第6話 少年呼びお姉さんに身の上話をする

 母は世間的に見れば玉の輿の勝ち組だった。美人の母はイベントのコンパニオンだとかをやっていて、そこでうまいこと大企業勤めで出世コースに乗っていた父と知り合い、僕を妊娠して結婚まで漕ぎ着けたようだった。

 けれど母の受難はそこからだった。父の交友関係にある人はみんな高学歴で、偏差値六十以上の大学を卒業しているのが普通だった。父は母の学歴を気にする風ではなかったけれど、彼らからなにか嫌な目に遭わされたのだろう母は、そのコンプレックスを息子の僕で解消しようと試みた。


「それで母は教育ママです。もの心ついたときから塾に通ってお受験で、小中高と進学先も母の決めた進学校に通いました。当然ですよね。父にできたことが僕にできなかったら、原因は劣等な母の血ということになるから。だから母の劣等感の埋め合わせに、父と同じ東大卒業が僕の生きる価値の最低条件になったんです」


 バカバカしいと思いながら、それでも母が必死な理由も想像できたのは、僕が進学校にあっては劣等な学力だったからだろう。母が悲しい顔をするから僕も必死に勉強したが、同級生との差は埋まらないまま焦燥だけが積み重なって、最後に受けた共通テスト模試も東大の足切りラインを越えなかった。


「そうしたら今朝、試験会場にむかう電車に足が震えて乗れなくなって、そんなときに母から『絶対合格』って応援メッセが届いて、本当に無理になって、気づいたら反対方向の電車に乗ってて、それがとてもホッとして、胸のつかえがなくなって、楽で、息ができて、そのまま――」


 他人事のような口調でずっと話してきて、僕はそこで頬に冷たいものが流れるのを感じた。指で触れる。涙だった。僕は泣いていた。なんでと思いながら、羞恥の誤魔化しに空を見上げる。すると灰空にちらちらと舞う白いものが僕の目に映った。

 雪だ。

 気づけば一段と冷えた冬風が、僕の顔の不様をあざけるようになでていき、灰色の最果ての景色に悲しみを加えるように白く雪が降ってくる。そのむこうに広がる海はまるでその先が虚無であるかのように薄暗く、ただ冷然と温度のない波音を磯浜に響かせている。

 僕はこの光景に僕の心に気がついた。

 ずっと心に雪を積もらせてきた。冷たい虚無感が見えないように、雪の下に閉ざしてきた。母の期待もエゴも、僕がうまくやれば解決するものだって、そんな悲しい心は雪の下に隠して生きてきたのだ。

 波音が響く。

 けれど知っていたのだ。雪の下から響く波音に。耳を塞いできたのだ。僕の悲鳴に。それに気づいた瞬間に、僕の心は雪崩なだれを起こしてしまった。どうしようもなく崩れてしまった。後戻りできないくらい崩れてしまった。

 それが涙になって頬を流れる。


「なるほど――」


 涙に黙ってしまった僕に、お姉さんが重々しく頷く。こんなつまらない話を聞かせてしまったことに申し訳ない気持ちを抱いた僕に、しかしお姉さんが口にした言葉はあまりに想定外のものだった。


「日東駒専をバカにしているという訳だね。今この瞬間に七万人の現役日大生が敵に回ったよ、少年」


 人の涙ながらの身の上話を聞いておいてそこかよと思いつつ、涙をぬぐいながらお姉さんに恐る恐る訊く。


「……日大なんですか?」

「日大なめんなよ! 七万人でタックルするぞ! 赤門も一撃だぞ、こら!」


 激昂するお姉さん。赤門を粉砕する七万人の日大タックルの想像に、僕は思わず噴き出して腹を抱えて大笑いした。ビーフジャーキーをくちゃくちゃしながら、それを見ていたお姉さんが「まあ、あれだ」と一息ついて、ようやく僕の身の上話にまともな感想を述べる。


「つまり少年はつま先立ちに疲れて、もう転んで楽になりたいとここまで逃避してきたと」


 そう要約されると身もふたもないなと感じながら、僕はお姉さんに一番教えて欲しい感想を訊ねた。


「悪いこと、ですかね?」

「飲むかい?」


 するとお姉さんは缶チューハイを突き出して逆にそう訊いてきた。僕が戸惑いながら「いえ」と首を振ると、お姉さんは笑いながら引っ込めた缶チューハイを飲んで言った。


「なら大丈夫じゃない? 悪いお姉さんの誘惑を断れたんだから、きっと少年は大丈夫だよ。たぶん」

「たぶんって」

「そこまで知らんがな。悪いお姉さんに訊くない」


 軽く適当なお姉さんの言葉は、けれどなんだかとても力強く聞こえて、この言葉を噛み締めるように僕はお姉さんの横顔をじっと見つめた。


「……まあ、泣いて笑ってスッキリしたんだからオーライでしょ。背伸びの頑張りもいいけど、こういう逃避の時間も人生には必要だということで――はい、まとめ終わり」


 僕の視線に耐えられなかったのか、缶チューハイを木柵に置いたお姉さんは照れ隠しのようにパンと手を叩き、この話を打ち切った。


「そうですね――」


 寒さは一層に増し、降る雪もだんだんと大粒に変わる。

 けれど僕は――かかとを下ろした僕は、この雪を悲しいと感じなくなっている自分に気づいた。

 背中のカイロが暖かかった。

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