第2話 少年呼びお姉さんと行き先不明のバスに乗る

「なんもねぇー!」


 終点の三崎口駅を降りると、お姉さんは駅前の光景に開口一番そう笑った。

 目立つものはコンビニくらいしかない駅前ロータリーには背の高い建物などなく、他には駅前の道路に並ぶ電柱の電線が低く重い灰色の冬空の下で寂しく吊られているのが見えるぐらいの場所だった。寒々とした冬の風に混じって聞こえる音も道路を行き交う車の走行音くらいの静けさで、最果ての駅の空気を肌でひしひしと感じられる駅前だった。


「それで、どこへ行くつもりだったんですか?」

「そりゃキミもじゃん。まあ、とりあえず酒を補給」


 そう言ってお姉さんはコンビニに入ってしまった。僕は溜め息を吐きながら、成り行きで行動を共にすることになった変なお姉さんのことを考えた。お姉さん曰く「ばっくれ仲間同士、一緒に逃避行を楽しもうぜ」らしい。初対面の人間にこんな距離感で誘われたことのない僕は、どう断ればいいのかわからずに流れで一緒に駅を出てきてしまった。「こんな酔っ払いと大丈夫なのか」という理性と「なにを今さら」という感情の投げやりが心の中に転がって、僕は溜め息をもう一度、諦念とともに吐き出しながら、ビニール袋をぶら下げてコンビニから手を振りつつ出てきたお姉さんを迎えた。


「なんかバス乗らないとどこにも行けないらしいよ、ここ。あ、バス来た」


 お姉さんはコンビニで仕入れたらしいそんな情報を話しながらロータリーに入ってきたバスを指差す。


「とりあえず乗ろ。どこ行くか知らんけど」


 知らない土地でそんなとりあえずで大丈夫かなと思いながら、お姉さんに引っ張られるようにバスに乗る。しかし今朝、今までの人生の目的を投げ捨ててきた僕に、どこに行くかなんて決める意思も気力もないのだから、この状況はかえってちょうどいいことかもしれなかった。


「いやー、わくわくしてきたねぇー。ほら、おやつ」


 バスの最後尾の席に陣取るように座ったお姉さんの横に一人分の隙間を開けて座ると、この隙間を詰めて僕に寄りながらお姉さんはコンビニで買ったらしいビーフジャーキーを差し出してきた。


「バスは飲食禁止ですよ」

「おお、こいつは失敬」


 僕ら以外に十人くらいの客を乗せてバスが走り出す。僕が周りの目を気にしながらビーフジャーキーを押し返すと、お姉さんの赤ら顔がふむふむと訳知り顔で頷いた。


「キミは生真面目なタイプそうだね、少年」

「悪いですか?」

「いんや。そんな少年がハメを外す現場に立ち会えて光栄だなーと」


 僕の不満顔が面白かったのか、お姉さんはにんまりとした笑顔で僕の肩をポンポン叩いた。そんな子ども扱いに僕はムッと問い返す。


「お姉さんはどうなんです?」

「あたし?」


 きょとんとしたお姉さんは、にぱっと遊び甲斐のあるおもちゃを見つけた子供のような顔をして、僕との距離をぐっと詰めてきた。逃げようと身体を反らす僕を捕まえて、お姉さんの腕が僕の首にがっしりと掛けられる。


「見ての通りだよー。行きずりの少年をデートに誘う悪いお姉さんですよー」


 さらさらしたお姉さんの髪が僕の頬に触れ、同時に酒臭い吐息が僕の鼻先をかすめた。


「……不真面目なタイプそうですね」

「悪い?」


 不意の刺激にドキリとした胸の高鳴りと、それに冷や水を掛ける鼻先の酒の臭いに、僕はこちらのリアクションに期待のまなざしをむけるお姉さんの笑顔から目を逸らして、今の自分の正直な感想を教えてあげた。


「そんな大人がハメを外す現場に立ち会えて災難だな、と」

「言うねぇー。お姉さん気に入ったよ、真面目な少年くんを」


 そうカラカラ笑いながら僕の背中をパンパン叩くお姉さんに溜め息を返しながら、僕はいくら投げやりな気分でも初対面の酔っ払いと行きずり同行したのは失敗だったかと、少しだけ後悔を始めていた。

 けれどバスは進む。行く先もわからずに乗ったバスは、僕のここに至るまでの苦しみも決断も不安も後悔も全部知らないこととして、ただ終点へとむかって走っていく。


「お、なんか橋の上だよ」


 お姉さんの声に窓の外を見ると、冬の灰色の海を挟んで左右に広がる港が見えた。反対側の窓を見ても海を挟んだ左右の両岸に分かれていて、この道はどうやら島へと渡る橋らしい。そこで車内アナウンスが流れた。


「なんか島らしいですね。城ケ島だって」


 ようやく真面目に聞いた車内アナウンスで行き先を知ると、お姉さんは満足げな顔で僕にこう訊いてきた。


「いいねぇ、島。いよいよ最果てっぽくなってきて、逃避行って感じじゃない?」

「愛とかロマンのある逃避行じゃなくて、試験からの逃避行ですけどね」

「若いわねぇ。違うのよ。逆なのよ。ロマンが逃避行を生むんじゃなくて、逃避行がロマンを生むものなのよ――」


 簡単に同意するのもしゃくに思えて皮肉で返すと、お姉さんはニヤニヤ笑いながらさとすように語り、


「――愛とかの」


 最後の一言をそう僕の耳元に囁いてきた。


「それは本当に悪いお姉さんですね」

「あはは、そりゃあたし不真面目なタイプだから」


 照れてやるのも面白くないと思った僕のスカした態度にお姉さんが笑っている内にバスは橋を渡り切る。

 逃避行。

 母の顔が脳裏によぎる。

 これが逃避なのは動かしがたい事実で、僕はロマンの欠片もない苦い感情を噛み締めながら、酔っぱらいの悪いお姉さんと行きずりに最果てへと走るバスの揺れに身を委ねた。

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