第5章:犯行 – 引き返せない夜

朝の満員電車を降りた途端、渡辺健二は胸の奥を蝕む嫌悪感を抑えようと顔を背ける。

頭痛がひどい。

昨晩も睡眠導入剤を飲んだのに、また幻聴のようなダジャレの囁きが夜通し続いて、結局一時間ほどしか眠れていない。

うつろな視線のままオフィスに足を踏み入れると、既に机に腰掛けた山田義男の笑い声が聞こえてきた。


「おい渡辺。

‘あんこをアンコール’ なんて言ったら、みんな腹が ‘あんこ’ でパンパンになるだろ?

はっはっは」

ぱん、と無造作に手を打ち鳴らす山田の動作が、妙に大げさに見える。

周囲の部下はすでに苦笑を浮かべ、そそくさと業務に戻ろうとしている。

渡辺は細かく震える指先を、ズボンのポケットに無理やり突っ込んだ。

彼らがうまくこの場をやり過ごすたび、自分ひとりが取り残されているようで息苦しくなる。


「そもそも ‘駅そばの蕎麦屋でソバージュ掛けたそばかすまみれの女がローリングソバット決めてた’ って話、聞いたことあるか?

あれ聞いた瞬間、笑わない奴はバカだろ?

だってローリングソバットだぜ?

そばだけにソバットってか?」

アハハ、と山田が意地のような声をあげる。

渡辺は口の端だけで笑おうとするが、脳内に鋭い痛みが走る。


引き出しを開け、書類を取り出そうとする瞬間、山田の言葉が鼓膜を鋭く刺す。

「なあ渡辺、魚の気持ちを逆なでしてないか?

お前みたいに愛想もクソもないと ‘魚(さかな)を逆(さか)なでする’ よりタチが悪いぜ。

ふっ、釣れない奴だなあ」

渡辺は下を向いたまま背を強張らせた。

その表情には余裕がまったくなく、まぶたの裏には明け方まで聴こえてきた幻聴がちらついている。


仕事を始めようとパソコンを立ち上げても、頭がぼんやりとして集中できない。

それどころか、画面の文字が二重に揺れ、こめかみを押さえても痛みが引かない。

「薬が ‘クスリ’ と笑う、なんて言われてもな。

医者から貰った薬じゃ俺は笑えねえんだよ」

渡辺は心の中でそう呟くが、声には出せない。

山田のダジャレは現実だけでなく幻聴としてもこびりついてきて、昼夜の区別なく精神を壊しにかかる。


昼休みが明け、再びデスクに戻った渡辺の耳に、あの声がずっとまとわりついて離れない。

今度は「虫が無視してきた、なんて笑い話があるんだけどな」などという呟きが、不意に頭の中でこだまする。

山田が口にした覚えのない台詞でさえ、渡辺にははっきり聞こえる。

現実と幻聴の境がわからなくなっている。


夕刻になるとオフィスに立ちこめる空気は重く、ほとんどの社員が先に帰宅した。

山田は珍しく最後まで残業している。

そして渡辺も、今日に限っては逃げるように帰ることができず、まだ雑務を残していた。

階下から上がってくる外の風が、生ぬるい埃の臭いを運ぶ。

薄暗い照明の下で、二人きり。


「お前、まだ残ってるのか。

まったく、 ‘森の葉っぱがモリモリ’ なんて話もできないくらい疲れてんのか?

ほら、少しは笑えよ。

この ‘草花をバーナーで焼く’ みたいな無慈悲な態度、やめてくれよ。

俺だってさ、楽しもうとしてるんだよ」

山田は苛立ちからか、わざと資料を机に叩きつける。

渡辺は陰鬱な視線を動かさず、一瞬だけ呼吸を止めた。


身体が異様に熱い。

喉はカラカラだというのに汗が滲む。

夜中に繰り返される悪夢と、この執拗なダジャレの洪水が頭の中でごちゃ混ぜになり、山田の声がどこから響いてくるのか判別できない。

「アメリカで理科を習うってどうよ?

