ダジャレ殺人事件 ~ 耳を蝕む言葉の牢獄
三坂鳴
序章:血に濡れたデスク ~ 第1章:取り調べ室にて
序章:血に濡れたデスク
重たく湿った空気に包まれたオフィスの一角で、渡辺健二は血溜まりの中央に立ち尽くしていた。
いつもは散らかった書類とパソコンだけが置かれた山田義男のデスクが、暗い赤色の液体に染め上げられている。
半ば崩れ落ちるように横たわる山田の胴体は、小刻みに震えていたが、やがて不自然な角度で動かなくなった。
夕刻の蛍光灯の下、渡辺の足元から鼻を突くような鉄の匂いが立ち上る。
「渡辺さん……何があったんだ!」と誰かが言う。
声の主は若い同僚の一人だったが、その瞳は驚愕と恐怖に見開かれていた。
彼の周囲にも、上司の断末魔を聞きつけて集まってきた社員たちがいる。
しかし一人として近寄ろうとはしない。
渡辺は大きく広げた両手のひらを眺め、そこについている血の感触から意識を逸らせようと瞼をきつく閉じる。
これほど耳鳴りがひどいのは初めてだった。
まるで天井から巨大な鈍器が落ちてきて頭を叩き続けているかのようだ。
いっそ気を失ってしまえればどんなに楽か、とさえ考える。
けれど現実は容赦なく、山田の横に倒れた椅子のきしみと同僚たちの絶句した息づかいを突きつけてくる。
数分もしないうちに警察のサイレンが社内のざわめきをさらに増幅させた。
オフィスのドアを開けて入ってきた刑事たちは、血の臭いと異様な静寂に一瞬息を呑んだようだった。
先頭に立つ佐伯刑事は、淡々とした視線で周囲を見回し、何が起きたのかを冷静に整理しようとしているのがわかる。
その後ろにいるのが坂口刑事で、短く刈り込んだ髪と鋭い目つきが特徴的だ。
彼はわかりやすく顔をしかめ、よほど衝撃を受けているのだろう。
「あなたがやったんですか」と佐伯刑事が渡辺に向かって問いかけた。
その声に、渡辺はようやく動かせるようになった身体をぎこちなく振り向かせる。
口を開こうとするのに言葉が出てこない。
何かを吐き出そうと喉が動くが、しびれた舌はただ乾いた息しか吐き出せなかった。
自分の手が何をしたのか、頭では理解しているはずだ。
けれど心臓から送り出される血流が混乱を煽り、言葉と理性を奪ってゆく。
その様子を見かねた坂口刑事は、すぐさま渡辺の腕を掴んで手錠をかけた。
金属が擦れる音が、オフィスの暗い照明の中に残酷に響き渡る。
他の社員がこわごわと後ずさる中、渡辺はまるで人形のように連行されていく。
頬に冷たい汗が垂れ、足がもつれて転びそうになっても、佐伯刑事の無表情な横顔がそこにあった。
「どうして殺してしまったんですか」と彼はもう一度静かに問いかける。
その声だけが妙に鮮明で、神経を逆撫でするように耳に染みついた。
第1章:取り調べ室にて
硬質な金属製の扉が重々しく閉まる音に合わせるように、渡辺健二は簡素な椅子に腰を下ろした。
一面の壁には灰色のペンキが荒く塗られ、その冷たい色が視界を奪う。
細長い蛍光灯がしんとした空気を切り裂くように白い光を落としているが、眩しさよりも苛立たしさが胸を突き上げてくる。
「顔色が悪いようですね」と言いながら、佐伯刑事が隣の席に座った。
低く落ち着いた声には、感情の起伏を最小限に抑える職業的な作法が感じられる。
テーブルの向こうでは坂口刑事が腕を組み、苛立たしげに足を動かしている。
視線が渡辺の衣服に向かい、そこにこびりついた血痕をまざまざと見つめていた。
「しゃべれるか」と坂口刑事が声を荒らげるように促す。
渡辺は顔を伏せたまま、薄汚れたコンクリートの床を凝視していた。
すぐ隣にいる佐伯刑事の呼吸まで感じられそうなほど距離が近いが、部屋全体の空気はどこか突き放すように冷たい。
渡辺の鼻腔には自分の血の匂いと、他人の血の匂いが交じり合って残っていた。
事件現場で感じたあの鉄のような刺激が、まだ嗅覚の奥でゆらめいている。
いつものオフィスの匂いとはかけ離れたそれが、自分自身を蝕んでいるようで息苦しかった。
「ここに来るまで、何かを飲んだり食べたりしましたか」と佐伯刑事が問いかける。
渡辺は首を小さく振り、唇を震わせる。
声にならない囁きが何度も喉を通り過ぎるが、思考がそこに追いつかない。
坂口刑事は苛立ちを隠さず、「殺人があったんだ。あんたは被疑者なんだよ。なぜやった?」と一気にまくし立てた。
その目は理解不能な行為を前に、どうせこいつはろくな理由を話さないだろうという疑念に満ちている。
渡辺は震える指先を自分の膝の上に置き、佐伯刑事の方へゆっくり顔を向けた。
鼻筋が通った痩せぎすの顔は、脂の抜けたような肌の色をしている。
血走った眼の下に深いくまがあり、ある種の疲弊がにじみ出ていた。
「……ダジャレのせいで」
その一言が唇からこぼれるまで、何度も息を詰まらせながら声を出そうとした。
ぽつりと落ちた言葉が小さすぎて、坂口刑事は「は?」と怪訝な声を返す。
佐伯刑事はわずかに眉を寄せたまま、「ダジャレ……?」と繰り返した。
渡辺の肩が痙攣したように一度大きく揺れた。
どこからどう言葉を紡げば伝わるのか、まるで見当がつかない。
それでも自分がここまで落ちてしまった原因の発端を説明しなくてはならない。
うまく説明できずとも、あの耐えがたい言葉の連鎖と、そこに執着してくる誰かの姿だけは頭から離れない。
椅子の背にもたれかかりながら渡辺は小さく息を吐き、瞼を閉じた。
「…上司の、寒い冗談ばかりで」
まるで自分に言い聞かせるように呟いた声を聞いた坂口刑事は、苦々しげな面持ちになる。
また大声で何かを言いそうだったが、佐伯刑事が制するように腕を伸ばした。
そのしぐさには、まずはじっくりと動機を解きほぐしていくという意志が感じられる。
「すべて教えてほしい。何があったんですか」
佐伯刑事の声は限りなく穏やかだったが、渡辺にはそれがどうにも遠い響きに感じられた。
声の震えを押し込むように、彼はガリガリと頬をかいてから言葉を捻り出そうとする。
「一人でいるのが好きなわけじゃないんです。
だけど、いつも言われるんです。
『もっと笑え』とか、『ちゃんと反応しろ』とか」
その声に宿る後悔とやるせなさは、今しがた罪を犯した男の姿には見えないほど弱々しく聞こえた。
坂口刑事は「くだらない冗談にリアクションを強要された程度でどうして殺人に至る?」と追及する。
まるで答えがわかりきっているという調子だ。
渡辺はこわばった拳を握り締め、それをテーブルの上に置いた。
血で汚れたシャツの袖口が、何度も拭い取ろうとした跡を残している。
「……わかりません。
だけど、毎日が地獄だった」
かろうじてそう言い切ると、彼はまぶたの裏に焼きついた光景を追いやろうとするかのように目を強く閉じる。
取り調べ室の照明が、その表情を淡々と照らしていた。
佐伯刑事は視線を落としながらペンを転がし、坂口刑事は肩の力を抜いたように小さく舌打ちをする。
小さな机をはさんだ三人の距離は、ごく近く見えるにもかかわらず、閉ざされた溝があるかのようだった。
やがて佐伯刑事が努めて柔らかな口調で言う。
「他にも話せることはありますか」
渡辺は無言のまま、肩に残る痺れをさする。
自分の口から出たダジャレという言葉をもう一度思い出しては、そのあまりに些細な響きに居心地の悪さを覚える。
けれどそれが何かを歪ませ、凶器に手を伸ばさせるまでに追い込んだことは事実だった。
暗くくすむ壁に目を向けると、そこには灰色の影がすうっと伸びている。
その輪郭のかたちは、自分にも誰にもはっきりとわからない。
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