第2話 文明との遭遇

 結果的にメイドに挨拶したことが大いに問題視されたのは皮肉というモノか。


 ほうぼうの体でメイドは俺の部屋から廊下へと逃げ出し、体感時間一分もしないうちに複数の大人達が逆に部屋になだれ込んできた。背の高いのも低いのも。武装している者していない者。白い服に黒い服。当然服装にも容姿にも見覚えはない奴らばかりだ。


 彼らは俺の姿を見ると目が潤んでいるので、何らかの感動を得ているのはわかる。しきりに『ブライアン・○○○』『ブライアン・○×△◇』と言って頭を慎重にさすったり、体を触ったりしているところからして、この体の名前は少なくともブライアンというのは、なんとなく想像できる。


 だが彼らの言葉がどうにも理解できない。英語なのかフランス語なのか、はたまたアラビア語なのか他の言語なのか。少なくとも俺が知っている前世地球の言葉でないのは間違いない。ニュアンス的にはドイツ語……に近いのかもしれないが、それは単に巻き舌が多いからだけかもしれない。


 いくら言葉をかけても返事をしない(単に何を言っているのかさっぱり理解できず呆然としていただけなのだが)俺に、逆に彼らは困惑し、とりあえず優しい表情になった白い服を着た長身の男に抱きかかえられると、ベッドに横たらわされた。


「◎××・×◎E△・ブライアン・○○」


 そういうと額に手をかざすと、白い服の男は何か呪文のようなものを唱え始める。寝ろってことなのかなと思いつつも、じっとその掌を見つめていると段々と淡い光を帯びてくるのがはっきりとわかった。


 この世界の人間は呪文を唱えると体の一部が光るのかよ。というか、これは魔法なのか? 魔法のある世界なのか? そうなるとさっきまで考えていた世界観が大きく狂ってしまう。実に非科学的で、非現実的だ。眠くなってくるのは魔術のせいではなく、この幼い体が疲労と栄養不足で睡眠を欲しているからに違いない。だいたいここで寝たって、状況が改善するわけではないじゃないか。


 降りてくる瞼に果敢に抵抗しつつ、俺は掌を睨み返していたが……あっという間に意識を失った。


 ※


 再び目が覚めたのは夜だったのだろうか。部屋の中には蠟の臭いが充満していて、ぼんやりと明るい。


 寝たままの状態で首を動かすと、枕元に朝見たメイドとは違う年配の女性が座って俺を見ていた。視線が交わった瞬間、まさに『親戚のおばちゃんの微笑み』を浮かべた女性は、俺の背をベッドから持ち上げると、水をいれた木のコップを差し出してくる。


「w◎◇MM・×●◎・△□×・◎・ブライアン・○○」


 優しくそう俺に話しかけてくるが、やはり言葉を理解できない。ただブライアンというこの体の持ち主に対してこのおばちゃんが尋常ならざる忠誠心と老婆心を抱いているのはわかる。本当の親族かどうかまではわからない。


 水を飲みながらも考える。よくある転生ネタのネット小説。あれ本当にチートだ。特に言語関係。日本語が主体になっているとか、文字が日本語だとか。一番なのは意識しているのが日本語で、口に出るのが異世界の言葉とかいう奴。もしこの世界に魔法があるというなら、そっちの魔法を用意して欲しかった。


 そして想像するにこの体は三歳くらい。文明の度合い、生活水準、様式から想像するに、既に簡単な言語能力は収得していてもおかしくない。朝会った人達にしても、このおばちゃんにしても、目を覚ました体の持ち主は言葉を理解しているはずだと思って話しかけてくる。それに俺は応えることができない。


 元の体の持ち主がどんな子供だったかまではわからない。しかしながらこのおばちゃんとは普通に話せる関係にあった子供だったのは間違いない。今更ながら転生したということの意味の重大さが俺の心に重く圧し掛かってくる。


 異世界転生というジャンルでは、生まれたての赤ん坊になるパターンと、何らかの突然の衝撃によって『前世の記憶』を取り戻すパターンなんかがある。


 前者は生まれたところからこちらの世界の人間として認識されている、後者の場合はそれまで生きていた記憶をそのまま引き継ぎできるのだから異世界での日常生活が急変することはない。


 しかしこちらの世界で既に獲得していた知識の、一切合切を失って転生するのは難易度ハードどころではなく、近代的医療施設も精神医療に対する見識も、さらに言えば知的障害に対する福祉政策など欠片もないような時代では『狐憑き』の一言で抹殺される可能性すらある。


