第4章:限界と焦燥 – 黒い衝動
渡辺健二は会社を早退して、細い路地の奥にある心療内科のドアを押した。
差し込む夕方の光がかすかに赤みを帯び、廊下の壁をじんわり照らしている。
受付を済ませると、狭い待合室で自分の番が来るのを待ち続けた。
どこかから聞こえる時計の秒針が一つひとつ頭の中を殴るようなリズムを刻むたび、胸がざわつく。
「渡辺さん、どうぞ」と名前を呼ばれ、簡素な診察室に通される。
白衣をまとった医師は初老の男性で、柔らかな口調で席を勧めてくれる。
渡辺は微かに震える手を膝の上で組み、肩を縮めたまま「夜が眠れなくて…」と切り出した。
それから、上司の執拗なダジャレ強要と、その幻聴に悩まされる経緯を端的に説明する。
医師は真剣に耳を傾けながら診断を進め、メモを重ねていく。
「かなりのストレス状態に加え、不眠症の傾向が強いですね。
必要なら抗不安薬も考えますが、まずは軽めの睡眠導入剤を出しておきましょう」
渡辺は力なく頷き、「ありがとうございます」とだけ告げて処方箋を受け取った。
会社を出た時にはひどかった頭痛が、診察を終えてもまったく軽くならない。
処方された薬が効いてくれるのだろうかという不安ばかりが胸に残る。
だが何もせず限界を超えるよりは、少しでも措置を講じた方がいいのではないか。
そう思わなければ、自分を繋ぎ留めておく手立てが見つからなかった。
翌日の昼下がり、渡辺が書類整理に没頭していると、山田義男が勢いよくデスクを叩く。
「お前、今朝の ‘髪が抜けている事をカミングアウト。神に頼んでふさふさにしてもらわないと’ ってギャグ、聞き逃しただろ?
せっかく俺が朝イチで披露したのに、リアクションが足りなかったぞ」
自信たっぷりのその目が、部下に従順な笑いを要求してやまない。
渡辺は書類の文字が急にぼやけたような感覚を覚え、のどの奥が焼けるように熱くなる。
山田はさらに声を張り上げる。
「昨日も ‘私が渡したいモノがある’ って言ったら、みんなわははと笑っただろ。
でもお前だけだよ、まともに笑わないのは。
何か文句でもあるのか?
ああ、そうか。
お前少し暗いから、趣味作れよ。スキーが好きとか言えよ。
はっはっは」
周囲には苦笑がかすかに漂い、それとなく席を外す者もいる。
しかし山田は気づかないふりをして、渡辺の反応を執拗に待ち構えていた。
「すみません…」と呟くように声を出しても、どうしても笑顔に繋がらない。
眠れない夜を幾度も過ごし、医師から処方された薬を飲んでも幻聴のように頭を離れない山田の声。
「いくらの値段はいくらかなあ」とか、「ドラえもんが『どら、えーもん(いい物)見つけた』って言うかもなあ」とか。
そんな駄洒落の断片が脳内で延々とリフレインするたび、全身がこわばっていく。
不意に山田が声のトーンを落として、「この前のミス、どう責任取るつもりだ?」と問い詰める。
渡辺はどこか遠い場所の音を聞いているように、ぼんやりと相手の口元を見つめる。
「腹が空いて集中できないのか? ‘腹持ちの良い餅’でも食べとけ。
‘なかなかお腹が空かない’ なんて言うなよ。
お前がしっかりしないと ‘俺の腹がハラハラするんだよ’」
ダジャレとは名ばかりの、押し付けがましい言葉が喉をふさぐ。
渡辺は何とか声を出そうとするが、呼吸が詰まって気管から先に言葉が通らない。
夕刻を迎える頃、山田が新たな資料を持ってきて、イライラした調子でデスクを指さす。
「なあ渡辺、 お前のその辛気臭い顔見てると ‘イスラエルの椅子’ に座って瞑想でもしたい気分だ。
はっはっは、面白いだろ?
笑えよ」
まるで正気を失いかけたように、高揚と苛立ちが混じった声が耳元に突き刺さる。
渡辺は頬をひきつらせながらもうつむき、その場に居続けるしか選択肢がない。
夜が深まると再び訪れる悪夢。
ベッドに横たわり、目を閉じても耐えがたい耳鳴りと声の渦が押し寄せる。
幻聴のように浮かび上がる山田のダジャレが、今や十個や二十個では収まらない。
「田端でバタバタしてたら、疲れただろう?
カバのかばん持ちでも雇ったらどうだ?
亀の仮面舞踏会に参加してこいよ。
お前は ‘まわしをまわしたい’ のか?
ラーメンすすってたら ‘ああ麺(アーメン)’ と祈りたくなったわ。うまくねえか?
プールで泳いだら ‘プル(ぷる)ぷる’ 震えが止まらんか?
家から駅まで走ったら ‘いえき(胃液)’ 出そうになってな、はっはっは。
ミーティングが延びたら ‘のび太(のびた)’ みたいに昼寝しそうになるな。
夜道でこけたら ‘よみちがい(読み違い)’ して足くじいたってか。笑えよ。
夏にやたらとうるさいセミナーがあってな。セミのセミナー。なんてな。
悪の十字架(開くの十時か)にかけられて、恐怖のみそ汁(今日、麩のみそ汁)でもすするか?」
ひび割れた上司の声が一斉に耳朶を打ち、渡辺は布団の中で叫びそうになる。
薄い睡眠導入剤を飲んだところで、この執拗なざわめきが消えるわけではない。
薄闇の中で天井を見つめながら、渡辺は何度も呼吸法を試みるが、肺が思うように膨らまない。
「いっそ、あの存在が消えてしまえば…」
そんな危険な願望が、いまだかつてない鮮明さを伴って意識の底から立ち上がってくる。
明くる朝、目の縁に血走った赤みを湛えたまま出社した渡辺は、書類を見つめるふりをしながら落ち着かない視線を机上に彷徨わせる。
「本当に…殺してしまえば楽になるのか?」と、頭の中で問いが形を持ち始める。
相手が病的なまでにダジャレをぶつけてくるというだけで、殺意が芽生えるなんて、到底理解されないだろう。
それでも、呼吸も睡眠も奪われつつある心境で、ただ逃げ場なく追い詰められる未来を考えると、思考が極端に走るのを止められない。
山田の足音が遠くから近づいてくる。
その音だけで鼓動が早まり、指先に汗が滲む。
笑わなければまた叱責され、笑っても更に突き回されるのがわかっている。
断ち切るにはどうしたらいい?
刹那的な疑問が、渡辺の理性をかすかに侵食し始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます