア医師の前に立ち上がった。それはご領地から社交デビューの為に戻ってこられた三歳年上のハイド坊ちゃまだった。


「先生。ブライアンは死んだんですか?」


 遠慮呵責もないハイド坊ちゃまの言葉に、私を含め誰もが唖然としたがやはり最初に理性を取り戻したのはナモア医師だった。ハイド坊ちゃまめがけて振り下ろされる旦那様の拳を、医師とは思えぬ早業で素早く掴むと、ハイド坊ちゃまに応えた。


「死んでません。むしろ生き返ったというべきでしょう。記憶を無くされただけです」

「ブライアンは僕の弟に変わりはないんですね?」


 その言葉に、拳を掴まれた旦那様も、顔を両手で覆う奥様も目を覚ましたようにハイド坊ちゃまを見つめた。そうだ。聡明なるハイド坊ちゃまの仰る通り、ブライアン坊ちゃまはハイド坊ちゃまの弟君であり、シャイルー伯爵家のご次男様であられる。


「変わりません。伯爵閣下がどうお考えかまでは存じませんが」

「変えるものか。ブライアンは私とパスティーエの子であり、ハイドの弟だ。誰にも文句は言わせない」


 旦那様の力強い言葉に、その場にいる誰もが心を一つにした。一五〇余年の歴史を持つシャイルー伯爵家において、これほど家中が一つになったことはないだろうと、四〇年そこそこしか生きていない私でさえ思わずにはいられない。僅かな資産やたわいもない面子を巡って、兄弟で醜く争う家中など山ほど見てきたが、シャイルー伯爵家はきっと無縁だ。


「おい、ブライアン。のんびり寝てるんじゃない。起きろ」


 バシバシと容赦なく寝ているブライアン坊ちゃまの頬を叩くハイド坊ちゃまを、ブライアン坊ちゃまのベッドから引き剥がしながら、私、シャイルー伯爵家女官長のリフィージーは思わずにはいられない。


 いられないといったら、いられないのだ。

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