 この体の本来の持ち主は何処に行ってしまったのか。心の奥底とかに隠れているならはやく出てきてほしい。でなければ自分がこの体に転生した為に、『殺して』しまったことになる…… 


 前世、四〇歳になるまで、最期のバブルオフィスレディ以外、人を重く傷つけたり、まして殺したりするような経験はしなくて済んだ。ただでさえ脆いメンタルがだんだんと圧し潰されそうになる。


「すまない……」


 口から自然と謝罪の言葉が出る。誰に対してか。元の体の持ち主か。コップを持つ手が震え、頬を熱いものが流れる。安易に異世界転生を喜んではいけなかったのだ。


「ブライアン・○○! O△W×◎××L!」


 おばちゃんが心配そうに俺の肩に手を当て、揺さぶってくる。『どうしましたか?』『大丈夫ですか?』といったふうに。だが俺の口から出る謝罪の言葉が理解できないのか、おばちゃんは俺を揺する手を止めると、部屋から出てしばらくしてから脇に本を抱え、手に猫を持って戻ってきた。


「猫?」

「? ミャナコ・○△・◆◆・◎・ブライアン・○○」


 首を傾げるおばちゃんは、前世とほぼ変わらぬ姿の三毛猫を俺の股座当たりに置くと、本を開き、働き者のその指で猫の絵とその横に書いてある文字を指す。こちらの世界の言葉だろう。紙は羊皮紙。漢字でも表意文字でも絵文字でもない。似ているようで似ていないアルファベットだ。


「ミャナコ」

「ミャナ……コ?」

「ミャナコ・○×・ブライアン・○○」


 おばちゃんは猫を指差しながら、再び「ミャナコ」と言った。つまり猫のことをこの世界では「ミャナコ」というと言いたいわけか。どうやら俺が理解したと思ったおばちゃんは、次々と室内にあるモノを指差して言葉を俺に教えていく。コップを指差し「キャリコ」、蝋燭を指差して「キャッツエ」、窓を指して「オキノ」……


 まるで工事現場の指差確認のように、俺は言われた言葉とその対象物を順繰り繰り返していく。「ミャナコ」「キャリコ」「キャッツエ」「オキノ」……しばらくして自分の腹から音がなっていることに気が付いた。じっと見ていたおばちゃんも気が付いたようで、また部屋を出ていくと、薄くスライスした黒いパンとビーフジャーキーのような干し肉、それに何かの果物のドライフルーツをトレーに乗せて持ってきてくれた。


「□O×●△△ME・ブライアン・○○」


 すまなさそうな表情で差し出すおばちゃんに、俺は猫を下ろしシーツで簡単に手を拭きトレーを腿の上に置くと、思わず両手を合わせて小さく頭を下げた。その様子におばちゃんは衝撃を受けたようだが、俺はこの体の下の持ち主への謝罪も込めて少し長めに拝んだ後、パンをちぎって口に運んだ。口の中でボロボロと崩れつつ強い酸味が広がっていく。


 間違いなくライ麦パンなんだろうな、と思いながらゆっくりと二枚目、三枚目を流し込む。喉に張り付かないようにゆっくりと水を飲みつつ、また塩気の強い干し肉も磨り潰すように噛みながら、腹を満たしていく。差し出されたパンの半分で、胃は明らかに充足感で満たされた。


  食欲を満たされた後に襲ってくるのはやはり眠気だった。あの白い服の男に眠らされたにもかかわらず、この幼い体はまだ睡眠を欲している。うつらうつらしてきているのが分かったおばちゃんは、トレーを下げると俺の体をベッドに再び横たえさせた。そして枕もとに例の絵本と猫を置く。猫も眠いのだろう、体を丸めてシーツの下に潜り込んでいく。


 俺が閉じた目を僅かに開けた時、そこには小さく頭を下げて部屋を出ていくおばちゃんの姿があった。

 

 ブライアン。君はいろいろな人に愛されていたんだな。意図したわけではないのにそれを奪った俺を、許してほしいとは言わないが……少なくとも名に恥じぬ人生を送って見せよう。神様がいるならブライアンにそう伝えてほしい。


『ならばその名を高く広く、無敵の天地に轟かせ』


 どこからともなくそんな声が聞こえたような気がしたが、起きるつもりはさらさらなかった。

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