インドでインドアの男に引導を渡すって話は最高だろ?

ほら、笑えって。

イギリスのリスがスイスの湖をスイスーイと泳ぐ話とか、面白くないのか?」

今も聞こえてくるのは、現実か幻聴か。

渡辺には見分けがつかない。


視界に映る山田の背中が、どこか揺れているように見える。

残業で散らかった書類とPCのモニターが薄い青白い光を放ち、その光が不気味に揺らめく。

「眠りたい…」と小さく呟いても、脳裏にはダジャレがこびりついて離れない。

「睡魔に襲われたスイマーがクロールで泳ぐのは苦労するだろ、はっはっは」

突然、耳もとで囁かれたような感覚に、渡辺は立ち上がりそうになるが膝が震えて崩れかける。


「渡辺、ちょっとこっち来い。

資料にミスがあるぞ」

現実の声か、幻聴か。

とにかく上司が呼んでいるのは確かだ。

渡辺は項垂れたままゆっくり立ち上がり、薄暗い通路を歩く。

無数のダジャレが、頭の中で渦を巻く。


「マグロがまっくろでもおかしくないだろ?

なあ、クマが言った『くまったなあ』ってのはどうだ?

鴨カモーンとか、課金した野球ゲームでホームラン打った ‘カキーン’ とか。

これら全部、めちゃくちゃ面白いだろ。

どうしてお前は笑わないんだ」

渡辺は目の奥が熱くなる。

怒りか悲しみか、もう自分でもわからない。

息を吐き出すと同時に、しびれた指先が強く握りこんでいた何か固いものに触れる。


半ば闇のように沈んだオフィスの片隅、山田はプリンタの横で書類をチェックしている。

「こっちだ、早くしろ」と苛立ち気味に手招きする山田の背に、渡辺の足音が近づいていく。

幻聴の声が頭の中でこだまする。

あのひどく退屈で、それでいて人の心を抉るように迫ってくる雑音が、しばし止まらない。


「タイでムエタイを習いたいだろ?

ナイフが無い。ふふふふ…。

ミス日本がミスをするなんて、ミステリーだよな」

言葉が瓦礫のように積み重なり、渡辺の心の余裕を奪っていく。

山田の背中が視界を塞ぎ、夕暮れに染まった窓ガラスに渡辺の姿がうっすらと映る。

そこに映る自分が、自分とは思えなかった。


「いい加減、笑えよ」

山田が振り向いた瞬間、渡辺の胸に電撃のような衝動が走る。

手を伸ばす自分を、まるで客観的に見ているような気がした。

平静さはない。

あるのは息苦しさと、顔をこわばらせた上司がそこにいるという事実だけ。


「やめろ――何してる、渡辺」

山田が焦った声を漏らすが、その声すらダジャレの雑音にかき消されるように聞こえた。

頭は割れそうに痛み、歯を食いしばりながら渡辺は勢いのまま山田の身体を何度も突き飛ばす。

「笑えって言うな…頼むから、もう言うな…」

瞳が涙と血のような赤い色彩を滲ませ、最後まで何かを必死に訴えるような山田の姿が、やがて地面に崩れ落ちる。


冷房の効いた室内に充満していた熱量が、一気に引き払っていくような感覚がする。

濡れた床、無造作に転がる椅子、そして山田の微動だにしない身体。

渡辺の耳にはまだ、幻聴のダジャレがこびりついていたが、現実の風景は驚くほど静かだった。

血だまりの輪郭が少しずつ広がっていくのを目にしても、渡辺は何も感じられない。


「あのダジャレを、もう聞かなくていいんだろうか…」

思考が焦点を失い、揺れ動く蛍光灯の明かりをぼんやり見上げる。

誰かが駆け寄る足音と、遠くで悲鳴をあげるような声が聞こえる。

現実と幻聴の境目がようやく切り離されたのか、それともすべてが壊れてしまったのか。

渡辺の手のひらからは、生々しい温度だけがゆっくりと伝わって消えていった。

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