第2章:静かなる毒 – オフィスの風景
午前の社内放送が終わるころ、渡辺健二はいつもの席でこつこつとパソコンのキーボードを叩いていた。
室内には静かなエアコンの風が流れ、規則正しい打鍵音が響いている。
書類の山や雑然としたデスクの上は、どこか無機質な光に包まれていた。
「おい、みんな揃ってるか。
‘ジム’行ったか?
俺は ‘事務所(じむしょ)’ にいるから、わざわざジム通いなんていらねえんだよ、なんちゃって」
いつものように山田義男がオフィスに入ってくると、周囲の部下たちは反射的に笑みを作り、ほとんど儀礼のように拍手をする。
彼は背広の上着を小脇に抱え、やや乱れたネクタイを気にも留めず、大柄な身体をゆさゆさと揺らして自席に腰を下ろした。
渡辺は薄く笑みを引きつらせたまま、自分の端末に視線を戻す。
こうしたダジャレに大仰なリアクションを求められる日々が続くうち、それらが微細な針のように精神の内部をちくちくと刺してくるのを感じていた。
本人は場を盛り上げるつもりで言っているのだろう、そうわかってはいても、心のどこかで何かが逆撫でされる。
「いやあ、昼飯は ‘たい(鯛)’ をたべたいなあ。
だって ‘めでたい(目出度い)’ だろ?
はっはっは」
昼休み前の社内に響いたその声に、周囲の部下たちは一瞬だけ沈黙し、間を埋めるように笑い声をあげる。
渡辺は口をわずかに開いて笑顔らしきものを作ったが、体の内側で生まれる嫌悪感を拭いきれない。
ほかの同僚はそこそこ器用に話を合わせられるらしく、山田の言葉尻を拾い、愛想笑いをしたり冗談を言い返したりする光景が目に入る。
しかし渡辺は、声を上げて笑うという作業そのものに疲弊していた。
普段の会話でもほとんど口を挟まずにやり過ごす性格ゆえ、ダジャレへの巧みな返答など最初から期待されていないはずなのに、山田は執拗に彼の反応をうかがってくる。
「お前さ、そんなに固い顔してたら ‘肩が固い’ って肩が文句言っちまうぞ。
もっとほぐしてやらねえと、俺のジョークも息苦しいだろ?」
会議が終わったあと、廊下で山田が渡辺に声をかける。
その表情は底意地の悪い笑みではなく、むしろあっけらかんとした明るさを帯びていた。
そこに妙な後ろめたさや罪悪感はまったく漂っていない。
渡辺はその無自覚さこそが、自分をずたずたにしていく凶器なのだと感じ始めていた。
会社という場は、どこまで踏み込んでも仕事の成果や連帯感といった大義名分がまかり通る。
山田にとっては、部下を鼓舞するためのジョークのつもりなのだろう。
一方、それを真面目に受け止めて苦悩する渡辺の姿は、傍から見ればただの「空気の読めない男」にしか映らない。
「こんなことくらいで」と笑い飛ばせない自分への苛立ちが、日々の疲労に拍車をかけていく。
昼休みになり、食事を終えた同僚たちはデスクに戻って雑談を始める。
山田はデスク脇で電話を取りながら、時折こちらを振り返っては、何か新しい言葉遊びを見つける機会をうかがっているようだった。
どこかで時計の秒針がカチカチと鳴る音が聞こえる。
渡辺は空調の風にのせて運ばれる不安と苛立ちを、どうにも抑え込めないでいる。
「あ、そうだ。
今日の仕事が終わったら、みんな ‘もぐらのようにモグモグ’ 食って元気出せよ。
酒もほどほどにしとけよ?
‘さけをのみすぎるのをさけろ’ ってな。
はっはっは」
山田の声が響くと、部下たちは動きを止め、仕方なく相槌を打った。
渡辺は凝り固まった笑顔を作ろうとしながら、胸に広がる痛みを奥歯で噛み殺す。
そんなある午後、山田が遠くから「今日の夜(よる)はどこか ‘寄る(よる)’ つもりか?」と言いながら近づいてきた。
「俺は 飲み屋に寄りたくなるタイプでな。一緒に行くか?
はっはっは」
笑う同僚の視線が突き刺さり、わずかに残った渡辺の自尊心を削るような空気が漂う。
胃のあたりがひどく重く、目の奥で炎のような痛みが瞬間的に熱を放つ。
孤立しそうな気配を察したのか、隣の席の同僚が気遣うような視線を向けたが、それが余計に惨めな自分を照らし出すようだった。
小さなダジャレの積み重ねが、どれほどの殺意や絶望を生むだろうかと自問する。
常識的に考えれば、言葉のやりとりなど些細なストレスでしかないはずだ。
それでも、渡辺にはその些細さがどうにも我慢ならず、笑顔を取り繕う時間が増えれば増えるほど追い詰められていく自分に気づいていた。
日が落ちる前から残業が決定することも多く、山田の言動は夜になるとさらに冗談めいてエスカレートしていく。
「おい、今度は ‘いるかはいるか?’ なんて聞いてくる客がいるって話、聞いたか?
そんな奴いないか。はっはっは。」
そう言って自分で笑う山田の背を見ながら、渡辺は小さくため息をつく。
指先はキーボードに触れたまま硬直し、脳内では何度も「笑わなきゃ」と繰り返すのに、顔の筋肉は思うように動かない。
こうした何気ない一日一日が、ひび割れた笑いの殻で覆われた地獄に感じられるようになっていく。
渡辺の視界の端で山田が新たな冗談を思いついたのか、ほくそ笑むように口角を上げていた。
その瞬間、どうしようもないほどの疲労と苛立ちが、胸の奥から絶えず沸き上がってくるのを彼はまた感じた。
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