第3話 シャイルー伯爵家


 目が覚めてから二週間。ようやくまともに動き回れるだけの体力をこの体は取り戻した。


 それまでリフィージーという名前のおばちゃんと、ケリーという若いメイドの交互に世話されながら、猫と戯れつつ二人が持ってくる絵本を眺める日々。


 どうやら即処刑という話ではなさそうだが、他の人間に会うことなくこのまま部屋住みという名のニートとして暮らしていくことになるのだろうか。それなりの身分と資産を持ってそうな家だが、ずっと大人になってもこの生活を許してくれるとは到底思えない。『役立たず』はこういう時代においては悪徳以外の何物でもない。

 近々ではないにしろ、家から放り出されることも考慮に入れて、とにかくコミュニケーションを取れるようにならなくてはこの世界では生きてはいけない。


 まずは二人に絵本を読んでもらいながらその発音を真似して何とか会話をしようとする。繰り返し同じ単語を耳にするので、絵本の中と部屋の中のモノについてはだいたい理解できるのだが、文章を作るのは難しい。早い話が片言状態。


 むしろ意識を取り戻して二週間でここまで来たことに自分でも驚いてる。この体の出来が特段いいのか、それとも火事場のバカ力からなのか。子供の頭の柔軟性というか、単語はスルスルと頭の中に入っていく。なるほど幼児英才教育ってバカにしたものじゃない。英語教育で苦しんだ中学時代にこの能力があればなぁと思わずにはいられない。


 とにかくこのままでいいわけでもないので、ケリーにペンと紙を求めた。書いて覚えるというのは学習の基本だ。で、ケリーが持ってきたのは四方枠の中に蜜蝋を流し込んだ板と金属のペン(尖筆っていうらしい)らしきもの。それにヘラだった。蝋板っていうのか。書いたら溶かしてまた使えるし、ヘラで書き直しもできる。書き味は前世で経験したことがないほどに悪い。


 与えられた絵本が羊皮紙だったから、紙が貴重品なのは推測できた。おそらく石板と白墨を持ってくると思ったけれど、よく考えてみればここは寝室だ。白墨がボロボロ落ちたりして部屋が汚れることを嫌がったのだろう。わかる気がする。


 書き取り練習で毎日A4位の蝋板を数枚消費するに至り、リフィージーは俺を初めて部屋から出してくれた。


 転生して初めて寝室から出る(トイレは予想通りオマルだった)喜びに、俺は年甲斐もなくワクワクした。初めてのお外というよりは、むしろ牢屋から釈放された元囚人という心境。


 リフィージーに手を引かれながらゆっくりと階段を降り、手入れが見事にされた中庭に降り立った時の解放感は間違いなくこの二週間で一番だった。俺が足を止め、突き抜けるような真っ青な空と、泳ぐ雲を見上げるのを見て、リフィージーはケリーをどこかに使いにやった。


 しばらく俺がベンチに座るリフィージーの腿の上に座っていると、ケリーに案内されてやってきたのは例の白い服の男だった。俺に対して左胸に右手を当てて浅くお辞儀するのを見ると、やはりこの体の持ち主が、少なくともこの屋敷で最も身分が高い家族の一員であると理解できる。


「ブライアン 君 体 大丈夫 ですか?」


 まだはっきりと文章として認識できないが、白い服の男は医師なのかもしれない。体調を心配しているのは間違いないが、細い目から俺に向けられる視線は、明らかに観察者の目だ。

 それにしても身分差はあるだろうが、このままリフィージーの腿の上に座ったまま答えるのも何か恥ずかしい。俺は短い足を延ばして庭に立つと、白い男を見上げて小さく頭を下げた。


「大丈夫 です。 はじめまして 白い 服 人」

「……はじめまして。 私の 名前は グルーム ナモア です。 ○× を しています」


 はじめまして、と応えるところでグルーム=ナモアと名乗った白い服の男は、一度言葉を呑んだ。やはりこの人もこの体の持ち主と顔見知りだったのだろう。俺に今までの記憶がないというのもすぐに悟ったようだった。○×は初めて聞く単語だが、医師か教師かそれとも魔術師、と見るべきか。いずれにしてもこの世界における知識階級に属する人で、相当に勘の優れた人のようだ。


