第4話 乾坤一擲の激闘
「始める前にちょっと水を飲ませていただきます」
「緊張で喉が渇いたのか? ま、好きなだけ飲めよ」
「もちろん、あなたには飲ませませんけど。期待していたところ申し訳ありません」
「微塵もしてねぇよ」
大我の抗議を涼しい顔で受け流し、六花は持参した
さりげなく手で遮って飲むふりをするが、彼は当然なにも気づかず、こちらを舐めきった態度で耳など掻いている。
仕込みは上々だ。
「ふうっ、満足しました。では始めましょう」
「はいはい、さっさと来いよ」
大我は武器も持たないまま、人差し指をくいくい動かして攻撃を誘う。
だが六花は大きく後方へ跳んで間を外した。
近いようで遠い、彼の身長の五倍ほどの距離が開く。
「なんだよ、もう怖じ気づいたのか? 口ほどにもねぇ」
大我が拍子抜けした声を出すが、実際にはこれが六花の最適な間合いだった。
相手は男。
しかも腕自慢の武人にわざわざ近づいて戦うほど愚かではない。
自分の得意とする中距離で、つかず離れず翻弄しながら倒させてもらう。
(まずは小手調べに……)
六花は足元の小石を拾い上げると素早く投げた。
ひゅんと鋭い音。
顔面狙い。
このまま行けば額に命中して大我は昏倒する。
実際、ならず者を何度か倒したこともある実践的な投石術なのだが――。
大我はその場から微動だにせず、片手で小石を止めた。
「よせよせ。そんなの俺には通じねぇよ」
「そのようですね……」
六花が認めたのは大我が小石を止めるのに三本の指しか使わなかったからだ。
人差し指と小指を立てて狐の顔をかたどって掴み、つまりは完全に遊んでいた。
(まともじゃない)
平静を装いつつも六花の背中を冷たい汗が伝う。
この男が並はずれた実力者なのは、もはや疑いようがなかった。
「出し惜しみしてないで得意の道術を使ったらどうだ?」
「ご親切にどうも。それでは遠慮なく」
様子見はこの辺にして六花は本気を出すことにした。
すっと息を吸って精神統一する。
万物には道があり、それは大いなる根源の力とつながっている。
その力の一部を利用して効果をもたらすのが六花の道術の原理だ。
「
六花の体内で回路が開いて目に見えない力が流れ込んでくる。
それが全身から溢れ、この場に充満することで敵との間にも道を作るのだ。
この世界の道術――とくに六花の術はなんでもありの奇跡の力ではなく、発動させるために必要な手順や条件が存在する。
相手の立場からすると、それは理屈で構築された一種の謎かけであり、知恵比べとも言えるのだが。
下地を整えた六花は術の第二段階に移る。
「《術理通告》――今からあなたを取り囲む大きな図形を描きます。五行の
「……なんだそりゃ? 混乱を誘ってるのか」
大我が訝しげに六花を見る。
「そんなわけないでしょう。脳みそ虫けらですか。自分の術を強化するんです」
「お前こそ頭大丈夫か? これから自分がすることを敵に教えて、なんの意味があるんだよ? そもそも無理だ。戦闘中にそんな真似、悠長にしてられない」
「それは思い込み。人間やる気になればなんでもできます」
「急に精神論を語るなよ」
「さて、わたしはどうやって、あなたを取り囲むように相克図を描くのでしょう?」
六花の術の第二段階では力を発現させるための方法を提示する。
これには道具を用いる《呪具使用》や、対象に飲食物を与える《体内摂取》など様々な種類があるが、今回使ったのは言葉を投げかける手法――《術理通告》。
かくかくしかじか、こんな準備をします、と敵に教えて理解させるのだ。
敵がそれを警戒しようが、鼻で笑おうが、内容を認識してなんらかの感情を抱いた時点で関係性が生まれる。
それによる精神的な綱引きで、術の力を増幅させる技術だった。
今の六花と大我は既に術の共犯関係の中にあるのだ。
「馬鹿馬鹿しい。できるものならやってみろよ。無理だろうけど」
「それでは有言実行させていただきます。ああ、この棒がいいですね」
六花が落ちていた木の棒を拾ったのを見て、大我が眉を持ち上げる。
「おいおい、まさかその棒で地面に描くのか?」
「ふむ、悪くない握り心地。重さもちょうどいい。きっと猿たちの遊び道具だったのでしょう」
六花が木の棒で地面にがりがり線を引き始めるのを見て、大我がため息をつく。
「なあ、五行の相克図ってあれだろ? 木は土に克ち、土は水に克ち……みたいな五芒星の形してるやつだろ。星の中心に俺を据えて今からそれを書くのか?」
「だとしたら?」
「呆れ果てる。お前が描き終わるまで、俺がぼけっと待ってるとでも思うのかよ?」
「いえいえ、さすがにそこまで楽だと興ざめです。ひたむきに相克図を描く、いたいけな少女を邪魔してはいかがでしょう? 走り回って妨害したらどうです? さかりのついた駄犬みたいに」
「ちょっとむかつくな、それ」
大我が小さく息を吐き、六花が先ほど投げた小石を手のひらの上で軽く弄んだ。
それが突然消える。
投げたのか? 速すぎて見えない。
