第3章:歪む視界 – 孤立への道

朝一番に届いた社内メールを眺めながら、渡辺健二はいつものようにパソコンの画面に集中しようと試みていた。

しかし言葉の端々が頭に入らない。

先ほどからこみ上げる頭痛が視界を霞ませ、思考の流れを寸断するようだった。


周囲の同僚たちは笑顔で雑談を交わし、書類を手にオフィスを行き来している。

「また山田部長、ダジャレ言ってるよ」と誰かが小声で呟いても、皆はそれを聞き流すか、あるいは苦笑いで済ませてやり過ごしていた。

渡辺だけが、どうしてもうまく笑えない。

笑えないことを指摘されるのが怖くて、さらに萎縮してしまう。

その堂々巡りから抜け出せなくなっていた。


「おい渡辺。

聞けよ、俺がな、この前 ‘屋根ってやーねー’ なんて言ったら、みんな大爆笑だったんだよ。

面白かったろ?

ほら、笑ってみろよ」

山田義男がわざと人の多いフロア中央で声を張り上げる。

背広の上に羽織った薄いコートの襟をいじりながら、誇らしげに胸を張っていた。

渡辺は咄嗟に愛想笑いの形だけ作るが、喉の奥から苦い感覚がこみ上げる。


同僚たちは見て見ぬふりをするか、気まずそうに仕事の作業に戻っていた。

誰もが何とか、できる範囲で日常を保っているように見える。

けれど渡辺は、その日常の只中でひとり気が遠くなりそうな苛立ちを抱えている。


「昨日さ、犬のフンを踏んだんだわ。

踏んだら踏んだで、俺のオレンジ色の靴下が悲鳴をあげちまったよ。

はっはっは。

何だよその顔、もっと盛り上げろって。

部下の靴がぶかぶかって話もあるぞ」

山田はそう言いながら、自らの言葉のおかしさに大声で笑う。

すぐ隣では女性社員が困ったように口角を上げ、渡辺をちらりと見やる。


部長のダジャレを楽しんでやり過ごす者たちは、たとえ内心うんざりしていても、それが社会人としての処世術だと思っている。

だが、渡辺にはどうしてもそれができない。

笑顔を演じる時間があまりに苦痛で、呼吸が詰まりそうになる。


自席に戻ったとき、彼の携帯電話が震えた。

画面に表示された母の名前を見ても、渡辺は受話ボタンを押さない。

ここのところ実家との連絡を避けている。

家族にも相談しにくい。

何度か言葉を濁しながら話そうとしたことはあったが、「そんなことで悩むなんて甘えている」と一蹴された過去が胸に刺さっている。


「渡辺、ちょっといいか」

山田が硬い声で呼び止める。

「お前、この前の会議でまともなリアクションなかったよな。

俺が ‘キノコを食って生きのころう’ とか言って場を和ませようとしたのに、全然笑わないから空気悪くなったじゃないか」

不機嫌そうに腕を組む山田の目には、部下が上司の顔を潰したという怒りすら宿っている。

「別に、お前に嫌われたいわけじゃないんだよ。

でも俺のギャグにしらけた空気を作られたら、困るんだよな」


渡辺は「すみません」とだけ呟いて視線を逸らす。

山田はそれを聞き流すように、デスクの上に放置したプリントを手に取り、あからさまに大きな溜息をついた。

「いくら真面目に仕事してても、周りがぎすぎすするだろ?

たまには ‘愛しい糸’ を紡ぐような会話をしろっての。

そうしないとチームワークが乱れる」

部長としての説教だと言わんばかりの口振りだったが、渡辺には何も返す言葉が見つからなかった。


その日を境に、彼はますます周囲との温度差を意識するようになる。

仕事で多少の成果を出そうが、笑っていない限り山田の機嫌を保てない。

無理やり微笑めば「大げさだよ、もっと自然に笑え」と叱られ、笑わなければ「何か不満なのか」と詰問される。

職場の同僚たちも、山田の言い分に素直に従えない渡辺を腫れ物のように扱い始める。


家に帰っても静まり返った部屋があるだけで、会話をする相手もいない。

夜中に目が覚めることが増え、ふと真っ暗な天井を見つめながら幻聴のようなものを耳にしてしまう。

山田の声が、頭の中で反響している。

「俺のオレンジ、もらってくれよ。

オレンジ食って、オレん家でパーティとかどうだ?」

空耳だとわかっていても、息苦しさは消えない。

汗ばんだシャツを着替えても、頭痛がまったくおさまらない。


翌朝、出社した渡辺は鏡に映る自分のやつれた顔色を見て、小さく嘆息した。

頬がこけ、目の下に薄黒い影がはっきりと浮かんでいる。

昨日の会議で山田から受けた叱責を、まだ思い出すたびに胸がざわつく。


始業後、渡辺が書類整理に没頭していると、山田が背後から肩を叩く。

「池の鯉に恋するって言葉、知ってるか?

まあ俺は別に鯉に恋してないけどな。

はっはっは。

ほら、ちょっと笑えって」

声を詰まらせたまま振り返ると、山田の目は笑っていない。

乱暴とは違うが、一方的な威圧感だけが押し寄せてくる。

周囲にいた同僚たちが自分のモニターに視線を戻す音まで聞こえてくるようだった。


渡辺は口角をわずかに持ち上げるが、どうしても嘘くさい。

この場しのぎの表情など山田にはすぐ見透かされるだろう。

それでも従わなければ、また執拗に叱責される。

「笑わないなら、お前はチームの輪を乱す厄介者だ。

そんな風にレッテルを貼られるのはもうたくさんだ」

そう自分に言い聞かせ、どうにかかすれた声で相槌を打つ。


ふと気づけば、机に並んだ書類の文字が二重に見え始めている。

視界の端がゆらゆらと揺れ、めまいがする。

「やばい」と思いながら背筋を伸ばそうとするが、首のあたりに力が入らない。

幻聴じみた山田の声は耳から離れず、夜中に何度も襲われた頭痛がぶり返してくる。


職場のざわめきと笑い声に紛れて、渡辺の思考はどこか遠い地点まで飛んでいってしまいそうだった。

無理に現実へ引き戻そうとすると、息苦しさが増すばかりだ。

逃げ出す先を探すように視線を動かしても、そこにあるのは淡々と続く労働の空気と、上司のつまらない冗談に従順に笑う人々の姿だけだった。


どの顔も、一見すると穏やかで優しげな表情を浮かべているように見える。

しかし渡辺には、その笑顔の奥から、自分を非難する視線を感じ取ってしまう。

「なぜ合わせられないのか」と。

「なぜこんな些細なことで悩むのか」と。


自分の居場所を探そうとしても、そこに用意されているのは、耐えきれないほど寒々しい言葉の応酬だった。

山田のダジャレは誰にとっても些末な雑音でありながら、渡辺にとっては深い裂け目を生む猛毒のような存在へと変わっていく。

そして、その猛毒が徐々に彼の心の針路を歪ませていく。

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