「ブライアン 名前 わかりますか?」

「ブライアン わかります」

「わかりました。 リフィージー△× 聞きました。 ブライアン君 私と 勉強 しますか?」

「はい。 よろしくお願い申し上げます」

「お願いします 大丈夫 です。 私は シャイルー×●△RR の ○× です」

「はい」


 恐らく敬語の使い方の間違いだろうか、早速ダメだしされた。どうやら教育に関してグルーム=ナモア氏は、正確性に手を抜くつもりはないようで、変な意味では安心した。よくある甘やかしで実権を握ろうというタイプに当たったら目も当てられない。


「蝋板 を 見ました。 ××な 文字 です」

「はい」

「×△□ も 続けましょう。 私も ブライアン君 本 あげます」

「はい」


 そういうとグルーム=ナモア氏は、一言二言リフィージーと言葉を交わす。そこでリフィージーがナモア○×と話しかけた。ということはナモアが姓なのか。じっと二人の会話を見ていると、不意にナモア氏が俺の俺の肩に手を伸ばして二度ばかり叩いて呟くように言った。


「ブライアン君は 頭 よい。 いい×●△RR の ×●に なれる」

「ありがとう ございます ナモア……」

「『ディクティール』 です」


 頷いたナモア氏は今度こそ俺とリフィージーの前から立ち去って行った。颯爽と言った言葉がよく似合う後姿だ。イケメンではないが、しっかりした大人というのだろうか。ついぞ前世で四〇年生きてもなれなかったような、自分に自信のある大人の男だった。


 ※


 それからたぶん三〇日。ナモア氏から届けられた単語辞書と会話の教科書を持ち、リフィージーかケリーのどちらかを連れて中庭の片隅でひたすら単語と会話と書き取りを続けた。雨の日を除いて、ひたすら蝋板と二人のお付と会話をする毎日。自然と庭を掃除する庭師やハウスメイドと顔見知りになり、脳味噌の中に人名と単語の山を築いていく。


 そしてこの遭遇がこちらの意図したものでないのは確かだ。


 俺より幾つか年上の、身なりのいい子供が時折中庭を走っていたのはわかっていた。その子供がリフィージーの言う自分の兄だということも知っていた。礼儀として挨拶しなければならないのかとリフィージーに聞いた時、必要はないと確認も済んでいた。


 だが今、俺の目の前に俺の兄という少年が、蝋板に影を落とすように立っていた。癖の強い鹿毛の髪が肩口まで伸びていて、妙に頭が大きく見える。


「お前、ブライアンだよな」


 女官長という屋敷でも有数の身分も持って迫力のある体格のリフィージーではなく、一介のナースメイドで線の細いケリーが付き添っているタイミングで話しかけてくるあたり、小賢しいというのか。俺は思わず苦笑を隠せなかったが、それが癇に障ったのか、少年は両腰に手を当て俺に顔を寄せてきた。まるでカツアゲするヤンキーのごとく。


「はい、ブライアン です。 ハイド兄上。『はじめまして』」

「……お前、記憶がないというのは本当か?」

「はい。申し訳ありません」


 七歳くらいの子供にムキになっても仕方ない。こっちも四歳のガキだが、中身は四〇のおじさんだ。今まで意図していないとはいえ少なくとも身分制、しかもある程度の規律がある貴族社会で無視されることは、常識的に面子に関わることだ。こちらの世界の兄が怒るのも無理はない。素直に謝っておくのが一番と判断したのは処世術だと思ったが、この兄上の反応は違った。


「何故、謝った?」

「それは 挨拶 遅れたことを、気にしている と」

「お前、本当に一月前記憶がなかったんだな?」

「はい」

「なら謝る必要はない。知らなかったのだからな。無知を責めるのは傲慢だし、必要ない時に謝るのは▲×だ」


 そういうとハイド兄上はフンと鼻息を一つ吐くと、右腕をぐっと伸ばし、俺の頭をガシッとわしづかみした。ケリーが慌てて止めようとするが、俺は手を伸ばして止める。ハイド兄上が本気俺を痛めつけようとしてないことは指の力入れ具合で分かる。


「俺はハイド=シャイルー。お前の兄であり、このシャイルー伯爵家の長男だ。お前は次男」

「はい、そうです」

「三男だといったら驚くか?」

「そうなんですか?」


 まさかもう一人兄がいるのか。リフィージーもそんなことは言っていない。もしかしたら父親に妾がいて、そこに子供がいるということなのか。俺が思わず目を見開くと、ハイド兄はにっこりと笑って俺の頭をガシガシと搔き毟った。


「記憶がないというのは本当だったんだな。お前が嘘つきでなくてよかった」


 カマをかけられた。たかが子供に! 俺は下唇を噛んで黙ると、ハイド兄は俺の頭から手を放して、ベンチに腰を下ろし、容赦なく俺の手から蝋板を取り上げて書いてある文字を黙読する。基本的に単語と例文しか書いていないから何ともないが、何となく添削されている気分で落ち着かない。


「いいだろう。父上と母上に報告しておく」


 口に出しても一〇回はリフレインできる位経過した後、ハイド兄上はパタンと蝋板を合わせ、あっさりとした口ぶりで言った。


「父上と母上、ですか?」

「お二人ともお前のことをいたく心配しておいでだが、これだけの文章と会話ができるなら安心されるだろう」

「はぁ」

「リフィージーにも俺から言っておく。それまでにテーブルマナーを学んでおけ。体も鍛えるんだ。弱い奴は貴族であっても平民に馬鹿にされるぞ」


 ポンポンと二度ばかり俺の肩を叩くと、ハイド兄上は中庭から出ていった。


 どうやら年相応の言語能力は獲得できたということだろうか。兄の姿が中庭から見えなくなるのを待って、俺は大きく溜息をつくと、今日は雲一つない爽やかな空を見上げた。


 出生チートについてはこの世界においては恐らく最高の恩恵だろう。伯爵家の次男ということは王族ではないし、ハイド兄上に何かなければ文字通り『部屋住み』の一生だ。

 そしてハイド兄上が結婚して子供が生まれれば、そのお役からは解放される。それまでに自分で生計を立てていける位の能力は身に着けていかなければならない。まず間違いなく生活保護なんてないからな。どんな職業があるかはわからないが、パンと干し肉があるということは少なくとも第一次産業がないわけはないだろう。今のうちに農業の手ほどきでも庭師から受けておこうか。


 だがまぁ、それはともかく。問題となるのは兄上の言葉だ。


 弱い奴は貴族であってもの平民に馬鹿にされるということは、権威云々はともかく個人の実力が人を計る指標の一つであるということだ。弱いという言葉が純粋に肉体的にということであるならば、世界秩序はやはり暴力によって支えられているという証左であり、推測される時代からも住んでいる地域が武力によって維持されているということだ。


 ということは、伯爵家の次男坊という地位はかなり危険度が高い。家や国を巻き込む戦争なり紛争が発生した時、成人していれば間違いなく出陣ということになる。戦で負けようものなら、支配下の平民からも侮りを受ける。そう考えると少しばかり気が重い。

 悠然と空を飛んでいく鴨みたいな鳥の群れを眺めて、今日何度目になるかわからない溜息をつく。そういえばあともう一つ、何か重要なことをハイド兄上は言っていなかっただろうか……



「マナーです。マナーが人を貴族といたします」


 四日後。リフィージーに初めて連れてこられた一室に、眉間に皺を寄せた見るからに不機嫌と言った表情のおばさんが待っていた。目は細く、鹿毛の髪をギチギチに後頭部で纏め、ボタンの多い地味な色合いのドレスに身を包んでいる。

 同じ地味でもリフィージーはいかにも女官長といった制服だったが、このおばさんはまさに家庭教師カヴァネスといった形だった。フォックスとか付けて智をクイッとすればもう完璧一〇〇点満点。


「ブライアン様に一通りのマナーをお教えするよう、伯爵様とハイド様よりご依頼を受けましたリリアンナ=チラナと申します。どうぞお見知りおきを」


 大人の中では小柄なケリーよりもさらに一回り小柄なリリアンナ先生はそう言うと、背筋をピシッと伸ばして腰を下ろす見事なカーテシーを披露する。小柄でさらに腰を落とす形になるので、彼女の視線は俺とほとんど同じになる。


「ブライアン坊ちゃま。リリアンナ様は当家の縁戚であるチラナ男爵家の総領夫人にあらせられます」

「そうなんですか?」

「左様です。夫ダハマン=チラナがシャイルー伯爵家の血縁になります」


 ということは先生とは直接の血縁関係はない、ということか。だがハイド兄上と会話してすぐ手配されたのだろうか。妙に怒りっぽい表情なのは何かそのあたりで先生に迷惑がかかったのだろうか。


「ご迷惑でした?」


 青筋が浮かんでいるというよりは面倒だという表情の先生に、俺は言った。立場的に雇用側に立つ俺としても、不機嫌な態度が気に障ったというより、嫌な思いをしながら仕事をするのは辛かろうという前世の経験からくる正直な思いを吐き出しただけだ。

 男爵夫人というのであれば、少なくとも四歳児の家庭教師をしなければならないほどの生活苦とは無縁であると考えた所以だったが、反応はこちらの想像以上だった。


「申し訳ございません!」


 リリアンナ先生はカーテシーよりもさらに深く、腰と膝の関節限界を試すように、首を垂れる。考えてもみなかった反応に、俺は思わずリフィージーを見上げると果たしてリフィージーの顔には悪辣というより『ザマァミロ』いった笑顔が浮かんでいる。

 いわゆる本家の女官長と分家の夫人みたいな間柄になるのだろうが、この二人には何か深い因縁でもあるのだろうか。だが頭を下げてばかりでは『授業』は進まない。


「先生、お顔を上げてください」

「いえ、いえ、惣領の御子息様に大変失礼なことを。規律マナーを教えるべき立場として恥ずべきでした」

「ですから……」


 一向に顔を挙げてくれないので、俺は子供の無邪気さ無罪をフル活用して横顔を覗き込むと、下唇を噛み締め、眉を強く寄せているのが分かった。そんなに嫌なのかよ、と思いつつも力の入らない体を思いっきり伸ばして、先生の両肩を床から引き離した。


「父上の依頼は命令です。授業をおねがいします」

「はい、はい……かしこまりました。ブライアン様」


 もしかして泣いていたのか。先生はハンカチで目をぬぐうと、目を開けて俺を正面から見据えた。だが相変わらずの不機嫌な眼差し。言葉と表情が全く異なる人なのか……それとも異常人格者なのか。いや違う。この人、単に視力が弱いだけじゃないのか?


「先生はメガネを使わないのですか?」

「『メガネ』、ですか?」

「はい」

「……それはいったいどういうモノでしょうか?」


 首を傾げる先生に、俺は困った時のリフィージーとばかりに見上げると……こちらも何を言っているんだといわんばかりに俺を見ている。単語辞書には確かになかったが、視力を矯正するもので高級品なのかもしれない。俺は両手の親指と人差し指で輪っかを作り、「目、良く、見える」と単語をつなげて説明したが、二人とも全く理解できていない。


 え、もしかしてこの世界にはまだメガネがないのか? 確か一三世紀にはヨーロッパで普及しているはずなんだが……この世界は一体どういう技術ツリーなのだろうか。


 その日の授業は結局、お辞儀の仕方の練習だけで、それ以上進むことはなかった。

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