次の瞬間、間近で弾けるようなすごい音がして六花の手に強烈な衝撃が伝わる。
思わず落としてしまった。
地面に目をやると、今まで持っていた木の棒が真ん中の辺りで砕けている。
思わず背筋に鳥肌が立って心臓が早鐘を打つも、懸命に平静を装った。
「……驚いた」
「いたいけな少女には当ててねぇよ? 棒は壊したけどな」
「まるで自分は攻撃してないとでも言いたげ! なんか逆に腹が立ちます。本当、あなたが自信過剰の愚かな悪少年でよかった。うまく策略にはまってくれなければ勝てませんでした」
「どういう意味だ? なんだか勝利宣言みたいに聞こえるんだが」
「仰る通り。だってもう勝ちが決まりましたから」
六花はにやりと笑う。
警戒心を蝕む話術で、のらりくらりと時間を稼いだ甲斐があった。
さらに言うと、あえて敏捷に動き回らないことで同調行動を誘い、大我がその場に立ち止まっている状況を作ってもいたのだ。
六花は懐から小型の缶を取り出すと蓋を開ける。
缶には着色に使う黒い粉末が入っており、そこに思いきり息を吹きかけた。
ふううっ――。
すると黒い粉が勢いよく煙のように洞窟内に充満する。
「うわっ? おい、なんの真似だよ!」
抗議の声がするが、後の祭りだ。
やがて煙が引いたところには、黒い線で描かれた巨大な相克図が出現している。
その中心には大我の姿があった。
地面から少し浮いた場所に描かれた相克図にまんまと取り囲まれている。
「馬鹿な! これは――糸……だと? いつの間に」
大我に睨まれた六花は胸の前で手のひらを上へ向けた。
するとそこに洞窟の天井から小さな白い蜘蛛がすうっと下りてきて、左の前脚を振って大我に挨拶する。
「……その蜘蛛は?」
「わたしの仙骨に宿っていた
「蛛精? 白亜だと?」
「蛛精とは文字通り蜘蛛の精のこと。どういうわけか、わたしの体の中には生まれつきこの子がいて、ずっと守ってくれていたそうなんです。まあ一種の分身ですね」
「そんなことがあるのか……」
「世の中、不思議なこともあるものです」
思い返せば子供の頃から妙に体力だけはあった。
あれは白亜が栄養分を補給してくれていたからなのだろうと六花は思う。
「そんな蛛精の白亜を仙妃様が体内から取り出してくれて、今では最高の相棒。あなたの恋人がノミなのと、まあ似たようなものです」
「誰がノミの恋人だ」
普段、白亜は見えない糸で結んで放し飼いにしているが、さすがに泳ぐのは無理。
だから滝壺に飛び込む前に呼び戻して瓢箪に入れた。
そして勝負前に水を飲むふりをして栓を抜き、外へ出したのである。
自由の身になった白亜は小さな体を活かして見つからないように跳び回り、あちこちに糸を張った。
粘液で作られた
蜘蛛の糸には粘る糸と粘らない糸があり、その違いは粘球の有無だ。
蜘蛛は自分が移動するときは粘球のついていない非粘着性の糸を伝っていく。
逆になにかを粘着させたい糸には粘球を大量につけておくのだ。
「わたしが撒き散らした色づけ用の黒い粉末。あれが付着したのは白亜が相克図の形に張り巡らせた粘着性の糸というわけでした」
「なるほど、粉を粘着させて図を描く……。お前は糸が張られるまでの時間稼ぎをすればいいだけだったと」
「さて、事前に説明したことは実現しました。今のあなたは予告通り、五行の相克図に囲まれてます」
「まったく……。でもまぁ認めざるを得ないか。その気になればやり方は色々あったのに警戒心を放棄してた。完全にしてやられたな」
「ほんのわずかな敗北感。でもこの術は心の綱引きですから、容赦なく最終段階に移らせてもらいます。道術発現――《陣》!」
「うっ?」
その瞬間、光り輝く強靱な糸が大我の手足に巻き付いて自由を奪う。
否、それは今巻き付いたのではなく、他の糸が張られたときに既に緩くからみついていたのだ。
ただ、曖昧な状態にとどめて物質化していなかっただけ。
六花の《陣》が完成し、術の力を最大限まで高めた上で実体化したのである。
術理通告の手続きを踏んだ、普通なら存在しえない道術の糸の縛り。
大我の心の隙間にまで入り込んで動きを封じる、その糸の強度は圧倒的だ。
「
「くそっ? なんだこの糸……全然切れねぇ!」
「虎や熊が暴れても、びくともしませんよ。では、とどめ」
六花が合図すると白亜が大我の肩へひゅんと飛び移る。
そして小さな牙で首筋を噛んだ。
「――痛っ?」
「はい、蛛精の毒腺から分泌された猛毒が今あなたの体に入りました。これでわたしの勝ち確定。最初から最後まで計画通りの圧勝ですね」
お前なぁっ、と吠えつつも動けない大我を見ながら六花は内心ほっと安堵する。
最強の相手との戦いが今やっと終わった。
今後これほど強い敵と正面切ってやり合うことは決してないだろう。
(頭を使うのは得意だけど……こんな危ない橋を渡るのは二度とごめんだ)
かくして六花は一世一代の大勝負に見事な勝利を収めたのだった。
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